ちょっとしたわがままを言ってみる話

「三宮様って、かっこいいよねえ!」

 それは仲間内で定期的に上る話題だった。発言する人間はその時々により異なるが、大抵の場合発言者は女性である。
 彼女たちは一様にうっとりと頬を上気させて、まるで甘い夢を見ているかのようにして語るのだ。三宮万里は、顔のいい男だと。
 職場の飲みに半ば強引に付き合わされた山野井は、軽く酒をあおりながら何度聞いたか知れない話を聞き流していた。

「そうそう、下手な芸能人より美形だし、しかも超お金持ち! すっごいお屋敷に住んでるんでしょ?」
「私見たことあるぅ! も、気後れするぐらい立派で豪勢だったー!」

 今日は酒が入っているからか、下世話な話題にも手が伸びるらしい。山野井は屋敷の豪勢さには内心頷きながら、同僚の男に勧められたつまみを咀嚼する。
 三宮の屋敷は内外どちらから見ても広々としている。しかも和風の離れ家まであるのだ。山野井はそこに入らせてもらったことはないけれども、今度あるという執事たちの忘年会は離れ家を使って行われるらしい。

(どうせなら、最初は万里に誘われて……っていうのがよかったな)

 山野井は何とはなしに考えて、一瞬後に苦笑する。くだらないことを考えた、と。
 その苦笑を目敏く見咎めた同僚に、どうしたと声をかけられる。

「いや、何でも……」
「ああ、女子? あいつら飽きないよな、同じこと何回も喋って」

 山野井はただ苦笑を返す。
 彼は――というよりもこの場にいる誰も、山野井と三宮の主従関係を知らない。説明に困るので、勝手に勘違いしてくれるほうが助かるのだ。
 それに、同僚の言ったことも、少なからず思うことではある。山野井の抱くそれは、同僚の単純な呆れとは別種のものに違いないが。

「三宮様みたいなお金持ちと結婚出来たらなぁー!」
「やっぱ、玉の輿はアコガレだよねえ」
「イケメンで、背も高くて、お金持ちの旦那様とか、マジ最高じゃない?」

 あんなふうに欲に塗れた視線で三宮を語られたら、彼まで低俗な男にされてしまいそうで、だから山野井は彼女らに三宮のことを話されるのが嫌で仕方ない。三宮が聞けば、馬鹿じゃねえの、とでも笑いそうなことだけれど。

「に、しても……三宮様かあ。俺はあの人ちょっと苦手かな」
「え?」

 隣で次々グラスを空にしていく同僚の言葉に、山野井はきょとんと目を丸くする。

「ほら、あの若さで大企業の社長だし、美形で金持ちって、何でも持ち過ぎじゃん? うらやましいし、それになぁんか……」

 本当にそうだろうか、と山野井は思う。
 確かに三宮の持っているものは多いのだろう。顔、才覚、権力に財力、社会的地位。
 これだけあれば人が羨むのも当然だ。だが、だからといって「何でも持っている」とは限らないのではないか。
 とはいえ山野井には、三宮の持っているものをある程度列挙出来ても、持っていないものを並べることができない。そこまで彼を深く知らないのだ。
 その事実に気付いて、酒で少し浮ついていた気分が一気に落とされた。――しょせん、自分も三宮を遠くから眺めているだけの彼らと、何ら変わりないのだと。
 同僚は気落ちする山野井に気付くこともなく話を続ける。

「あの人って俺らのこと、見下してそうっていうか」
「な……」

 山野井は驚いて同僚を振り向いた。同僚は一人納得するように何度も頷いている。

「山野井ってあの人に気に入られてんだっけ。どうよ、やっぱゴーマンなわけ?」
「そんなこと……悪質なお客様でもないのに、陰でそう言うのはちょっと……」

 本当に陰口のようなことを嫌がっての発言だった。しかし同僚はそうは受け取らなかったらしい。

「あ、やっぱ山野井も同じこと思ってんだなあ。苦手な人に気に入られるってきついよなー!」
「違う……!」

 とっさに否定を投げつけ、山野井はハッとして口を覆った。
 山野井が柄にもなく声を荒げたからか、同僚はしきりに瞬きを繰り返している。他の話を咲かせていた仲間たちも、どうしたの、という目つきで二人を窺っている。
 山野井は彼らに、なんでもないと軽く苦笑してみせた。彼らは山野井よりも酒や愚痴や噂話が大事らしく、特に詮索することもなくすぐに元の話に戻っていった。
 山野井はまだ驚いている同僚を気まずい思いで見る。

