寂しがる山野井くん

 その日帝都ホテルは、朝から慌ただしい気配に支配されていた。と言ってもそれはあくまで裏方の事情であって、誰一人客の前ではおくびにも出さない。表向きは普段と何一つ変わらない、優雅で上品な国内三指のホテルだ。
 特別気をもんでいるのは、宴会場を担当するスタッフ達だろう。今日は中宴会場に立て続けに披露宴の予約が入っているし、それが終わったかと思えば、今度は夜から大宴会場で特権階級の集まる盛大なパーティが予定されている。披露宴のチームとパーティのチームが別であるのは彼らにとって幸いだろう。
 しかしハイソサエティな催しに慣れているスタッフ達でも、名だたる名家や大企業の重役達が一堂に会するとなれば緊張を強いられる。準備が完璧だ、と思っても、やはり不安で何度も何度も確認したくなる……と、山野井はスタッフの苦笑を聞いた。
 その常日頃以上の気配りや完璧さの求められるパーティの参加者の中に、三宮財閥の若社長――三宮万里の名前があることを、山野井は知っている。
 一介のベルボーイでしかない山野井が、何故普通知り得ない参加者の一人を知っているかといえば、三宮当人から聞かされたからだ。早めのチェックインをした客を案内しながら、こっそりと苦笑した。
 誰も、まさか特別な人間でもないベルボーイが、大財閥の若い当主と関係があるなんて思いもしないだろう。用もないのにホテルに訪っては、ロビーに併設されたラウンジに居座って山野井を眺めたりしているから、もしかして……とスタッフ間では噂になりつつあるけれど。
 山野井も、まさかそんな別世界の人間と関わり合うことになるとは思ってもみなかった。普段通りに働いていたらどういったわけか三宮に気に入られて、時間のあるときに彼の屋敷で執事をすることになってしまったのだ。屋敷には他にも執事が複数あるが、三宮の住処はとにかく広いからその分人数も必要なのだろう。
 ――と、当初は思っていた。最近は、興味のある人間を執事として傍に置くのは、ただ単に彼の趣味で蒐集癖なのではないかと疑っている。
 執事として三宮のところに顔を出すうちに、これもまたどういうわけなのか、三宮とおかしな関係になってしまっていた。三宮の気紛れで身体を制圧され、そのあと居心地が悪くなるほど甘やかされる。稀にそのまま、同じベッドで翌朝を迎えてしまうこともあった。
 どう言うつもりで三宮が戯れるのか、訊ねたことはない。いたずらなら他の執事にだってしている様子だから、きっと遊びだとか無聊の慰めだとか、その程度に違いないのだ。
 そこまで考えて、山野井は三宮の声を思い出す。最中の、極まりそうな時の切羽詰まったように山野井を呼ぶ声と、事後にとびきり甘く名を囁く声。
 遊んでいるなら、どうしてあんな風に切なく呼ぶ――。
 三宮には山野井との関係など、所詮遊びに過ぎないのだ。なのにそうやって呼ばれると、勘違いをしてしまいそうで辛い。
 自分が三宮にとって、他の執事とは違う特別な存在なのではないか――。そんな勘違いは、自意識過剰は、何だかあまりに惨めな気分になる。

(嫌だな。これじゃ俺、万里のこと、好きみたいだ)

 あんな男を好きになったところで、苦しいだけだ。表情を『帝都ホテルのベルボーイ』として相応しいそれに取り繕うのと同時に、職務と無関係な思惟を心の奥底に押し込めた。
 だが――はりつけ直した仮面は、数時間後に剥がれ落ちる。
 チェックインの時刻が過ぎると、宴会スタッフ達の内心の忙しなさは山野井らベルボーイ達にも伝播した。宿泊客が続々とホテルに姿を現し、山野井はそれこそベルデスクに戻る暇もなくフロントと客室を行き来する。中にはちょうど手のあいたベルボーイがあったにもかかわらず、山野井を指名してくる客もいた。そういった者は案内の最中に親しげに話しかけてくる。しかも決まって上流階級の人間だから、会話をするのにも緊張する。
 人よりも良い暮らしをしているからといって、彼らが人間ではないということなどない。それは三宮との時間を過ごしたこともあるから、以前より増して承知している。客とスタッフという立場の違いこそあれ、同じ人間なのだからそこまで緊張する必要はないのだ。全体、山野井を指名してくる人は誰もが穏やかで高慢なところのない人物だから、多少の失敗で厳しく叱責されることもない。まるで孫を見るように微笑ましげにされることのほうが多かった。
 仮面が剥がれたのは、指名してきた好々爺を本館上層階のインペリアルフロアまで案内し終わって、ロビーに戻った時だった。

(――万……里?)

