カランコロンと音をたててドアに取り付けられたベルが揺れた。
様々に組み合わさった色ガラスが薄暗い店内をまるで水中か、そうでなければ星空の中へと変えている。
焦げたような珈琲の香りがカウンターの向こうから漂ってきて私を包んだ。

「いらっしゃいませ、あぁ、煽梨さんでしたか」
「こんにちは」

私が軽く会釈をすると、カウンターの向こう側でカチャカチャとカップの類を洗っていた青年は柔和な笑みを浮かべ、どうぞ、と私がいつも座っている一番奥の席を指した。

この店の名前はカフェ「やまなし」という。

網のように張り巡らされた南区の路地の奥、それほど陽当たりのよろしくなさそうなそこにこの店はある。
カウンターの向こう側にいる優し気な青年…蟹宮鴇 が店主で、彼ともう一人のウェイトレスでこの店を切り盛りしている、のだけれど。
今日の店内は見たところ鴇くん一人しか居ない。
どうせまた寝過ごして遅刻なのだろう。まったく困ったちゃんな店員さんだ。

「いつも通りでいいですか?」
「あ、うん。…ねぇ鴇くん、孝之は?」

私の問いかけに、鴇くんは曖昧な微笑みで首を振る。

「なによあいつまた遅刻なの?あいつの睡眠嗜好は良い加減如何にかしたほうがいいわよ」

そう私が溜息を吐いたまさにそのとき、店の奥にある店員用の扉を乱暴に開けて誰かが入ってきた。

ゆるゆるとカールした蜂蜜色の髪を大きな青いリボンで結わえたその人物は

「…何故お前がいる。」

乱暴な口調で私を問いただす。

南区女子の制服にフリルのついたサロンエプロンを身に付けた可憐な見た目とまったくかみ合わない少年の声。
彼が、和泉孝之だ。
この南区で最も傲慢な魔女。
そしてこの喫茶店の唯一の給仕係。

その給仕係は何故かカウンターからこちら側に出てきて私の二個隣の席に腰を下ろした。
仕事しなさいよ。

「いいじゃない。お客様なんだから何故いるなんていわないでよ」
「話しかけるな吐き気がする。」

彼は口元をすっぽりと覆うガスマスクを身につけている。
曰く「女と同じ空気を吸うなんて」とかなんとか。
私も詳しくはきいたことが無いけれど、彼はなぜだか極度の女性嫌いで。
手をつなぐとか身体が触れるのはおろか、同じ空間にいることすらもいやがってくる。いままでどうやって生きてきたんだろう。

「まったく、つきあいきれぬな…」
「それはこっちの台詞。あんた仕事しなさいよ。」
「……貴様が帰ったらするよ。」
「なんでよ。」
「なんでもいいだろう。貴様には関係のない話だ。」

孝之は鴇くんから受け取ったコーヒーカップを優雅に口元に運んだ。

こいつはガスマスクをしているのにどうやって飲む気なのだろうか。と私が見ていると、彼は平然と、普段と変わらぬたおやかな仕草でガスマスクをずらしコーヒーを飲んだ。ミルクと砂糖がたっぷり入った薄いコーヒー。以前鴇くんにお願いして同じものを飲ませて貰ったけど、ものすごく甘かった上にコーヒーの味がしなかった。なんでこんなものを好きこのんで飲むのかしら、不思議は尽きない。

「そういえば煽梨さん」

カウンターの向こう側で朝食(多分孝之の)を準備していた鴇くんが思い出したように声をかけてきた。

「ん?なぁに?」
「いえ、ちょっと面白い話を聞いたので」
「なんだまたその話か」

その言い方はないんじゃないか。
孝之はつまらなそうに頬杖をついた。

「また、って?」
「あぁ、和泉さんには話していましたっけ」
「最近は南区中がその話で持ちきりではないか、聞きたくなくても耳に入ってくるのだから飽きて当然だろう」
「もう、うるさいわよ孝之ってば。鴇くんの話が聞こえないでしょ」

私がにらみつけると、彼はそれに負けじとにらみ返してくる。正直、相手にしてられない。

「で?なんなの?その面白い話、って言うのは」
「和泉さんの言うとおり、最近南区全体に広まっている噂話なんですけどね」

鴇くんは珍しく楽しげな、どこかうきうきとしたような表情で語る。
人間。噂話をするときってこんな顔になるよね。
でもそれはすぐに曇ってしまう。…なにか、嫌な話、なのかな。



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