あの奇妙な表情を見せてから、三宮はあまり登楼してこなくなった。半月に一度程度だった浅葱との逢瀬はそのまま続けているらしい。
 ――やはり、あんなことを言ったのは失敗だったろうか。空の、三宮への好意を明け透けにするような言葉だった。
 気紛れで選んだろうたかが愛人に好意を示されても、三宮には不愉快に違いない。だから滅多に顔を見せなくなったのだろう。
 空は談話室の隅で、ぼんやりと賑やかな集団を眺める。部屋の中央では娼妓も花魁も入り乱れて花札に興じていて、沈んでいく空の心とは真逆の盛り上がりを見せている。
 しばらく何も考えず眺めているうちに、ずいぶん男らしい歓声が上がった。どうやら決着がついたらしい。もう一回だの何だのと騒いでいるところに、一人の娼妓が駆けこんできた。

「ね、ね、大変、大変!」

 輪の中に入ってくる花魁を、誰もが「またか」という顔で見ている。
 やけに輝かしい表情をしているその花魁は大変に噂好きで、どこから出たのか分からないような噂で廓内を引っ掻き回した前科があった。

「浅葱さんが身請けされるって!」
「へー」
「本当だって! 遣り手が浅葱さんと話してるの聞いたんだから!」

 では珍しく、確実な話なのだろう。それが事実であるのならばだが。
 あまり真面目に取り合わなかった娼妓たちは、根拠を示されて話に食いついた。空も輪の中の会話に耳を傾ける。

(……相手……やっぱり、三宮様、なのかな……)
「その相手って三宮様?」

 ほぼどん底まで沈みながら空が思ったのと同時に、娼妓の一人が同じことを花魁に訊ねるが、彼は首を横に振った。

「そこまでは聞いてない」

 呆れ返った声が部屋中から聞こえた。

「そこ、一番大事なところだろ!」
「だってびっくりして、これはすぐに伝えねばと思ってさぁ!」
「大うつけっ」
「でもさ」

 また別の花魁が口を挟んだ。彼はちらと空を一瞥する。

「多分、三宮様だろうよ。浅葱は最高級の花魁だし、そうしたら身請けの金額はとんでもないことだ。浅葱を身請けできるような財力を持った浅葱の客なんて、三宮様ぐらいのものだから」

 彼はくつりと嫌味に笑って、空に向き直った。――何を言われるのかは、想像がついた。

「残念だったね、空。三宮様を奪えなくって」
「馬っ鹿、花魁でもない空程度が、浅葱から客を奪えるわけないじゃん」

 部屋にいる半分程度は彼と同じように、空を見下して嗤っている。残りの半分はおろおろとしているか、憤ろしそうに唇を噛んだり眉間に皺を寄せたりしている。そのほとんどが下級の娼妓だった。彼らは格が低いので、花魁たちに表立って何も言えない。
 花魁の中にも不愉快げにしている者がいくらかあるけれども、彼らも助け舟を出してくれるわけではない。いちいち格下を侮って、格下が何も言えないのをいいことに、それで自分の優位を確認しているような矮小さが気に食わないだけだ。あるいは、三宮の愛人に指名された空を妬んでいるか。

「年季明けが近づいてるのに、未だに花魁になれない器量の悪い空と違って、浅葱はさすがだねえ。さすが引っ込み禿だっただけはある」

 禿は通常花魁について、彼らの給仕やら何やらの小間使いをしながら、娼妓になるための教育を受ける。引っ込み禿は禿の中で特に器量のいい者が選ばれ、花魁の手を離れて楼主や内儀から教育を受ける者をいう。上位の娼妓になることを約束されているから、禿の間でも引っ込みは格別だと言う認識があった。浅葱はその引っ込み禿だった。三日月もそうだ。
 空の目の前で嫌味を投げてくる花魁たちのなかに引っ込みだった者はいないが、彼らは自分たちも格別面をする。引っ込みでなかったにも関わらず花魁に上がれたのだから、彼らには彼らなりの努力があった。
 それを理解しているから、空は何を言われても特には気にならなかった。――いままでは。