 パーティの開始まであと一時間程度になった頃だった。ホテルに現れた三宮が、山野井の同僚のベルガールの案内で部屋へ向かっているのを目撃したのだ。三宮はいつもなら、山野井がいなければ戻るまで待つような男だというのに。
 三宮は山野井に気付いた様子もない。半ば愕然とした気持ちで、山野井はエレベーターの中に消えていく男女を見送った。

「山野井?」
「あ――はい」

 声をかけられ、振り向いた。その先では、スーツと見紛う制服に身を包んだコンシェルジュが訝しそうに眉を寄せている。

「どうした。ご案内がすんだのなら、早くベルデスクに戻る、戻る。一旦落ち着いたけど、この後もお客様はいらっしゃるんだから」
「いえ……すみません、戻ります」

 軽く頭を下げて、背筋をぴんと伸ばして綺麗に歩く。どんなに慌てていても、それをお客様に気取らせてはけっしてならない――。毎日念を押すように繰り返し言われる言葉は、山野井の髄までしみ込んでいる。
 山野井の退勤時間は、午後七時にパーティが始まってから三十分過ぎた頃だった。ロッカールームで私服に着替えて帰ろうとすると、同じく勤務を終えたスタッフ達に捕まった。

「三宮様、珍しく山野井指名しなかったな」

 老舗の高級ホテルに勤める人間でも、下世話な部類は少なからず存在する。好奇心と野次馬根性丸出しで言ってきたのも、話に加わっているのも、そういった人間だった。
 そんな話をするだけだったら、さっさと帰らせて欲しい。心の中だけでうんざりとする。

「待つ時間がなかっただけじゃないの? そもそも、ベルボーイに、本当は指名も何もないでしょ」

 苦笑を見せて鞄を肩にかけたが、フロントクラークの女性に鞄の端を控えめに掴まれた。

「でも、山野井君は結構、お客様に人気よね。ご年配とか、初老の男性には特に。山野井君に会うためにうちを利用する、っていう上客の方もいらっしゃるし。だからなかなかフロント・サービスから異動させてもらえないんだよねえ。誰々さんいらっしゃらないの、って聞かれるの、山野井君だけじゃあ、そりゃあないけど。それは置いといて……三宮様は中でも特別、山野井君にこだわってる感じがする。これ、女の勘ね」
「こだわられてもなあ……」

 今度は心底からの苦笑だった。
 こだわられたって困る。いや、そもそも三宮に、山野井に対する特別なこだわりなどというものは存在しない。勤務中押し込めた思考が浮上してきて、苦笑の裏で心臓がつきりと痛む気が、山野井にはした。

「にしても、絵になってたよなあ」
「え?」
「ほら、三宮様と西原」
「あ……」
「そうだねえ。西原さん、外も中もハイスペックだからね。まさしく美男美女、ってかんじだったわよね」

 ねえ、と同意を求められて、「そうだね」と何とか返した。
 山野井がフロントに戻ったとき三宮を案内していた西原は、ベルガールの中でもとびきりに凛とした美人だ。制服姿だったにもかかわらず、彼女は三宮の隣に並び立つに相応しい気品を感じさせた。彼の言う『絵になる』というのは、見た目よりもその雰囲気のことだろう。
 確かに――あの二人は絵になっていた。
 三宮に特定の女性を作る気がないのは分かっている。本人が言っていたことだ。それでも、男と女として似合いだった二人の姿を思い出すたびに、先程よりもずっと鋭く深い痛みが山野井の心を襲った。

(俺、ばかだな……)

 それで自覚してしまった。――三宮万里が、好きだと。きっと無意識に見ないようにしていたのだ。傷つくことが怖くて。
 どうして三宮のような男を、好きになってしまったのだろう。同じだけ好きになってもらいたいと思ってしまったのだろう。こんなものは、どこまでも報われなくて、辛くて苦しいだけだ。
 まだ話し足りない様子の彼らからどうにか逃れて、山野井は従業員用の出入り口へ向かう。

(なんか、顔、合わせ辛いな……。明日休みだから、屋敷に行こうと思ってたけど……)

 いまは三宮の顔を見たくはない。一晩寝て、それで気持ちが落ち着いていて、行けるようなら行くことにしよう――。
 時折すれ違うスタッフに挨拶しながら、山野井は内心頷いた。

「ああ、山野井」

 また、背後から呼び止められた。振り向くと、いかにも上品そうな中年男性がこちらに歩み寄ってくるところだった。山野井は彼の姿を目にして、驚きに目を丸くする。

「え……マネージャー?」

 思わず、何かとんでもない失態をしてしまったろうかと不安になったのは、彼が帝都ホテルの総支配人だからだ。単なるベルボーイの山野井からしたら雲上人にも近いその人が声をかけてきたのだから、自分の失敗を疑っても仕方ないだろう。コンシェルジュに注意はされたが、あの程度でわざわざマネージャーは出て来ないはずだ。
 不安に眉尻を下げる山野井を安心させるように、マネージャーは優しく笑んだ。

