温情
※アニメ9話、10話の間の時間軸

ロンドン橋での戦いを終え、本隊より離脱し近隣の農村を荒らし尽した後のことだった。トルフィンの姿が見当たらない。それも、どうやらこの農村に到着する前かららしい。

「とうとうあのガキも死んだかな」

トルケルとの戦で追った傷の所為でどこぞでのたれ死んだか。兵団にそんな空気が漂った。掠奪のあと一通りの目ぼしいものを手に入れた。次の農村を探しに発とうと、兵団の面々は簡単に身支度を始めようとしている。

「トルフィンはどうすんだ?」

「知らんな。トルケルの野郎の所為で懐が寒い。もうちっとくらい稼ぎ欲しいだろ」

ビョルンの問いにアシェラッドは冷たく答える。この村に辿りつくかわからん奴を待つ時間はない、ということだ。一理あるとはいえ、嫌な予感がする。トルケルとの闘いで負った怪我の様子も芳しいようには感じられなかった。のたれ死んだと決まったわけではないのに見捨てるのは早計だ。

「そこまで来ているかも知れないのに、置いていくんですか」

「別に待つ義理はねえんだよ。手下共の稼ぎは多けりゃ多い方がいい。ガキを待つ時間でどれだけ稼げると思う?」

アシェラッドは腹立たしそうに私を横目で見る。統領として、団員たった一人のために全員の稼ぎを下げる訳にはいかない。これがトルフィンでなく他の者であっても同様の判断を下すだろう。彼は間違っていない。本隊から離れる、村を襲う、不確定要素は切り捨てる。その時々に合わせて判断をするのが統領としてすべきことだ。しかし、捨て置けない。

「わたしが様子を確認しに行きます」

「阿呆な考えは捨てろ、アリアドネ。手下を貸してやる余裕はねえ」

「構いません。単騎駆けなら慣れています」

アシェラッドに食い下がるわたしへ、「何を言ってるんだコイツは」と言いたげに団員たちの視線が向く。皆、トルフィンを置いていくものだとばかり考えていたのだろう。

「おいおい、正気か」

「見捨てるのは後味が悪いです」

ビョルンはわたしの言い分を聞いて呆れているようだった。そんな理由で、生きてるのかもわからん奴を探しにいくのか。骨折り損もいいところだ、と理解に苦しんでいる。

「一日経って戻らなければ行軍を再開してください」

寧ろ一人での行動となるので都合がいい。人数が多ければ迅速な移動はできなくなる。わたし一人で行動するならいくらでも無理はできる。

「アリアドネ、テメエが指図をするな」

「でも死んだと確信がない以上…」

置いてはいけない、そう口にするより早く苛立ちを隠しもせずこちらを睨んでアシェラッドは言う。

「そこそこ腕が立つからって勘違いするなよ。俺らは待たねえ。ガキ一人失ったところで痛くも痒くもねえ。娘っ子が粋がるな。それ以上口答えするならテメエもここに置いていくぜ」

女だてらに弓矢が使える、というだけで兵団に身を置いているだけでわたしには決定権もなにもないのだ。良くしてもらって勘違いをした。彼が怒るのも得心がゆく。

「すみません、出過ぎた真似をしました」

「わかりゃいいんだ」

「でも、痛くも痒くもないなら好き勝手動いても構わないでしょう」

尚も口煩く反論するわたしをアシェラッドは「分かってねぇな」と睨んで黙らせようとしたが口を噤んだのは彼の方だった。

「戻ってこなければ捨て置いてよし、戻ってきたら駒が減らずに済む。どちらに転んでも兵団に痛手ではない。そうでしょう?」

失ったところでなんの影響もないんです、自由にしてそちらに支障がありますか?そう言うと彼は眉間に深く皺を寄せて暫し黙り込み、鋭い目でわたしを見据えた。その後、値踏みをするように頭の天辺から爪先まで隈なく見張った。