「空。お前、下級の分際で三宮様を好きだ、なんて言いださないだろうね」

 最初に口を挟んだ一番年嵩の花魁が、厳しい目つきで空を睨む。それこそ親の仇のように。
 彼がこうも空にきつく当たるのは、彼が愛人に間夫を奪われた過去があるからだ。だから彼は愛人指名された娼妓には、誰にでも辛辣だった。空に対してとくにきついのは、三宮が浅葱よりも空に会いにくる頻度が高かったせいだ。
 空は彼らに苦笑を返す。

「そんなこと、ありません」
「本当だろうね」
「本当ですよ」

 そんなことは、本当にない。――本当に。あの意地の悪い男を好きだなんて、ただの錯覚に過ぎなかった。
 愚かな話だ。自分は敵娼に惚れていると客に錯覚させるのが娼妓という生き物なのに、こちらのほうが客を好きだと錯覚するなどと。
 ――そうやって、自己欺瞞をしなければ泣いてしまいそうだった。
 三宮が浅葱を身請けする、それはただの憶測だ。何の証拠もない。だが、あの花魁が言うように、浅葱を身請けできるような馴染みが三宮以外にいるとも思えない。

(……やっぱり、三宮様は……)

 浅葱のことが好きなのだろう。そういうふうには見えなかったが、空に会いにきていたのも浅葱の嫉妬を煽るためだったのだろう。三宮も表情を繕うことが得意な様子だったから、そう言う素振りを見つけられなかったのだ。
 一度後ろ向きになると、どんどん深みにはまっていく。比較的切り替えは早いほうだと思っていたのに、と空は小さく息を吐いた。


 今夜の客は、空が水揚げをしたばかりのころからの馴染みだった。三十代後半のその男は、顔の造作から立ち居振る舞い、出立ちまで何もかもが上品で、閨においても無理強いをすることが決してない。馴染みの中で一番付き合いが長く、最も安堵できる相手だった。男には興味がなかったそうだが、友人に連れてこられた見世で空を見かけて気に入ったのだと言う。
 だから最初のころはこの男と交わっていなかった。初めての同衾は空が客との褥に慣れてしばらくしたころからだ。そのときにしても、無理強いはしたくないからと、空が嫌がるなら構わないと言っていた。
 大切にしたいから、と男は常々言う。客への行為を強いられることに慣れた空にとって、だから男は安心できた。
 けれど、今夜は男と会っていても安らげなかった。――三宮が浅葱のところに登楼っているからだ。
 客を前にして他の客のことを考えているなんて娼妓として失格ものだが、空の意識はほとんど三宮と浅葱に持っていかれている。
 所詮自分は愛人なのだから、三宮と浅葱の門出は喜んでやらねばならない。本来愛人とは単なる名代なのだ。言葉通りの意味ではない。
 浅葱は、吉原の外へ行きたいと言っていた。好きで男に身を委ねていない浅葱が、この苦界から出て行けるならそれはとても喜ばしいことだ。空も羨ましいと思いつつ、よかった、と浅葱の解放を喜んでいる。
 ただ、浅葱の願いを叶えるのが三宮だと言うことが、どうしても祝福のなかに翳りを落とす。――あの大きな手で、ここから連れ出して欲しかった。過ぎた願いだとわかっていてもだ。
 だがそう願うのも、これで終わりだ。浅葱の身請けがすめば、三宮はもう、見世に来なくなる。三宮と会えなくなれば、きっとこの想いもやがて過去になって消えてくれるだろう。
 酌をするために俯かせた顔に、空は一瞬だけ愁色を乗せた。

「どうしたの?」

 注いだばかりの酒を一口飲んだ男が訊ねる。

「今日はずいぶん、上の空だね」
「――すみません」
「怒ってるわけじゃないよ。でも、いまから少し大事な話をしたいから、ちゃんと聞いてくれないと困るけれども」
「大事な話?」

