アルそらと見せかけて丸そらフラグ
山野井はおろおろと目の前に立ちふさがる男を見上げていた。
男はうろたえて戸惑っている山野井の反応を楽しんでいるようで、口元には揶揄じみた笑みが浮かんでいる。
「あの……」
「ああ――失礼。あなたがあまりに可愛らしいものだから、つい見とれていましたよ。ふふ、天上への帰り方を忘れてしまったのですか、天使よ」
歯の浮くようなセリフを素面で――しかも同性に――言ってのける金髪の男に、山野井は内心頬をひきつらせた。
「私はアルバート。地上という汚れた場所に身も心も冒された私を、その清らかな歌声にのせた天使の名で清めてくれませんか」
「ええと」
アルバートは実に優雅に山野井の手を取り、白い甲に口付けた。
三宮に命じられてコーヒーを淹れにきただけだというのに、どうしてこんな絡みにくい男に絡まれる羽目になったのだろうか。しかも記憶が確かなら、アルバートとは三宮が「目が覚めたら隣で全裸で寝そべっていた」と怯えていた男の名前ではないだろうか。
若干遠い目をしながら、山野井はとりあえず名前を教えた。
「山野井そらです」
「そら……。さすがに天使は、ああ、名前まで美しいのですね」
「ええと……どうも。あの、俺、ご主人様にコーヒー淹れなきゃならないから、そろそろ離してもらえません?」
「なんと惜しい。あまり遅くなっては、そらが万里にお仕置きされてしまいますね」
言いながらもアルバートは山野井を離すどころか、腰を抱いてくる。
山野井はぎょっとして抵抗するけれど、体格差も相まって逃れることができなかった。
「天使であるそらの清らかな身体が、唯人である万里の性によって汚される――。なんとも背徳的で美しいではないですか。ああ、それでそらは、天上の国へ帰れなくなったのですね……なんていたわしい」
山野井は困り果てた。駄目だ、この男はいたわしい頭の持ち主だ。この際緑色のつやめくアイツでもいいから助けて欲しい。でもやっぱりできればマトモな人間がいい。
「あの……離して」
「ふふ……心配ありませんよ」
微笑みながら言われても、心配ない要素が見当たらない。
「私が一緒に行って、万里のお仕置きから守ってあげますから」
たぶん三宮も、アルバートに絡まれていたと言えば気の毒がって不問にしてくれるだろう。
「ふふふ。今日そらという天使に出会えたことは、私の人生の中でも指折りの僥倖ですよ」
「それは……どうも……」
「しかし私には僥倖でも、私はそらにとっては悲しいかな路傍の石……。私ごときいしくれなど、あなたはすぐに忘れ去ってしまうでしょう」
こんな目立つうえ自己主張の激しい道端の石ころなどあってたまるものか。たぶんアルバートのことは、忘れたくても忘れられないだろう。悪い意味でだ。
「ああ、そうならないように、私はあなたに私の印を刻み込みたい――」
「ひ――っ?!」
山野井の腰を抱いていたアルバートの手が、つうと滑り降りて臀部を撫で、指先が妖しく割れ目をなぞった。
「アルバート!」
「おや」
どうしよう本当にたいへんなことをされる――。怯えた山野井だったけれど、救世主はすぐに現れた。
アルバートを怒鳴りつけた声に縋るように振り向いた山野井の救い手は、うさぎだの何だの散々を言われている料理人・丸山凛太郎だった。
「どうしたのですか、凛太郎。そんなにいきり立って」
「どうしたもこうしたもないだろ! 手当たり次第、屋敷の人たちにトラウマ植え付けるなって何度言わせんだよ! ちょっと目を離したすきにこの変質者はっ!」
「なんてひどい。私はただ」
「お前がどんなつもりでも、お前のセクハラに怯えてる人がいるのは事実だっ」
「私はセクハラなどという無粋はしませんよ」
「してるからいろいろ怯えてんだろうに! ほら、山野井さん離せって。――大丈夫、すぐに助けますからね、山野井さん」
「丸山さん……っ」
真っ向からいたわしい頭のアルバートに立ち向かっている丸山が、山野井には輝いて見えた。彼は間違いなく英雄だ。世界中からたたえられるべき人間だ。
「しかし、手放してしまっては、そらは天使ですから神の御元へ連れ戻されてしまいますよ」
「お前はまたわけわかんないことを……。いいから山野井さんから離れろ。でなきゃ二度と飯もドルチェも作ってやらないぞ」
「むう……困りましたね。凛太郎の作る食事も捨てがたいが、我が天使も手放しがたい」
是非とも食事を選んで欲しい。
山野井の切なる願いをよそに、アルバートは本気で悩んでいるらしい。
名前さえ教えれば解放されるだろうと思った自分の読みの浅さを呪いつつ、山野井は仕方なしにアルバートに声をかけた。
「あの……アルバートさん」
「おや、なんて他人行儀な。呼び捨てで構わないのですよ、そらと私の仲なのですから」
「どんな仲だよ初対面」
眉間を押さえた丸山が唸る。
「うん、あの、アルバートさん。俺、べつに普通の人間だから、消えたりしませんから……」
「つれないですね。ふふ……もちろん、わかっていますよ。しかしあなたが私の世界に舞い降りた穢れなき天使であることに変わりはありません」
「何でそれ素面で言えんだ気持ち悪いこの変質者」
「うるさいですよ凛太郎」
「わかってるなら離して欲しいんですけど……」
「……――仕方がありませんね。この手を離したら、心臓まで引き裂かれてしまいそうなほど寂しくなりますが……あまりそらを困らせるのもエレガントではありませんし」
「もう充分困らせたろ」
渋々離れていくアルバートに、山野井はほっと息をついた。
「すみません、山野井さん。迷惑かけて」
「あっ……ううん。助けてくれてありがとうございます、丸山さん」
「甘いもの大丈夫ですか? 平気なら今度お詫びに、腕によりをかけてドルチェ作ってご馳走しますよ」
「ほんと? じゃあ、楽しみにしてますね」
「それはもちろん、私もご相伴にあずかれるんですよね」
「あーあー聞こえない」
「ひどいですよ凛太郎」
「それじゃ山野井さん、失礼します」
「また会いましょうね、そら」
「接近禁止命令取れたらいいのに」
軽く言い合いながら、丸山とアルバートは立ち去っていく。
「……格好いいなあ、丸山さん」
憧憬の視線で丸山の背中を見送った山野井は、急いでコーヒーの支度に取りかかる。
ずいぶん遅くなって三宮にお仕置きされかけたけれど、アルバートのくだりを説明したらたいそう心配された。
「あいつの厄介さは――なめろうと張る」
遠い目で呟いた三宮の言葉に、山野井もややぐったりとして頷いた。