新世界交響楽
海に来た。
夏の夜、人気のない道を自転車に二人乗りして海まで来た。
砂の上に積まれたテトラポットの上に座ったままただぼんやりとしていると潮のにおいと波がぶつかって砕ける音と一緒に聞き慣れない楽器の音がした。
隣を見ると先輩は背負っていたケースからギターとキーボードを合体させたような楽器(ショルダーシンセサイザと言う名前らしい)を取り出してその鍵盤に白い指を這わせている。
この曲、知ってる曲かもしれない。自信はないが、そんな気がした。
目下に広がる海は暗い、所々水面が月の光を反射しているだけで水の中は闇そのもののようだ。同じ闇で塗りつぶされた空には電飾をぶちまけたような、ガラス片をちりばめたような、つまり、まばゆい星が一面に輝いている。
この闇に飛び込んだなら、きっと宇宙の中に居るような気分になるのだろうな。それでもこの海は、この中は寒そうだから。それは少し、否、とても、嫌だ。
どうせならば、もっと暖かなとき――例えば昼間やなんか――に沈みたいものだ。
ふと先輩を見る。遠い遠い海の向こうを、夢みるような、まるで、その先にある家に焦がれるような目で見ながら彼は鍵盤をなぞる。
俺は、知ってる曲も知らない曲もまぜこぜに、思ったままの音色を奏でだす彼の整った横顔をぼんやりと見つめた。
――あれ、俺が先輩を殺したいと思い始めたのって、いったいいつだったろう。
始めはそんなじゃなかったのに。もっと普通に、ただ好きだった。そんな気がする。
「死を与えるという愛」が異常だっていうのは自分でもわかっていて、「普通の愛」とは全く相容れないものだってのは重々承知の上で。それでも俺には、その「普通の愛」は遠いどこかにあるものになりはててしまったってことが少なくとも確実なことのように思えた。
もう戻れない、普通にはなれない、どこにもいけない。
俺がたとえ異常者だとしても、それでも俺は愛してもらえるのだろうか、なんて不安になったりもした。
あの人も、そうだったのだろうか。
あの人。俺が殺した人。俺を殺そうとした人で、俺を愛そうとした人。そして俺の愛すべき母親。
いろんな人に忘れなさいって言われて、忘れたふりをして、いつの間にか本当に、写真なしでは顔も思い出せなくなってしまったあの人のことも、そろそろ昔話にして良い頃合いだろう。
先輩の弾く電子の音色は、星空と海によく似合う。昔話にはぴったりだ。
あぁ、なんだか眠くなってきた、だから、眠ってしまう前に、少しだけ。
もうなんだかずっと昔のことのような気がするのだけれど、あの日は奇しくも今日に少しだけ似ていた。
咲貴子と俺とは母親が違う。俺は父親の不倫の末に生まれた、所謂妾腹の子というやつで、本来ならば父親とは無縁に生きるはずだったのだが、正妻の子供は咲貴子だけで跡継ぎとなる男子がいなかったことや、そのほか世間体やら養育費やらという生臭い話を祖父母をはじめとする親類で合議した末、俺は梨本家の息子となった。らしい。
父に引き取られたとはいえ、産んだ母親にはいつでも会うことが出来たし、血のつながらない母も俺と咲貴子を分け隔てなく育ててくれた。
だからそんな都合などなにも知らなかった当時の俺は、ただ単純に「自分は母親が二人居る」とだけ考えていた。
俺を産んだ母親は電車で二駅ほどいった街に住んでいて、俺は彼女のことが大好きだったから、長期の休みは勿論のこと、土日や三連休などのちょっとした休みの日にも彼女の家に遊びに行っていた。
その日も、そうだったはずだ。
夏休みにはいって、数日間泊まりに行く許可を得た俺は一人電車に乗って彼女に会いに行った。
博物館とか美術館とかプラネタリウムだとか、父親があまり連れて行ってくれないところへ行く約束をして。
初めて行った博物館で大きな琥珀を見て、美術館で走って怒られて、プラネタリウムで星を探して、
俺はとてつもなく幸せで、行く先々で「今度もまた一緒に来よう」と言った。しかし、母はその言葉を聞くとうっすら顔を曇らせ悲しげに「そうだね、また来ようね」と言うのだった。
子供のころはそれが不思議でたまらなかったのだが、今思い出してやっと気付いた。
彼女はそのときすでに心中するつもりだったのだろう。
その後はあまりにもあっという間に時も事も過ぎ去った。
泊まる予定だった一週間も最後の日になって。
その日、彼女と俺は自由研究課題として提出するプラネタリウムの映写機を作っていて、帰ってから咲貴子に見せたらきっと喜ぶだろうねなんて話していた。
