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彼は珍しく離れ家ではなく三宮の本邸に姿を現していた。彼はこちらの洋館よりも、日本家屋である離れ家のほうを気に入っていて、あちらを住処にしているのだ。
深い藍の着物を纏い、真っ白な羽織を肩にかけて洋館を歩く彼の姿は、そこだけまるで明治か大正かと思わせる。彼が銀髪でなければ、切り取ったタイムスリップはさらに真実味を増したことだろう。
(久し振りに来てみれば、知らない気配がずいぶん増えてるな……)
彼は首を傾げたが、そういえば……といつだったか兄に言われた言葉を思い出した。
(後継者を育てるために、執事を名目にめぼしい奴を引き込むって言ってたな。何ヶ月前だァ? 依頼であちこち飛び回ってたからな……)
彼が屋敷に訪うのが久し振りなのは、何も離れ家で暮らしているからだけではない。彼には日本全国から『依頼』が舞い込む。ここ数ヶ月は依頼が立て込んで、それこそ北は北海道、南は沖縄まで足を運んで仕事をしていたのだ。
すべての案件が片付いて、ようやく離れ家に戻ったのが先週のことだった。すぐに依頼とは別の仕事の残りに取りかかっていたので、屋敷に顔を出して兄に挨拶をする暇がなかった。
だけれど、彼は昨夜老松と話した通りに、屋敷に陰気が溜っていることには気付いていた。通常より早く陰気が蓄積される原因は、間違いなく数ヶ月前まではなかった恨みの念だろう。
彼は溜め息をついて、普通よりも強い陰気を辿りながら歩いていく。ただの人よりも強い陰気、おそらくはその持ち主がここ一週間の『来訪』の多さの引き金だ。
「それでな――」
強い陰気に近づくにつれ、人の話し声も聞こえてきた。陰気の持ち主は誰か、彼の知らない人間と一緒にいるらしい。
廊下の角を曲がると、陰気の原因の姿が彼の視界に入り込んだ。茶髪に金メッシュの入った、甘い顔の緑の目の男だった。隣には赤い髪の男が並んで、ともに窓を磨いている。
「あれ……」
少し二人を眺めてから近づくと、二人が彼に気付く。彼は茶髪の男の前で立ち止まった。
「えーと……アンタ誰だ?」
赤い髪の男は彼と茶髪の男を見比べてから、困ったような声を出した。あ、と茶髪の男が何かを見つけたように目を丸くする。
「もしかして、ご主人様の弟さん――ですか?」
「え! あ、まじだ、目元が滅茶苦茶似てる。会えば分かるってこういうことかよ」
しげしげと無遠慮に眺めてくる赤い髪の男を、彼は一瞥だけして口を開く。
「そう。三宮万里の弟で、三宮皓里。ハジメマシテ、執事さん」
「あ……ども。俺は連城瑠加、こっちが」
「浅葱カイリ……です」
茶髪の男――浅葱は、その緑色に一瞬複雑そうな感情を乗せて腰を折った。皓里は、ふうん、とどうでもよさそうな相槌を打つ。
「ぶっちゃけ、アンタらの名前なんてどうでもいいんだけどな。浅葱、浅葱……浅葱、なるほどね」
皓里はどこかで聞いた覚えのある浅葱の名前を、記憶の中から探し出す。
合致するものは二つ、そして浅葱が陰気の蓄積を早める原因であることを照らし合わせれば、この場において正しい情報がどちらであるのかは瞭然としていた。
――浅葱小百合。自分たちの父親である三宮玲二の愛人だった女だ。皓里は小百合をあまり見たことがないけれど、似ているな、と目の前の浅葱に思う。
皓里は、小百合は死んだと聞いている。自殺だったと。きっと玲二のイイ趣味に付き合わされて壊れたのだろう。それゆえの浅葱の恨みの念で、おそらくは間違いない。
皓里がじっと浅葱を見つめていると、浅葱は居心地が悪そうに視線をさまよわせた。なるほど、と頷いたときには、確かに恨みを皓里にも向けてきたくせをしてだ。
皓里は、ふん、と鼻を鳴らす。
「お前、そのうち鬼になるぞ」
「は……?」
皓里が蝙蝠を少し開いて口元を隠して浅葱に向けて言い放つと、浅葱も連城もぽかんと口を開けた。
「鬼って……」
「赤鬼青鬼の、あの鬼かよ? なんでいきなりそんな……。っつーか、人が鬼になるわけないだろ。何言ってんだよ、アンタ」
「うるさいな、黙ってろ赤毛。鬼ってのはなァ、恨みや怒りなんかのマイナスの感情を長年抱き続けた人間の成れの果てなんだよ」
「何言って……」
「マイナスの感情は陰の氣を引き寄せやすい。命ってのは何もかも、陰陽のバランスで成り立って動いてんだ。怒り恨み妬み嫉みが積もり過ぎると、そのバランスが陰に傾く。そうするっていうと、だんだん明るいことが考えられなくなって、抱いていた恨みやらしか見えなくなる。そうしたら、あとは陰気に真っ逆さま、見事鬼への変生でござい……とな」
当惑しきっている連城と比べて、浅葱の顔色は優れない。思い当たるフシでもあるのだろう。
「鬼になればもう他は見えん。恨みの矛先の奴しかな。他の奴は邪魔者でしかなくなるのさ。たとえばアンタが鬼になれば、そこの赤毛もパクリと喰らうだろう」
「そんなこと……ッ」
「陰気への偏りで鬼になっちまえば、愛しいも恋しいもなくなっちまうのさ。どれだけ大事だろうが、自制心なんて持っちゃないからな。もっとも――」
