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仕事で疲れた体に鞭うって家に帰ると、玄関前に男がいた。

「ああ、三津君!おかえり!」
「帰りなさいっ!」



* * *


マンションの玄関前にて押し問答を繰り返していると、扉から顔をだしたお隣さんに疎ましそうな視線を貰ってしまった。
すみませんと平謝りして、仕方なく、嫌々、渋々、男を部屋に上げてやる。

「いやあ、いつ来ても三津君の部屋は片付いてるな」
「・・・一昨日も来たじゃねえかよ」
「ん?」
「いいえ、なんでも」

思わず素のトーンで呟いてしまった。ウザくても敬語だけでも崩さないようにしなければ。曲がりなりにもこいつは上司なのだ。そもそも平社員が残業で帰ってきたのに何故に上司のこいつは先に俺の自宅で待機しているのか。

ことの起こりは昨年末の会社の飲み会。
顔よく人当たりよく、仕事も出来、上層部からのパワハラセクハラの壁にもなってくれる独身貴族のこの男──篠原上司は男女共に部下からの人気が爆上がりで、飲み会の二次会、三次会まで連れ回されて
「参ったな、終電逃しそうだ」
と苦笑していたところを
「篠原さんギブだって!終電なくなるって!ってかもう解散〜!」
と、結局終電がなくなり、家が近かった俺が篠原さんを引き上げてやったのが運の尽き。

「えっ!飲み地獄から助けてもらって風呂に寝床まで与えてもらったのに、朝ご飯までいいのかな」

それでも「悪いなぁ」と言いつつ小さいローテーブルの前にいそいそと座る篠原さん。
用意した朝食は田舎から送ってもらった白米と、豆腐とネギの味噌汁、目玉焼きとソーセージ。シンプルな朝食にそこまで感動してもらえると何ともむず痒いが、悪い気はしない。むしろ味のりをおまけで差し出すのもやぶさかではないといい気になった。
俺も正面に座って、二人同時に「いただきます」を唱える。

「ああ、人様にご飯作ってもらうの、どれくらいぶりだろう」
「え、彼女さんいないんですか?」
「いないねぇ」
「意外・・・篠原さんめっちゃモテそうなのに」
「だったらもう結婚して子供がいてもいい歳だ」

味噌汁を啜りながらカラカラ笑う篠原さんに、それもそうかと納得した。なにより篠原さんの左手薬指は何の飾りもない。女子社員が篠原さんを狙ってる理由もそこにある。

「そっすね。大変失礼しました」
「いえいえ。それに俺ゲイだし、どっちにしろ彼女は作らないかな」

味噌汁噴いた。

「え、ゲ、え?」
「あ、ティッシュティッシュ」

口の端から垂れる味噌汁に、慌てて引き抜いたティッシュペーパーを宛がわれる。ティーシャツにシミを作るが、パジャマ兼部屋着のそれはだいぶくたびれているので問題はない。問題なのは、そのシミを篠原さんがポンポンとついでに拭いてくれていることだ。

「まあ彼氏だって全然作ってないけどね」
「へ、へ〜」

甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる上司の意外過ぎる癖に愛想笑いも相槌もうまく返せず、当たり障りもない流ししか出来なかった。
話してくれたから聞いてもいいのかもしれないけれど、正直これは聞きたくない話の類いだ。何て言うかデリケート過ぎて、地雷が多過ぎて、下手に話に触れられない、俺の手にはおえない話だ。

「三津君、この話やばいんじゃって顔してる」
「え!いや、あの、そんなことは──でも大事な話だし、俺に話してもいいのかなってのは・・・」
「はは、優しいなぁ」

あらかた拭い終わった味噌汁のシミに一瞥くれてから、その近すぎる距離でふわりと笑われた。
年齢のわりにシワも弛みもない、けれど自分にはないアダルトな色気に一瞬ドキリとした。
俺のドキマギを気にすることなく「ゴミ箱はこれ?」と部屋の隅にあるゴミ箱へティッシュを捨てると、そのまま元いた場所へ腰を下ろす。そして何事もなかったかのように朝食を食べ始めるのだから、何なんだ一体としか言いようがない。