「その……ごめん。俺は三宮様のこと、そんなふうに思ってないから。あの人は……そりゃちょっとは傲慢なところもあるけど、悪い人じゃない。それに、俺達のこと見下してなんてないよ」
「ふーん……?」

 同僚は納得いかなさそうだが、それは事実だ。ホテルの従業員を見下しているような人間なら、山野井は三宮と今の関係になっていない。
 詮索したがっている同僚の視線が突き刺さって、居心地が悪い。山野井は俯いて手の中のグラスを弄んだ。

「山野井くーん!」

 注がれる視線にどうしたものかと思っていると、ふいに三宮の話をしていたグループから名前を呼ばれた。山野井はこれ幸いと席を立って、彼女らのほうに近寄る。

「なに?」

 彼女たちは揃って期待に満ちた目をしている。爛々と輝くいくつもの瞳に山野井は嫌な予感がしたけれど、来た手前早々に退散するわけにもいかず腰を下ろした。

「山野井君って三宮様に気に入られてたよね? 三宮様から個人的な話、聞いてたりしない?」
「個人的?」
「そうそう、彼女いるのかとか、婚約者いるのかとか!」

 ぽかんとした山野井を、彼女たちは興味深い眼差しで注視してくる。
 嫌な予感は果たして正しかった。妙齢の女性の気になることといえば、たいていこの手の話題だろう。
 山野井はじわじわと腑を蝕んでいくような不快感を押さえ込んで、苦笑をしてみせた。

「そういったお話はしないけれども……」
「えー」
「たとえ恋人や婚約者の有無を聞いていても、お客様から伺ったお話を漏らすなんて、俺はしないよ」
「山野井君頭かたーい! いいじゃん、同じ職場なんだし、企業秘密ってわけでもないんだからさあ!」
「――知ってどうするの?」

 酒の席とは言え、従業員全員に徹底されていることを軽んじる彼女たちが、山野井にはひどく不快だった。少し硬くなった山野井の声に、けれど酔った女たちは気付かない。

「どうって……ええー、機会があったらアプローチとかぁ?」
「ムリムリ、あたしらなんかが相手にされるわけないってぇ」
「だよねえ。あはははっ。でも相手にされたら、既成事実とか作っちゃったりしてー!」
「げっひーん!」
「本当だね」
「え」

 酒の上での軽口だろうと思っていても、不愉快さが勝った。
 ぽろりと零れた山野井の同意に、笑いあっていた女たちはぽかんと口を開けて山野井を見つめている。

「いくら酒の席だからって、あんまり感心しないよ、そういうこと言うの」
「え、あ……山野井君?」
「あ……ほら、女の子なんだからさ。芍薬牡丹百合になれってんじゃないけど……男の子逃げちゃうよ、おっかなくて」

 山野井は我に返って、苦笑とともに付け加える。困惑していた女たちは安堵したように笑顔を取り戻した。
 それを見届けた山野井はそっと立ち上がる。女の一人が不思議そうに見上げてきた。

「山野井君?」
「ごめん、俺ちょっと飲み過ぎたかも。先に帰っていいかな」

 言葉は単なる建前だ。これ以上、三宮という男を穢されていくような会話を聞いているのは我慢ならなかった。
 中座など山野井らしくない行動だが、本当に申し訳なさそうに言えば、無理に引き止められることもなかった。酒のにおいをさせてロビーに立つわけにもいかないと分かっているから、そういうところではいい仲間たちなのだ。

「あれ、山野井帰っちゃうの」

 帰ろうとしたところで、先程の同僚に声をかけられた。

「うん。お先に失礼します」
「待って、送ってく」
「いいよ、女の子じゃないんだし」
「逃げる口実」

 苦く笑う彼が今まで座っていた席を見ると、隣には絡み酒の先輩がいた。なるほどな、と苦笑して、山野井は申し出を受けることにした。
 荷物を持ってきた同僚と一緒に店から出る。凍てるような風が吹き付けて、酒で火照った身体の熱を奪っていった。
 山野井はふるりと身体を震わせて、寒いな、とひとりごちる。隣でのんきな声がそうだなと相槌を打った。
 上着の襟を掻き合わせて、マフラーに顔を埋めて、特に会話もなく歩いていく。自分の吐く息が酒臭い。山野井はわずかに眉を顰めた。飲み過ぎた、というのはただの方便のはずだったが、どうやら自覚している以上にアルコールを摂取していたらしい。
 繁華街を抜けてしばらく、住宅地に入った辺りで同僚がおもむろに口を開いた。