「まだいてくれてよかった。――これを」

 微笑みながら手渡されたものをまじまじと眺めて、それが何であるかを脳が飲み込んでから、ようやく山野井は、え、と間の抜けた声を漏らした。

「あの、マネージャー、これ……インペリアルスイートのカードキー……ですよね」
「そうだよ」
「ば……三宮様がいらっしゃった時って、大抵こちらの部屋にお泊まりですよね。今日も?」
「うん」

 にこにこと穏やかに笑いながら、マネージャーが頷く。
 間近でこの人の好さそうな笑貌を見るのは、実は二度目だ。一度目は、執事になる前、三宮が泊まっているインペリアルスイートに訪うよう言われたときだった。

「勤務を終えたら、山野井を部屋に寄越すようにと。三宮様がお戻りになるまで、待っているように、とのお達しだよ」

 若い頃、冷たい風貌をしていたとはとても信じられない温和な人は、微笑みながら言った。ホテルの中で彼だけは、三宮と山野井の特殊な関係を正確に把握している。――さすがに三宮と寝ていることまでは知らないだろうが。

「フロアのゲストアテンダントには、話を通しておいたから、行ってきなさい」
「あの……ええ――はい。お先に失礼します」

 頭を下げて、来た道を戻る。会いたくないと思ったそばから会いにいかなくてはならない憂鬱さに、自然と歩みは遅くなった。それでも緩慢とした様子に映らないのは、やはり姿勢や動作に求められる美しさが身に染み付いているからだ。
 帰ったんじゃないの、と不思議がる視線を時折貰いながら、山野井はインペリアルフロアの最上階にあるスイートルームに向かった。
 いまはパーティのまっただ中で、部屋に三宮がいないとわかっていても、部屋の扉を前にすると足が止まった。――入りたく、ない。
 何度も来たことのある場所だけれど、上品な趣きある扉はまるで堅牢で無骨な城塞のように山野井を威圧してくる。
 別に室内で待っていろ、と言われてはいない。だからここで待っていてもいいはずだが、さすがに二時間近くも廊下でぼんやりしていたら、それはそれで叱責されそうだ。三宮以外にも最上階の利用客はある。彼らに見咎められたら、ホテルにも三宮にも具合が悪い。
 思いつく限りに、中に入らなかった場合のマイナス要素を並べ立てて、それでようやく入室する決心がついた。いつものように三宮が山野井を選んで案内させていたなら、きっともっと気安く入れたろう。

(何なんだよ。万里のばか)

 拗ねたように胸裏で三宮を罵りながらリビングに入る。落胆したのは山野井の勝手だけれど、落としたあとにこんな風に期待をさせて、三宮は山野井をどうしたいのか。

「もう……二時間近くも、一人で何してろっていうの」

 物音一つしない部屋に、不貞た声が溶けた。
 ――こんなに広い部屋で一人きりなのは、寂しい。山野井はもともと人と接するのが好きなほうで、接客業を選んだのはそれゆえだ。自ら加わることは少ないけれど、賑やかなのが好きだった。
 だから、落ち着かない。帰宅すれば自宅でだって一人きりだが、山野井の部屋はインペリアルスイートに丸ごと入りきって、スイートのほうになお余裕がある程度だから、大した寂しさは感じない。
 何か特殊な過去があるというわけでもないけれど、広くて静かな部屋に一人きりなのは、ひどく心細かった。自分の境界線があやふやになるような、仄暗い恐れがじわじわと這いよってくるようなかんじだった。
 どうにも落ち着かなくて、うろうろと歩き回る。勝手に室内の設備を使うのは憚られた。無料のものなら使ったって構わないだろうが、何となくそれもやりにくい。
 歩き回ってはソファに座り、座っては居心地が悪くてまた歩き回る――という挙動不審を何度か繰り返す。随分長く過ごした気がして時計を見たが、部屋に来てからまだ一時間も経っていなかった。肩を落として溜め息をつく。
 どうにか心細さを紛らわせようと視線を巡らせる。――ふと、寝室への扉に目がとまった。何となく寝室へ入れば、リビングほどではないにせよこちらもやたらと広々としている。

「ん」

 一人で寝るには充分すぎるほど大きなベッドの上に、白いワイシャツが脱ぎ捨てられているのを発見した。今度は呆れ返って長く息を吐く。高いものだろうに、あまりに無造作に放置されているのだから、呆れずにはいられない。
 ウォークインクローゼットからハンガーを取り出して、シャツを丁寧にかけようとする。随分肌触りの良いシャツを持ち上げると、ふわりと深い香りがした。

(……万里の、におい)

 三宮のつけている香水の匂いだ。どこか包容力を感じさせるそれに、山野井の人恋しさがいっそう強まった。ハンガーを置いてシャツを抱きしめると、三宮の腕に抱(いだ)かれている心地になる。
 ベッドの縁に腰掛けて、そこから上体を仰向けに倒した。

(万里……、万里。早く戻ってきてよ)

 たとえ三宮にとって山野井が遊びでしかなくても、構わなかった。この部屋に一人にしておかないでくれれば、それでもう充分だ。

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