トロイメライの聴こえない


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  神無竣介という男は。

 俺と同じ高校の三年四組……というのは俺が所属しているクラスです。つまり大ざっぱな説明をすると俺のクラスメイトで。癖のある黒髪に端正な顔立ちをしていて、黙っていると物憂げな雰囲気を出しているけれど、その実よく気が利き社交性のある、そういう男です。

 先だって説明した通り、梨本くんのいるテニス部に所属しており去年の秋から部長になったと吹奏楽部の女子が話題にあげていました、あれで結構女子からはモテているようです、見てくれが良いのでそれも当然かもしれませんが。

 彼は俺の幼馴染といって差し支えない存在でした。

 二人の関係をあらわすにはもっともっと相応しい表現があることはわかっていますけれど、今となってはもう、神谷晴樹と神無竣介の関係はその程度のものでしかありませんでした。

 それはもう、終わった話ですから。

 さて、俺が校舎の最上階にある音楽室から待ち合わせ場所の昇降口へ着くまで、そう長い時間はかかりませんでした。元々俺は足の速い方でしたし、他の高校と比べて大きなうちの学校と言ってもその広さなどたかが知れています。なにより俺は、早く梨本くんに会いたかったのです。早く彼に会って、他愛ないおしゃべりをして、先程の不愉快な神無との時間を忘れてしまいたい、なんて。

 上履きを脱いでローファーに履き替える僅かな時間すらも焦れったく、普段はそんな品のない事はしないようにしているのですが今日ばっかりは踵を踏んでしまおうかと思う程で(いえ、実際にはいつも通りローファーを履いたのですけれど)俺は息せき切って校舎の外へ出るときょろきょろと辺りを見回し待たせているはずの梨本くんの姿を探しました。

 校舎の外は既に日が沈んで暗く、幾つか設置された街灯の心もとない明かりがぼんやりその周りを照らしています。生徒の大半は既に下校したのでしょう、遅くまでお仕事をなさっている先生方の車がいくつか止まっているだけで人気は感じられません。

 視界のずっと向こう側には住宅街や国道沿いのお店達が海沿いまで綺麗な夜景を作っていました。今日は天気が良く、少し目線を上げると大きな月と麓で見るのよりもっとたくさんの星がくっきりと見えます。

 どこを見ても梨本くんの姿が見当たらないものですから、彼が先に帰ってしまったのではないかと少しばかり不安になりましたが直ぐに考え直して、まぁ気立ての良い彼の事ですから約束をそう簡単に反故にすることもないでしょうなんて自分に言い聞かせます。

 梨本くんならたとえ急ぎで帰る必要が出たとしても連絡をくれるはず、と校内では使用禁止になっているので電源を切っていた携帯電話を立ち上げていると間もなく背を向けていた昇降口の方から誰かの足音が聞こえてきました。

「先輩、遅くなってすみません」

 声をかけられ振り返るとそこには梨本くんが居ました。大層急いで来たのでしょう、少し息が上がった様子でいる彼が昇降口から出てきたと言うことは、もしかすると俺の事を迎えに音楽室へ行っていたのかもしれません。

「ううん、平気」

「先輩まだ音楽室に居るのかなと思って」

 予定より早く終わったんで迎えに行こうと思ったんですけど。と梨本くんは言って俺のほうを見ました。電灯と微かな月明かりの下で俺はどんな風に見えているのでしょうか。大して風が強い日でもないのに髪が乱れていたりはしないだろうか途端に気になって、目元にかかった前髪をよけるように手で払いました。

「帰りましょうか」

「うん」

 二人とも男子ですし、こんな時間に走ってくる車もありませんから気にしなくってもいいのに梨本くんは俺と並ぶとき車道の側を歩きます。通学路を歩く俺と梨本くんの距離はなんというか、友人よりも半歩近く、お互いの手が触れ合うことはない恋人よりも少しばかり遠い、そんな微妙なものでした。思えば最初は彼の後ろ姿をただただ眺めているだけでしたから大きな進歩なのでしょう。

 けれど人間という生き物はなにかを手に入れるとその次が欲しくなる生き物のようで、今、俺はほんの少しでもいいから、梨本くんと手がつなぎたいな。そう思います。いえ、今すぐにではなく、将来的に、ですけれど。

「そういえば」

 はた、と思い出したように梨本くんは声をあげました。

「さっき、神無先輩と会ったんですけど」

「神無…?」

「音楽室で。神谷先輩、会いました?」

 ああもう。折角梨本くんと一緒に下校できて神無のことを忘れていたというのに。思わず舌打ちしそうになってしまいましたが梨本くんの前であることを思い出し俺はそれをかろうじて我慢しました。

「…………うん」

 俺があいまいな返事で返すと梨本くんはわずかに目を伏せました。

「………………なんか、妬いちゃうな」

「えっ?」

 発せられた言葉に思わず俺は足を止めてしまい、それに彼は2歩ほど歩いてから気が付いたようで振り向き俺のことをじっと見つめます。視線と視線がぶつかって、まだまだそれに慣れない俺は急に鼓動が早くなったような気がしました。

 「二人ともなんていうか、俺みたいな外側にいる人間じゃわかんない特別な関係、みたいな感じがして。そういうの、羨ましいな、って。変ですか」

「……いや、そうじゃない、ん、だけど」

 俺と神無の関係のどこに嫉妬する要素があったのか。梨本君は何か勘違いをしているとしか思えないのですが。彼だけではないのです、それは誰も知らないはずです、俺と神無の間で何があったかなんて。

 梨本くんにそんな昔のことを話すのもはばかられますが、俺のことを見る彼が拗ねた小さな子みたいな顔をしているのを放っておくのもあんまりだと思い、どうしたものかと考えた末に俺は梨本君に左手を差し出しました。

「ねぇ、手、繋いで帰ろ」

 俺がそう言うと梨本くんは小首を傾げ、俺の横に来てそっと手を握り返してきてくれました。指と指とが絡み合う、所謂恋人繋ぎというやつをするのは俺もなれておらず、その相手が梨本くんとなれば、もはや俺が平静を保っていることが不思議なくらいの心境でした。

「俺ね、両親以外と手を繋いで帰るの、今日がはじめてなの」

「……結構意外なんですけど」

「そう?」

「神谷先輩、恋愛経験多そうなので」

 そんなことは、無いのですけど。俺は一途な方だと自負していますし実際お付き合いをしたのも梨本くんが二人目です。初めて付き合った人とは、終ぞこんな風に手を繋いで下校することは有りませんでした。

 思っている事をそのまま言葉にしたら梨本くんは嬉しそうにへにゃりと笑い、俺の手を握る力が少しだけ強くなりました。

「じゃ、これ、特別ですね」

 将来的に、と考えていた願望が急に叶ってしまった事に嬉しさのあまりくらくらとしてくる反面、梨本くんの笑顔を見ていると罪悪感に貫かれるようで、俺は少しの息苦しさを覚えました。

 俺と梨本くんの間に「二人だけのヒミツ」があるように、俺と神無の間にも、梨本くんには言えない秘密があります。それを明かさない俺は、卑怯でしょうか。

 だけれど俺は怖いのです。

 もう二度と、誰かに捨てられたくないと思うのは、仕方のないことじゃないでしょうか。ねぇ。


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