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乱れた呼吸を整えると俺は近くにあった椅子に腰かけた。試合の後のように鼓動が速く脈をうつ音がどくどくと鳴っている。何をする気も起きずただ俺は座っていた。
時計を確認してはいないが、恐らく下校時刻をそろそろ過ぎるころだろう。戸締まりを確認しに誰かが来るまえに、できることならここから立ち去りたい気持ちもないではない。ただ、立ち上がる気力がない。それだけだ。
俺の首にはまだあの手の感触が残っていた。
神谷の白い、冷ややかな手の感触が。
しっとりと冷たい陶器のような手が触れた時、吸い付くみたいに、いつも軽やかに鍵盤を叩いていた指が、幾度となく握った手のひらが、俺の熱を根こそぎ奪っていった。
一度深く息を吐き、吸い込んだ教室の空気は肺をつく冷たさもなく温い。ただただ、忌々しい、そう思った。
後悔をしている。そうなのか?
しているとしたら、何を?神谷と仲違いしたことか?あいつを突き放したことか?今呼吸するこの部屋みたいに生温いそんな関係をだらだら続けてしまったこと?そうして神谷に期待を持たせてしまったこと?それとも。
それとも俺が。
俺があの日、神谷の、神谷晴樹のあの、細い、首を、ただ締めるだけで飽きたらず、俺が。
俺のその不毛な思考はそこで途切れた。
ぎぃと、音楽室の重たい扉が開く音が俺の背後で聞こえた。俺は扉に背を向けぼんやり窓の方を向いていたから、扉を開いたのが誰なのかわからなかったが、恐らく戸締まりの確認をする教員の誰かだろうと思い、神谷に詰め寄られた際に取り落とした鞄を拾って扉の方へ向き直った。
「……あれ、」
片手で音楽室のドアノブを握り、半歩室内に踏み込んだ姿勢の男子生徒がそんな声をあげた。彼は困惑の色を浮かべつつ室内にそのまま歩みを進め丁寧に音楽室の扉を閉める。
彼は予期せぬ人物がいたことに戸惑っているようだった。俺も彼が訪れることは想定していなかったから少々困惑し、いや、違う。俺はわかっていたかもしれない。
俺が神谷を引き留めたのだから、彼が、梨本幹隆がここに来る可能性があることは、わかっていたはずだ。決して、それを狙っていたわけじゃないけど。
「神谷なら、さっき出てった」
俺は、階段を駆け上がって来たのだろう肩で軽く息をしている後輩にそう声をかけた。
まだ首元はじとりとした冷たさを保っていたが、そこから発した声は思ったよりも平静に程近いもので俺は内心少々安堵した。
「ああ、そう、ですか」
入れ違っちゃったかな。と小さく声を漏らした梨本は乱れた呼吸を整えるように数度深呼吸をした後、小柄な背丈に対して少しばかり大きく見えるラケットバッグを背負い直し、何も言わず音楽室を去るそぶりを見せた。
……先日、梨本は俺に神谷のことを相談してきた。
なぜ俺にと問うと彼は、神谷先輩と部長(そう、俺のことだ)が付き合いの長い友人だと聞いたのでと答えた。
俺は些かその情報は不確かじゃないか、というか更新がされていないんじゃないかと思いもしたのだが。俺自身、神谷に対して色々と思うところはあれど梨本本人には特に悪い印象は持っていなかったのである程度は答えてやろうと思った。しかし。
あろうことか梨本が、神谷のことが「気になる」と言うものだから。「好きな人」と言って神谷の名前を出したものだから。俺は戸惑った。そして、この二歳下の後輩の事を危惧してしまった。
アレの事を「好き」になるなんて。そんな危険な事をこいつは本気で言っているのかと。
俺が聞き直すと梨本はすこしはにかんだように笑っていた。きっと神谷は、梨本のこういう顔が好きなのだろうとなんとなく感じた。