「三津君って、」
「は、はい」
「場の空気が読めて、人に優しくて、倹約的で家庭的な料理が作れて、俺の好みだな」

へ? と声にはならずに間抜けにも口だけがポカンと開いた。

「それにこの家すごく居心地がよくて、昨日は久しぶりにぐっすり眠れたよ」
「・・・それはアルコールを摂ったからでは」

震える声で突っ込みを入れたが、それは女子社員なら卒倒しそうなレベルの妖艶な笑みに一蹴され、俺は鳥肌総動員だった。

「いいなあ、三津君」



* * *



それ以来、篠原さんに気に入られてしまった上、住まいもバレてしまった俺は逃げ場を失ってしまった。
パワハラセクハラからの壁になってくれる上司、篠原さんとは一体誰のことだ。

「あの、俺今日残業でめちゃくちゃ疲れてるし、飯も食ってきちゃったんで、風呂入ってすぐ寝たいんすよ」

だから飯も作らないし相手もしない、すぐ帰れという意味を含めてそう言えば、篠原さんは嬉しそうに手に持っていた紙袋を掲げて見せた。

「じゃあ晩酌にどうかな?」
「はあ?」
「貰い物なんだけど、モンラッシェ。飲んでみたくない?」

友人にコレクターがいてね、誕生日に貰ったんだけど中々飲む機会がなくて、一人で飲むのも寂しいし──と話し出す篠原さんが包みから出したその白ワインに釘付けになり、ついでに生唾も飲み込んだ。
これだ。これが憎いのだ。
そんな高価で入手困難な代物を、度々篠原さんは手土産として気軽に持ってくるのだ。

「チーズと生ハムもあるんだけど」
「うう〜〜」
「ふふ、お風呂いっといで」

そうやって遅くまで飲んだから、またうちに泊まると言うのが篠原さんの魂胆だ。頂き物の額が額なだけに追い返すこともできないし、くそっと心で悪態をついて、またも篠原さんへの敗北に項垂れるのであった。



* * * 



言っちゃあなんだけど、一応大事なことなので言っておくことにするが、貞操の危機というものは今のところない。
酔わされて襲われたり、寝ているところを襲われたり、スキンシップと乗じて襲われたり、そんなことは一切ない。
あくまでも一緒に晩飯を食べて、泊めて、朝食を食べたら篠原さんは帰っていくのだ。健全っちゃ健全だし、口説かれたのもあの夜が初めてだ。だから俺も「貴方の好意には応えられない」と、ハッキリとしたノーが言えないし、高価なものを貰ってる手前「もう来ないでください」とも言い難い。
けれどどちらかひとつの断り文句を選べというならば、それはもちろん好意を断るよりは容易い後者だろう。



「そういう、プレゼントとかは正直困ります」

だから何度目かのある日、俺はひとけのない会社の廊下で「今日伺ってもいいかな?いいもの手にいれたんだけど」とニコニコしながら近寄ってきた篠原さんに苦言を呈した。
きょとんと、年より若く見えそうなお惚け顔をされる。

「どうして?」
「・・・し、篠原さんを好きになる理由が、物をくれるからとかになったら嫌でしょう?」
「財力も魅力のひとつだと思うけど」
「金の切れ目が縁の切れ目って言葉、知っておいた方がいいですよ」
「肝に命じておくけど」

けど。
けど何だと、一応会社では上司と部下との関係だし、その上司の好意をやんわりと拒絶しているのだから俺はちょっとびくついてしまう。
対する篠原さんは顎にてを添えて、うーんと考えるように宙をみる。

「いやね、そういうモノで釣られる・・・って言ったら言葉は悪いか、うーん、プレゼントを切っ掛けにこっちに靡いてくれたらいいなっていう口実は確かにあったよ。だって三津君は男を、俺をそういう目で見れないでしょう?だからまあ、まずは経済力のアピールからかなぁって」
「・・・俺、そんな金目に弱そうっすか」

そりゃ確かに頂き物は有り難かったが、だからと言って好きにはならない。少しの怒りも込めてそう言うと、なぜだか篠原さんはますます笑みを深くしていた。

「いいや?高価なものを与えられても人を好きにならないというのも実に好ましいなと思ってね。ただ、本当に贈り物は俺への関心の切っ掛けになればいいなとは思っていたんだよ。でも、そうか、もう魂胆もばらしちゃったし、いらないってことは──」

篠原さんがすれ違い様に、少し腰を落として俺の耳に唇を寄せた。

「──これから本気で落としに行って良いんだね?」

ぞくり、と戦慄が走り反応に遅れてしまった。
言い訳しようにも振り返れば篠原さんはもう部署に戻ったのか姿はなく、俺はぽつんと廊下に一人。

どうしよう、どうする、これからどうなる?

慌てふためく俺にも解ったことは一つだけ。


「事態の悪化・・・」


それだけだった。



おわり

小話 111:2019/08/20

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