 なんだろう、と首を傾ける。男は、そう、と頷いて、真剣な表情で空と向き合った。

「実は――空、君を身請けしたいと思っている」
「……、え……」

 今日はやけにその単語を聞くな、と思ってから、空は何を言われたかを理解して瞠目する。
 目を丸くして何度も瞬きをする空に、男は優しく笑いかけた。

「周りには理解されないんだけれどね。俺は一生、君に側に居て欲しいんだ。君の年季が明けてしまったら、もうきっと会うのは難しいだろうから」
「年、季が明けてから、外で一緒になる人もいますよ……?」

 娼妓と客が通じ合っても、客に身請けをできるほど財がない場合、そういう添い遂げ方もある。江戸のころ、主に町人の客と心を交わした遊女が、間夫と約束をして年季明け後に一緒になった例があるという。近年でもこの方法は取られているが、客の心変わりで泣く遊女も多いらしい。

「その間に誰かに攫われたらたまらないよ」

 三宮が空を愛人指名したくせ、名代ではなく指名で訪うことは客の間でもそこそこに知られていた。男が言うのはそのことだろう。三宮ほどの財力があれば、見世の誰を選んでも容易く身請けできるのだ。

「俺は君を愛してるけど、君にとって、俺が客の一人でしかないのはわかってる。寂しいことにね。――でも悪い話じゃないだろう?」

 娑婆のことをよく話してくれる存在でもあった彼は、空が年季明け後にどうやって生きていけばいいのか不安に思っているのを知っている。それが後押しとなって、身請けに踏み切ってくれたのかもしれない。
 ――悪い話どころか、とびきりいい話だ。身請けされて吉原を出て行ける娼妓はほとんどいない。それをしてくれようというのだから、娼妓であることが好きでない空は男の話に飛びつくべきだ。
 何よりも、心残りであった三宮はすでに浅葱を選んでいるのだから。

「……俺」

 とまどい、ためらって俯いた空の頭を、男の手が撫でる。――三宮より優しい形をした手だ。三宮の手はもっと男らしくて強そうだ。その強い手に、そっと優しく撫でられるのが空は好きだった。

「いきなりで驚いたろうから、返事は今度でいいよ。いまは逢瀬を楽しもう、空」

 愛しげに空を見つめながら穏やかに笑った男に、抱き寄せられる。男の人柄を表すような上品なキスと愛撫を感じながら、空は三宮を思い出していた。
 忘れなくてはと思うのに、男の手付きに三宮との違いばかりを見つけてしまって、結局夢想の三宮に抱かれていたようなものだった。
 本当は――忘れたくなどない。ずっと三宮を好きでいたい。
 ――けれどそれはもう、本当に許されないことになってしまった。


 昼見世は時間も時間なので、外界が平日だとなおのこと賑わわない。客足もまばらなこの時間に真面目に働いても仕方がないので、娼妓たちは見世の中で好き勝手に過ごしているのが常だった。
 空は部屋で馴染みの男たちに送る手紙を認めていた。また会いにきたくなるような文を送るのも、娼妓の手管の一つだ。
 いままでは全員に書いていたけれど、空は三宮への手紙だけは書かなかった。浅葱を身請けするというのなら、もう送る必要がない。
 重たい溜め息をついて筆を置く。と同時に、三日月が現れた。

「空、身請けの話上がったって?」

 薄桃色の艶のある袋を取り出しながら、三日月は空の隣に座った。手を出して、と言われたのでその通りにすると、袋から大きな黄色い飴玉がひとつ転がり出てきた。掌から飴玉が零れないように、空は慌ててもう片方の手で蓋をした。