「山野井さあ、さっきのあれ、本気で怒ってなかった?」
「……あれ?」
「ほら、三宮様の話してた女子に、感心しないって言ってたあれ」
「……そんなことないよ」

 あれは怒っていたというよりも、不愉快だっただけだ。三宮が貶められていくようで。
 三宮という人間を山野井よりも知らない外野の戯言だと流せればよかったのだが、山野井にはどうしても我慢ならなかった。

「あれって従業員としての心構えっていうより……三宮様のほうにこだわったように見えたんだけど」
「……そんなことないって」

 いやに食い下がる同僚に胡乱な目を向ける。彼は困ったように頭を掻いた。そうしてから、やけに真剣な顔を作る。
「山野井は、その……ひょっとしてあの人のこと……」

 恐る恐るといった風情の同僚が、意を決するように言葉を区切った。その直後に、山野井の携帯が寒空の下で鳴り響く。たった数秒の着信音が、妙な空気を切り裂いていった。
 山野井はコートのポケットから携帯を取り出して、新着メールを開く。差出人と内容を確認した山野井の目が見開かれた。

(万里……)

 差出人は、三宮万里。内容は『今から屋敷に来い』と、ただそれだけの味気ない一文。
 たったそれだけにも関わらず、山野井の心は舞い上がった。どんな目的であれ、三宮に屋敷に呼びつけられるのは山野井にとってとても嬉しいことだ。これが夜伽のためであればさらに――と考えて、山野井は慌てて己の欲深さを打ち消した。
 山野井は「ここまででいい」と同僚に愛想笑いを浮かべた。

「え、けど」
「いいから。家全然違う方向でしょ。口実で俺を送るって言ったんだから、最後まで付き合う必要ないよ。それじゃ、また明日っ」

 慌てたように呼び止める声には振り向かない。山野井は暗い夜道を、屋敷のほうに向かって駆け出した。
 きっとあの男は、山野井が三宮を好きなのではないかと聞こうとしたのだろう。その答えは是だ。
 けれど、素直に頷くこともできない。男相手というのもあるし、何より彼が三宮を良い人間だと思ってはいないので。
 山野井は、あの同僚が自分に対して少なからず恋愛的な意味での好意を抱いていることに気付いている。だからこそ、三宮なんてやめておけと言われるのが目に見えていて、それが煩わしかった。
 誰を好きでいるかなど、山野井の勝手だ。たとえ三宮に手酷く傷つけられたとしても、それは彼に関わることではない。三宮を見抜けなかった山野井の目が悪かっただけだ。
 実際のところ、山野井はもう充分三宮に傷つけられている。三宮が他の執事を抱いていると知るたびに心臓が切りつけられるようで泣きたくなるだけなので、山野井が勝手に傷ついているのだけれど。

(俺だけが万里を好きなんだって、思い知らされる……)

 三宮は他人の好意は受け入れるけれど、返すことはしない。ただ、三宮を好きであるということを否定も拒絶もしないだけだ。
 三宮自身は好意を寄せる執事に対して「絶対好きにならない」と言うのに、どうしていつまでもあの男を諦められないのだろうか。自分が三宮を好きなのと同じくらいに好きになって欲しいと願うのを。
 考え込むうちに山野井の足は遅くなって、やがてはぴたりと歩みを止めてしまう。何とはなしに見上げた夜空には薄く雲がかかっているようで、星は普段より姿が少なかった。
 山野井は無意識に止めていた足に気付く。星のまばらさをほんの少し寂しく思いながら、再び三宮邸へと向かって歩きだした。
 徒歩で行くにはあの屋敷は遠い。きっと辿り着く頃には日付も変わって深夜になっている。三宮はおそらく待ちくたびれて、途中で「もういい」とメールなり電話なりしてくるだろう。彼の無聊を慰めるのは、山野井である必要がないのだ。

(やっぱ……帰っちゃおうかな……)

