トロイメライの聴こえない


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「…………神谷」
そう、自分を呼ぶ懐かしい声がして、俺は楽譜から目をあげました。

時は5月。早いものでゴールデンウィークも終わり、最初の登校日の放課後、吹奏楽団の練習も終わった7時半頃の事でした。
俺が校舎に残っていた理由は二つ。ひとつは今月の終わりに控えているエレクトーンの発表会の練習をしなくてはならないのに家のエレクトーンの調子が悪く学校で練習せざるを得ないということ。
そしてもうひとつの理由は…………ええ、校舎の鍵がかかるぎりぎりまで練習をしているテニス部が終わった後、梨本くんと一緒に下校する約束をしていたからでした。
ですから最初、音楽室の扉が開くのに気が付いた俺は、梨本くんが時間には少し早いですが俺を迎えに来たのか、はたまた吹奏楽団の誰かが忘れ物を取りに来たのだと思ったのです。
しかし、扉を開けたその人の声を聞いた俺は瞬時にその考えは誤ちだと理解しました。
その声をどうして忘れる事が出来ましょうか。
目をやる必要も本当は無かったかも知れません。その昔嫌という程見つめていた彼の顔はきっと、心底申し訳ないとでも言いたげな表情を浮かべているのでしょう。
俺はふつふつと込み上げる怒りだとか苛立ちだとか、あと少し混ざった呆れやなんかといった感情を、敢えて隠すことなくそのまま声にして扉に手をかけたまま棒立ちのそいつにぶつけてやろうと口を開きました。
「何しに来たの?」
あれほどの負の熱量を込めたはずなのに、喉からでたのは自分でも驚く程に冷たい声でした。
そう声をかけられた彼は、俺の想像したのと寸分違わぬ、躊躇いがちに視線を泳がせ後悔が入り交じったような表情をしています。今更、何を悔いると言うのでしょうか、こうなったのは紛れもなく彼の責任である筈です。
「部活は?終わったの?終わったんなら俺も帰る、約束があるから。」
彼が次の言葉を懸命に考えているのは俺にもわかっています。ですがそんなことに、俺は気を遣いたくは無かったのです。だから俺は矢継ぎ早に言葉を続けました。
嘘は、言っていません。
彼は現在のテニス部の部長をしています。彼がここにいるということはつまり、テニス部の今日の活動が終わったということに違いないのです。
活動が終わったのならば俺はもう校内にいる必要などありません、出てくるのがあまりに遅いと梨本くんだって、俺を迎えに音楽室まで来ることでしょう。彼は多分そういう人ですから。
下校時刻の8時まではもうそれ程時間がありません。俺は彼に構っている暇などないのです。
「…………約束って、梨本と下校する約束……か」
「……は?なんでお前が知ってんの?」
「あ、いや、それは」
まさか彼の口から梨本くんの名前が出るなんて、いえまぁそりゃあ同じ部活に所属しているのですから名前は知っていて当然と思いますけれど、それでも、今ここで彼が梨本くんと俺の約束を知っているなんて、勿論考えもしておらず。
柄にもなく声を荒らげてしまった俺に問いかけられて、彼はうろえたような表情を隠すことなく浮かべました。
少し珍しいような気もします。彼はこと自分の思考を隠すことが、ええ、意外なことに得意でしたから。
「…………いいよ別に、言わなくても」
なんで、と聞いたのは俺の方なので、理不尽なことを口にしている自覚はありますが、俺にはその権利があると思うので。俺は最初に声をかけた時と同じ冷えた口調に戻り彼に何かを言われる前にと言葉を続けます。
「わかってるなら良いでしょ?お前に構ってる暇なんかないの。俺、人を待たせたくないんだけど。」
「なぁ神谷」
そうしている間に俺はすっかり帰り支度を終えていて、彼との会話を打ち切り梨本くんと待ち合わせをしている裏手の昇降口に向かおうとリュックサックを背負いました。
それなのに、彼は全くもってその意図を解していないようで、まだ俺に声をかけてくるのです。
「…………あのさ、お前人の話聞いて」
「お前、梨本と付き合ってんの」
こいつは本当に、一体突然、何を言い出すのでしょうか。
俺はもう何度目になるかもわからない「なんで」とか「どうして」とかの言葉を飲み込み、平静を保つよう心がけながら言葉を発していきます。彼を責め立てるような言葉を。
「そうだけど。それで、お前に何か不都合ある?」
彼の表情がまた曇ります。してやったりと思いました。
「……そうじゃなくて」
彼はそれでも、その曇った表情のままで言いました。
「そういうのじゃないんだ」
「なにそれ、どういう意味」
「……梨本は俺と違うから。」
「は……?当たり前でしょう」
「なぁ神谷。本当にわかってるのか?あいつを巻き込んでやるなよ。それは多分、間違ってる。」
口にした彼の表情にはもう翳りはなく、ただ真っ直ぐに俺を見ていました。
真摯な目付きが、俺が誤っていると言わんばかりの口ぶりが、なによりも自分の行いを忘れてこんな話をすることそのものが彼の何もかもが俺を苛立たせます。
だから俺は、俺は次の瞬間、自分でも驚く程俊敏に力任せに、彼の首へ手をかけていました。
「間違ってる!?何が!?間違ったのはお前でしょ?今更出てきて何様のつもり?何がしたいの何が言いたいの俺に未練でもあるの後悔してるとでも言うの?後悔しているから梨本くんに同じ轍を踏んで欲しくないとでも?それで先輩面してるつもり?ふざけんな!良い?俺たちは終わったの!!終わらせたのは、」
最後に触れた時よりも、少し太く青年らしくなったのだろう彼の首を、彼がいつもしてきたみたいに両手で包み込んでそのままぐっと力を込めました。
彼はまだ尚その真っ直ぐな目で、まるでこれを見越していたような覚悟を持っている顔でいて、俺はそれを見てふと言葉に詰まって。

そうしてぱっ、と手を離したあと取り落としたリュックサックと部活で使っている楽器のケースを手に持ち音楽室の扉へ向かいました。
背後で彼の咳き込む音が聞こえます。自業自得だと、そう思います。

「終わらせたのは、お前だよ。そうでしょう、神無」

俺は続きをそう吐き出すと音楽室を出て、これ以上何も考えないようにとしながら、それでもごちゃごちゃとした思考のまま、足早に昇降口へ向かいました。




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