ぱちん、と音を立てて、皓里は蝙蝠を閉じた。
「連城だっけ? そこの赤毛は、ちょっと普通の人間より陽気が強いみたいだな。そいつが側にいるから――物理的な距離じゃなくて、心にな。だからアンタは人に留まっていられるんだ、いまのところ。連城の強い陽気が、アンタの強い陰気をうまい具合に打ち消してる。連城にしても、浅葱の陰気が強いから過ぎた陽(ひかり)に身を焼かれないですんでるフシがある」
陽気が強すぎても、人の身体には毒だ。人は決して陰陽のどちらかに傾き過ぎてはならない。
「まあ、あれこれ言ったが……俺は別にアンタが鬼になろうがどうだろうが、どうでもいいんだけどね。鬼になったら小説のネタにさせてもらうだけだし。あ、でもレージがどっかほっつき歩ってるいま、兄貴を食い殺されたら俺にしわ寄せが来るから勘弁して欲しいか……」
「あ……アンタ、三宮と兄弟なんだろ? そんな利害だけで……」
はたと口にした言葉は、連城のお気に召さなかったらしい。皓里は苦々しげな顔をしている連城にからりと笑ってみせる。
「ああ、兄貴のことは普通に兄として好きだよ。でもあいつは、いつか背後からさされてもやむなしって人格してるからさあ。だけどねえ、浅葱」
「……なんですか?」
「アンタ、恨みを向ける矛先、間違えてるぜ」
「え……」
浅葱はまさか、というような顔をして目を瞬かせた。皓里は蝙蝠で肩を叩きながら浅葱を笑う。
「彼女の人生を狂わせたのは、兄貴か?」
「――……」
「恨むんだったら、レージだけにしといてくれよ。兄貴や俺にまで矛先を向けられるとな、……屋敷に陰気が溜りやすくて困るんだよ」
「……は?」
「アンタの余剰は連城の陽気の余剰がうまく相殺してるけどさあ、それでもやっぱり、淀むんだよな。強い陰気のあるところには、周りの陰気が引かれて集まるんだよ。陰気が溜ると、どうなると思う?」
「どうって……何が何だか、よく……」
皓里は困惑しきった浅葱から、連城に目を向ける。急に視線を向けられた連城は、一瞬身体を驚いたふうに揺らしてからしばらく唸った。
「えーと……屋敷が鬼になる、とか」
至極真面目に言った連城に、皓里は思わず白眼視を返した。次いで浅葱を見て問いかける。
「…………なあ、こいつ馬鹿なの」
「……頭は悪くない、はずなんですけどね」
浅葱は何やら可哀相なものを見る目で連城を見、哀れそうな溜め息をついた。
「な、何だよ! アンタが陰気に傾くと鬼になるって言ったんだろ!」
「そりゃ生き物の話だよ、このタコ助」
「たっ?!」
「……瑠加……」
ショックを受ける連城の肩を、浅葱が哀れんで叩く。
そうではなくて、と皓里は緩んだ気を引き締めた。
「来るんだよ、陰気に引かれて」
「……何が?」
「そりゃ決まってるだろ。悪意のある幽霊や妖怪がさ」
「ゆうっ……」
さっと浅葱が青ざめて、彼は言いかけた言葉をそれ以上外に出すまいとでも言うように片手で口を塞いだ。
浅葱の反応に、皓里は呵呵と笑う。
「おやおや、人気スタイリストの浅葱カイリ殿は、幽霊がお嫌いか」
「っていうか……ホラーはちょっと……」
「幽霊とか妖怪とか、そんなもん、い……いるわけねーだろ?」
「ま、見えないなら存在してないのと同じだね。でもあいにく、アンタらに見えないだけで――いるのさ、奴らは。夜中にも一匹、タチの悪い妖怪が入り込んでてね。悪さをする奴だから陰気ごと消しといたが、いや俺でも祓える小物でよかった。俺の手におえないような奴だったら、俺の無惨な死体が庭に転がってただろうね」
妖怪と対峙して、負ければ待つのは悲惨な死だ。人を喰らう妖怪は多い。深夜皓里が祓った妖怪も、人食いのものだった。
笑いながら言っていた皓里は、ふいに真剣な表情をして浅葱を見つめる。
「夜中のは小物でよかったが……、このままアンタが陰気を引き寄せる主因となってたら、いつ大物が引かれてくるか知れたもんじゃない。とんでもない奴が来たら、そう言う力のある俺だけじゃなく、一般人の兄貴やエリサ、橘に……アンタら執事も食い殺される可能性がある」
「……そんなこと、あるわけないじゃないですか。妖怪なんて……」
「信じない者に対して証明は不可能である、か。だが、アンタが否定しようとも、奴らはこの世界に存在してるんだ。幽霊もな。妖怪なら俺は大抵祓えるが、幽霊は専門外だ。とてつもない奴が来ちまったら、アンタ、真っ先に狙われるだろうさ。悪霊連中にとっちゃ、恨みなんてのはご馳走でしかないらしいんでな」
皓里はじっと、自前ではない青い双眸で浅葱を見据える。浅葱は何か冷たいものが背筋を滑りでもしたのか、ふるりと身体を震わせた。
「俺も機を見て清めはするが……アンタが矛先を兄貴に向けたままならいたちごっこだ。強い感情を向ける相手は、間違っちゃならないんだよ」
「……」
「実はそれを言いにきただけなんだ。用はすんだし、兄貴かエリサに挨拶でもしてくるか……。じゃあな」
皓里はひらひらと手を振って、浅葱と連城の前を通り過ぎる。背後に感じる強い陰気は、まだしばらく弱まることはなさそうだった――。