Annie Laurie


俺は脚立の上に腰掛けて台本を読んでいた。
店内は人気の少ない時間帯で、店の外、商店街を行き交う奥様達の話し声がかすかに聞こえる。
誰かが店内に入ってきた。
俺はちらりとそちらを見て、神谷晴樹の姿を確認すると脚立から降りた。

「梨本君」

唐突に。
先輩が俺の手を掴む。
腕は細いくせに、強く俺を引くその手は離れない。
俺の持っていた台本の束がばらりと床に落ちた。

「なんですか」

俺は言う。
ほとんどにらんで居るも同然の顔で俺を見つめる先輩を、じっと見つめ返す。
何を彼は、そんなに必死になっているのか。

「ねぇ、腕」

腕…?
ああ、そういえば昨日見られてしまったのだっけ。
いや、見られても困ることはないのだけれど。勝手に心配されて面倒なだけであって。
そうぼんやりと思っている間に、先輩は乱暴と言って過言ではないような仕草で俺のセーターの袖を捲った。

俺の腕があらわになる。

それを見た先輩が小さく息をのむ音を俺は聞いた。

皮膚はいつも長袖で隠しているからか不気味なくらい白く、それでいて傷が新旧入り交じって赤みの残るものから、治りかけてうっすら茶になったものも、グロテスクな青く紫で黒い痣も様々に刻まれている。

…ああ汚い嫌だなぁ先輩に見られるのは少し、否とても嫌だなぁだって義母さんもそれに父さんも見たくないって言うから汚いと言われるからこれを見たら他の人は嫌な思いをするって言われるからそう言ってまた彼らは俺を打つから痛いのは嫌われるのは嫌だし俺は先輩にそんな事思われたくないのになんで先輩はこんなモノを見たがるのか全くわからないんだけれどいったいこの人は

「なんのつもり、ですか」

ふとこぼれた声が震えている。
彼の視線が俺の腕に痛いほど注がれているのを感じた。
そんなに、見ないで欲しいのにな。

ゆっくりと、先輩が口を開く。
ああこれは、やめてよ。聞くなよ。

「この傷。何?」

若干のためらいが込められた、優しい声。
でも、

「……先輩には、関係ない、です」

俺は先輩の手を無理矢理に振り払った。
いつの間にか身体ががたがたと震えている。
あ、俺、怖いんだ。
でも、なにが?何が怖いって言うんだ。
こんなまるで、これじゃ父さんと居るときみたいじゃないか。
先輩は違う。違うはずなのに。
信じてた平和が壊れるようで不安で、身体を抱くようにきつく押さえつけても震えが止まらない。怖い。こわい。

「あのさ、俺と君ってさ」

先輩が俺に話しかける。
琥珀の瞳できっと俺を見つめている。
俺はうつむいたままひたすら身体の震えを収めようとしていた。

「一応、恋人だよね。」

あんなに綺麗で、いつまでも聞いていたいと思っていた先輩の声が、怖い。
今までの毎日が崩れる音が声と鼓動と重なって耳鳴りのように響く。

「好きな人が傷だらけなのを心配しちゃいけないの。」

そうじゃない、そうじゃない違う違うんです。
俺はうずくまって耳を塞いだ。
聞きたく、ない。

「……ねぇ、梨本君は」

違う。やめてください。お願いだから

「俺のこと………きらい?」

そうじゃ、ないんだ。

「……じゃあ、せんぱいは」

俺は声を絞り出した。
自分でも驚くくらいの弱々しい声で先輩に問いかけた。

「せんぱいは、おれをたすけてくれるんですか」

まるで縋るような、嫌な声だ。
こんなしゃべり方するから、嫌われる。

ああ何言ってるんだろう、俺は何を期待しているんだろう。
そんなこと。無理に決まっている。
でも俺は畳みかけるように続ける。続けて、しまう。

「どうしてこんなきずがあるのかおしえたら、せんぱいはおれを、おれをたすけてくれるっていうんですか?」

先輩は何も言わない。
当たり前か、こんな事言われて何か言えという方がどうかしているのだ。
ぼたりぼたりと大粒の涙が溢れて落ちて床のタイルを濡らす。
…俺、なにしてるんだろう。

「……先輩、今日は、もう、…帰っ、て」

息を大きく吸い、やっとの思いで俺はそう言った。
それを口にするまで酷く長い時間が経ったように思う。
言った後も嗚咽がとまらなくて、きっと先輩は今日の俺を見て嫌になったろうななんて思ってまた苦しいくらい鼻がツンとして涙が溢れてくる。

「………ごめんね」

先輩は泣いてる俺の頭を撫でて、本当に優しく撫でて、それから名残惜しそうに店を去って行った。
ガラス張りの扉に取り付けられた鈴が鳴る。

「…あ、先輩…」

置いてかないで
そう言いそうになった。
帰れって言ったの自分じゃないか。

「……バカじゃん…」

床にぺたりと座り込んだまま、俺は暫くじっと泣いていた。







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