 とりあえず同僚と離れたくてすぐに駆けだしたから、まだ了解の返事はしていない。迷いながら山野井は手に持ったままだった携帯で、「今日は無理だ」と返信しようとする。

(……酔ってるし。酒臭い状態で万里に会いたくないし)

 あれこれ言い訳を考える。そのどれもが「自分が嫌だから」という、自分の心を守ろうとするもので、山野井は滲んだ自己嫌悪に眉を顰めた。
 どうしてこんなにも、自分は卑怯で自己中心的なのだろうか。三宮が絡むと特にそうだ。愛されたいと思うのに、口に出せば解雇されるのではと怯える。三宮との接点がなくなることを恐れて口をつぐむ。
 三宮には会いたい。けれど今の状態で会うのは嫌だ。
 二律背反に溜め息をつくなり携帯が鳴りだして、山野井は驚いて肩を震わせた。

「……万、里?」

 暗い夜道に光る画面に表示されているのは、何度見ても確かに三宮の名前だった。ああ、やはり来なくていいという連絡か……と、諦めの滲む笑みをこぼす。

「……もしもし?」

 時間が時間で、周囲は住宅ばかりということを憚って、山野井は小声で電話に出た。すぐに不機嫌そうな三宮の声が返ってくる。

「山野井。了解の連絡くらいよこせ」
「……ごめん。俺、今日は……」
「来るんだろ」

 あまりに自信満々に三宮が言いきるものだから、山野井は少しおかしくなって軽く笑った。
 三宮は山野井が断るとは微塵も思っていない。それもそうだろう、今までに呼び出しを断ったことなどないのだから。

「今日は、行けない」
「……理由は」

 三宮の声がさらに低くなった。

「……その、職場の飲みがあって、酔ってるから……」
「それにしちゃ、ずいぶんしっかり喋るな」
「……」
「いいから来い。命令だ」
「今から行ったら日付変わってるよ」
「構わないから来いって言ってるんだよ」

 あくまで拒否の姿勢を示す山野井に苛立ったのか、三宮は乱暴に舌打ちをした。

「……でも」
「でもも何もない。いいから来い」
「……」
「山野井」
「……っ」

 名を呼ぶ三宮の声は強制力を持っている。山野井は仕方なしに頷きかけて、出かけた承諾を閉じ込めた。
 それを気取ったのか、三宮が電話の向こうで喉で笑う。多少は溜飲が下がったらしい。

「何だ、今日はやけに逆らうな」
「べつに、逆らってないじゃん……。俺は行けないって言ってるだけだろ」
「ふん。行けない、じゃなくて、行きたくないって言ってるようにしか聞こえんがな」
「……そんなこと……」

 否定しようとした矢先に「あるんだな」と見抜かれて、山野井は結局口を噤んだ。

「……何だ、今日は? いつもなら一つ返事で来るだろう」
「だって……」

 普段のように、三宮の前で後ろ向きな発言をしないでいられるかわからない。不安や嫉妬のたぐいを、隠したままでいられる自信がないのだ。
 特に嫉妬などを表に出せば、たちまち疎まれてしまいそうで、山野井はそれがひどく恐ろしい。
 こんな風にうじうじとしている時点で呆れられそうなものだけれど、今夜の三宮はどうやらほんの少しだけ優しい人間のようだ。

「いいから、来い。――全部聞いてやる」
「万里……?」
「今夜は特別だ、うんざりするくらい甘やかしてやる。……執事の精神面のケアも、ご主人様のつとめだからな」

 まるで言い訳のように付け加えられた言葉に、山野井は笑う。

「――やっぱり行かない」
「なに?」

 こうまで言わせておいて――、と一気に不機嫌になった三宮の声に、山野井はまた笑った。

「甘やかしてくれんなら、迎えに来てよ」
「……はぁ?」
「いいじゃん、今日は特別なんでしょ? 万里が迎えに来てくれたら、行くよ」

 いつも三宮の突拍子もない命令に従っているのだから、こんなわがままくらいは可愛いものだろう。
 言うと、三宮はしばらく黙り込んで、やがて軽くため息をついた。

「わかった。そこで――いや。明るいところで待ってろ」
「ん。……ありがと、万里」

 三宮が身を案じてくれたことが嬉しくて、山野井はこみ上げてくる愛しさを込めて言う。少しの無言のあとに通話は切られてしまったが、あれは別に機嫌を損ねたのではないだろう。
 山野井は我知らず微笑んでから、近くにあるコンビニに足を向けた。

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