「あげるー」
「ありがと。――耳が早いね」
「まーね。――受ける?」

 三日月の飴玉を舐めながらの問いに、空はややあって頷いた。

「うん……。返事、次でいいって言ってたから、まだしてないですけど」
「あんまり嬉しそうじゃないねぇ。三宮さんじゃないからだ?」
「……そんなこと」

 飴を舐めながら緩く笑っている三日月には、否定しても通じないだろう。この男は人の心を見透かすのが得意だ。

「……俺、三宮様のこと、好きだよ」
「うん」
「でも、それは忘れる。夢を見せるのが仕事の俺が、うっかり夢を見させられた、っていうだけの話にする」
「三宮さんが浅葱さんを身請けするって噂だから?」

 空はゆっくり頷いた。三日月は珍しく緩く笑うのをやめて、少し真面目な顔をする。

「――食べて、それ」
「あ……うん」

 言われた通り、空は掌に乗せたままだった飴玉を口の中に入れる。少し口内で転がすと、じんわりとレモンの味が広がってきた。
 空はしばらく無言で飴玉を小さくする。食べて、と言ったきり口を利かない三日月は、頭の後ろで手を組んで仰臥して同じようにしていた。
 空はちらりと仰臥する三日月を見やった。遠くに人の話し声が聞こえるだけの空間に、三日月は居心地の悪さなど覚えていない様子だった。着物が乱れるのも構わずに、足を組んで浮いたほうをゆらゆら揺らしている。赤紅色を割ってさらけ出された、三日月の白くてほっそりとした太腿は、毒々しいまでに妖艶に映る。ハーフだという三日月は肌がとても白いから、こうやって深く濃い色の着物を着るとその白さが際立った。
 三日月が口を開いたのは、それから数分後のことだ。飴玉は溶かしきったらしい。空の舌の上には、まだ飴玉が小さく残っている。

「浅葱さんの相手が三宮さんってのは、ほんとに、ただの噂なんだから、確認してみたら?」
「確認?」
「浅葱さん本人に。身請け先が三宮さんなのかって」

 確かに、浅葱なら噂の真実を教えてくれるだろう。噂が間違いなら、いつぞやのように思い切り顔をしかめるに違いない。

「身請けを受けるかどうかは、それからでも遅くないんじゃないかなー。その相手、今度はいつ登楼るって?」
「……いつも、だいたい一日おきだから、明日かな」
「じゃあ今日のうちに浅葱さんに聞いたら」
「……」

 確かめるべきだろう、と三日月は言外に言う。身体を起こし、滅多に見ない真剣なまなざしで注視してくる三日月に、空は首を横に振って諦めたように笑った。

「聞いて、それが事実だったら、俺たぶん、泣いちゃうから」

 下手をすれば、浅葱の目の前でだ。それだけは絶対にあってはならない。浅葱は優しい妓だから、きっと空に気を遣ってしまうだろう。それは空の本意でない。笑って浅葱を見送るためには、傷は少ないほうがいい。祝福してやりたいのは本心なのだ。
 だから聞かない、と頑迷に答えると、三日月は「そう」とだけ相槌を打った。
 三日月は立ち上がり、空に飴玉のつまった袋を投げて寄越すと、部屋の襖に手をかけた。

「三日月さん?」
「それ、あげる。――キャラじゃないことしたら疲れちゃったー。トーリ君ちょっと遊んでくるねぇ」
「あ、あの――ごめん」

 謝ると、三日月は不思議そうに首を傾げて振り返った。

「せっかく助言してくれたのに、無駄にして」
「あは……謝るんだったら、トーリ君と遊んでくれたほうが嬉しいんだけどなあ」
「……それはちょっと」
「ふふ。じゃあやっぱり空と遊ぼう」
「は?! どうしてそうなるの?!」
「んー? そんな気分になったので」

 三日月は緩く笑いながら近づいてくる。後じさって逃げる空の様子さえも楽しんでいるようで、その笑顔は緩いくせに輝かしい。
 再度気を変えるつもりがないらしい三日月から逃げるうちに、空の背中は壁にぶつかった。眼前には覆い被さるようにして三日月が迫っている。――逃げ場は、失われた。


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