考え直すと、彼らが好きあっているのなら俺から言うことなんて本当は何もないはずなのだ。
そうか、と言って、そう、神谷の好きなもののことでも教えてやればそれで言いはずなのに。俺がよく知っている神谷晴樹のことを教えてやればそれで。
しかし俺はそうしなかった。お節介というのは、こういう事を言うのだろう。
……俺が言った言葉に梨本は寂しそうな顔をした。彼がバカじゃないのは俺にもなんとなくわかるから、俺と神谷の間の深い溝を察したのだと思った。
その日以降、今日に至るまでそれほど日は経っていないが、何度か部活で顔を合わせても梨本は俺に神谷のことを聞いたりはしなかった。
しかし、俺がこの時間神谷がいるはずの音楽室に一人でいたのを見て、梨本が何も思わないはずがないのだ。
だから俺は神谷がいないと聞いて、そうですかとそのまま踵を返そうとする梨本が不思議でたまらなかった。俺は今、神谷となにかあったのかと聞かれたら洗いざらいとはいかないまでも口を開いてしまいそうだったから。
「梨本」
俺が呼び止めると彼は顔をあげ俺を見た。ぱちぱちと何度か、子供っぽい瞳を瞬かせた。
「なんですか?」
自分で呼び止めたのに、俺は何を口にすれば良いのかわからなかった。逡巡し、さ迷う視界に、音楽室の壁にかかった時計が映った。もう下校時刻の8時はとっくに過ぎていた。
きっと神谷は昇降口で梨本のことを待っているのだろう、梨本をあまり長く引き止める訳にもいかないし俺も早くここを後にしないといけない。分かっている。わかっている。
「あの」
俺は何を言いたかったのか。それを聞かずに梨本は口を開いた。
「俺、やっぱり思ってるより神谷先輩のこと、スキですよ」
「…………そっか」
俺は何を言っているのだろう。今の俺は、どんな顔をして言葉を発した?
「あと、多分……部長が思ってるようなのじゃないです、俺と先輩の関係って」
じゃあ、また明日。と言うと梨本は俺に軽く礼をして今度こそ音楽室から出ていった。
俺は、彼をもう呼び止めなかった。廊下をかけて行く足音が遠くなり、支えるもののいない音楽室の扉が閉まって俺はまたこの教室に一人で取り残された。
俺が思って居るような関係じゃない。それは、その通りだ。俺だって言ったじゃないか。
「梨本は俺と違うから」と言った少し前の自分を思い出しながら、俺は手に持ったままだった鞄を背負った。
昇降口で落ち合って一緒に下校するであろう二人と鉢合わせないように、適当に歩速を落とし、消灯した音楽室を後にする。
二人を危惧しているのだって俺の勝手じゃないか。俺がそう、自分を思い出して、勝手に想像しているだけ。それなら俺はただ祈っていればいいんだ。梨本が昔の俺のようにならなければ良いと。
俺が昇降口についた頃には、既に辺りに人の姿はなかった。
俺は温い春の空気を吸い込み、一度目を閉じてそれから校舎を後にした。
……俺は。神谷晴樹の白い手の、そのしなやかな指が白と黒の鍵盤の上を軽やかになぞるのをいつも見ていたのを覚えている。
彼が微笑んだ時、くっきりとした二重の瞼が少し翳り、睫毛が作る影が透き通った瞳の中でゆらゆらと揺れたのを覚えている。
涙を流した時にその粒が、白い肌に一点だけ落ちた黒いインクのような小さなホクロの上を通って行ったのを覚えている。
ねぇ、と俺に声をかける時の、小さいのにしっかりとこちらへ届く澄んだ囁くような声がまだ頭の奥に残っている。
俺とあいつは幼馴染だ。
二人の関係を表すのに、もっと適当な言葉が他に存在するというのは理解しているけど。今となってはもう、神無竣介と神谷晴樹との関係はその程度でしかないしそれ以下かもしれない。
俺は神谷晴樹の事が好きだった。
神谷も、きっと俺の事が好きだった。
けれどそれはもう、終わった話だった。