まだしっかりと映写した事のないそれが、寝るときに部屋中を銀河に変えるんだと思うと夜が楽しみで。それでも夜が来たらまもなく朝が来て、そうしたらまた母さんに暫く会えなくなるのだと考えると俺はなんだかとっても寂しくなった。ずっと一緒に居られれば良いのに、とぼんやり考えてしまう位に。
その後、三時のおやつに大好きな彼女が自ら焼いたパウンドケーキを食べている俺に「美味しい?」って聞いて笑ったのが俺の知ってる彼女の最後の笑顔だった。
ずしりという重みと息苦しさに俺は目を覚ました。
どうして寝ているのかなんて事はそのときはどうでも良かった。
俺にとって知るべきは、誰がどうして俺を殺そうとしているのかというただそれだけで、
それは悲しいことにすぐわかってしまった。
母が。
俺を産んだ実の母が。
俺の息の根を止めようと首を絞めていた。
首で血がせき止められる。
満足に口もきけなくなって、酸素を求めて口を動かそうにもどうすることも出来なくて、ただ逆光で黒い影となっている母はどんな顔で俺を見ているんだろうなんて事をぼんやり考えているしかなかった。
どんどん苦しくなっていく、締められて自然と口は開いてしまうからあごが痛くって、目の前も頭の中も真っ白く染まっていく。
怖い。
怖かった。
死ぬって事がとてつもなく怖かった。
怖い怖い怖い、死にたくない、まだここに居たい。死にたくない。生きていたい。
一度思いつくとその言葉が、「生きたい」という言葉が、何度もリフレインしてきて俺の真っ白な頭を満たす。
生きたい。
俺は必死で抵抗した、じっとりと湿った彼女の手は悲しい呪縛のように俺を離さなかった。
生きていたい。
俺は夢中になって、手探りで見つけた何かを掴んで、それでそのまま彼女を殴った。
堅いモノが何かを砕き、ずぶりとめり込むような、嫌な感触がした。
妙に暖かく、生ぬるい液体があふれ出て俺にかかった。
音はなかった。何かを叫んだ後、彼女は倒れて、暫くして動かなくなった。
急に気道が広がって酸素が入り込んでくる。
俺はその場でただ荒い呼吸を繰り返していた。
鉄の味が口いっぱいに広がる。
ゆっくりと起き上がり、ぼんやりとした意識で彼女を見ていた。彼女はいつまでたっても動かなかった。不思議なことに、涙は一滴も出てこなかった。俺はその場から動かないでいつまでも彼女を見ていた。
夕暮れ時の窓の外で、新世界交響楽が鳴っていた。
もう俺はどこにも帰れない。そんな気がして、そうして初めて涙がこぼれて、やっと、泣いた。
その後どうなったのかはよく憶えていない。それは本当だ。
俺は一ヶ月くらい学校を休んで、その間何をしていたのかも憶えていない。
咲貴子は帰ってきたきりふさぎ込んでいた俺を心配はすれど、罵ることや恐れることはなかった。きっとなにも知らなかったのだと思う。
その反応は別に咲貴子に限った話ではなくって、世間的にどんな扱いになったのか俺は知らないけれどおそらく不幸な事故と同レベルの事件として扱われたのだろう。
だから、だから俺は今、真人間のふりをして先輩の横にいられるのだ。
先輩を見ると、彼はまだ電子音を奏でていた。
じっとその横顔を見ていると、おもむろに旋律が途切れた。楽器を仕舞いながら俺のことを見た先輩と目が合った。
琥珀色の瞳に俺が映る。
「ねぇ、梨本君。」
きみ、ないているの?
先輩が俺に問いかける。……泣いている?どうして。
不思議に思った俺は自らの目元に手をやる、確かになにか冷たい液体が頬を伝って落ちていた。
先輩の白い、やわらかな指が涙をぬぐっていく。
「………もう、帰ろうか。」
頭を優しく撫でられた。立ち上がった彼に手を捕まれて俺は立ち上がり、少し離れたところに停めてある自転車の方へ歩き出す。
母はあの日、遺書を書いていたらしい。
つまり遅かれ早かれ彼女は死ぬつもりだったのだ、俺を道連れにして。
どうして彼女が俺を殺そうと思ったのかも、彼女が死のうとしたのかも俺は知らない。
ただ確実に言えるのは、俺は彼女から心中に値するレベルで愛されていたのだと言うこと。
先輩は自転車に近づくと、帰りは俺が漕ぐから。と言う。
俺は素直にそれに甘えようと思い荷台に腰掛けた。背中越しに伝わる先輩の温度は不思議に暖かい。
もう俺は普段の母さんの事がなにもかも思い出せなくなっていて、一緒に居た暖かさも忘れてしまったけれど、
それでも、俺は母さんが大好きだった。
ごめんなさい。そうつぶやいて、俺は目を閉じる。今日は、酷く疲れた。
自転車がゆっくり、夜の道を走りだす。
鼻歌で新世界交響楽を歌う先輩の声が聞こえた。
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