「行き先を教えてくれればトルフィンを連れてあとから追いかけます、必ず」

しばし逡巡した後、表情を厳しくしたままアシェラッドは呆れながら言った。

「馬は好きにしろ。きっかり一日半の後、西南に向かう。それ以上は待たねえ」

馬は自分で調達しろと突き放されるかと覚悟したが、好きな馬に乗って行けというのは運がいい。

「ありがとうございます」

言うが早いか厩舎で馬を物色していると、食糧が押し込まれた袋をビョルンが持たせてくれた。

「おら、少し持っていけ」

「助かります」

「これもないよりはいいだろ」

矢を数本ばかり手渡された。身を護るための短刀は忍ばせてあったが、数が多ければ心強い。使わずに済めばいいが、女一人で行動する以上は覚悟はせねばならない。

「トルフィンが心配なんですね」

怪我をしていることを見越して必要なものは持った。荷物をいくつかに分け、一つは自分で背負い二つは馬にくくりつけた。トルフィンはちゃんと連れ帰りますよと言うとビョルンは口をへの字に曲げた。

「馬鹿言え。そんなわけあるか」

「そうですか?」

「無茶すんなよ」

「はい」

無茶をするな、とは無理難題だ。そう感じつつ馬の鞍に跨り視線を前に向けた。我儘を赦してくれたアシェラッドに感謝しつつ、トルフィンが何事もなくいてくれることを祈りながら馬の腹部を軽く蹴った。



兵団が農村へ向かった跡を逆走していく。トルフィンがどの辺りまで兵団と共に行動していたかが手掛かりだ。少しぬかるんでいた地面に目を凝らしたがそれらしいものはない。大の大人の中に小柄な子供の足跡があれば気がつくものだが、どれも大きく幅のあるものばかり。

ということは、まだトルフィンは村の近辺におらず、辿り着いてもいないはず。猟犬でもいれば匂いで辿ることができるが、生憎わたしは弓矢使いの夜目がきく小柄な女だ。他に取り柄はない。手持ちの武器を駆使して手がかりを見つける以外に方法はありはしない。

「さて、憂いても仕方ない」

立って歩けないほど衰弱していてどこかに身を潜め回復を図っているのか、どこぞのヴァイキングたちに襲われたか、のたれ死んだか。トルフィンの身が無事であればいい。その一心で兵団が歩いた道を中心に野山を幅広く虱潰しに探した。道に残る足跡、身を隠せそうな藪の中、茂みの中。何かしらの、彼の痕跡がないかと。

しかし悉く空振りであったものといえば、何某かに犯され殺された村娘の遺体と身につけていた衣類や、鳥の巣くらいなものだった。辺りが暗くなってきた。陽が沈んでしまえば身動きはとれない。些細な手掛かりでもいい、何か残っているはずだと考えて黙々と歩いて回る。

完全に暗闇に飲み込まれる直前まで捜索は続いた。野営については後回しだ。わたしは闇夜に紛れて馬と共に眠ればいい。明日は朝陽が昇ると同時に出発だ。空が濃紺色に染まり星が輝き始めようとした始めようした頃、ふと風のざわめきが途切れた。

「…?水の音がする」

近くに川があるらしい。大きな川ではないようだ。アシェラッド兵団が農村へ向かった道から外れる、獣道に近い道筋だった。草を掻き分けつつ進むと、やや崖の切り立つ場所に出た。崖と言っても大した高さではない。大の大人二人分の高さという程度だろう。とはいえ落ちればだいぶ痛い目をみる。受け身が取れれば全身打撲程度で済むかもしれないが、下手すれば骨の一本や二本は折れてもおかしくない。

「村から出て休みなしだから、崖を下りて休もうね」

馬に声をかけると同時に自分にも言い聞かせた。この辺りを探しているうちに完全に陽は落ちる。川下へ向かうにつれて崖は低くなっていた。それなら川辺に降りて休めると馬から降りて足を踏み出した途端、手綱が引っ張られた。

「えっ」

振り返ると、馬は立ち止まりそっぽを向いていた。言うことを素直に聞く個体だったがここにきて意思表示をしてきた。なんだろうか。前足の蹄で地面を掻いてブルルル、といなないた。何かを報せようとしている。まさか、と落ち着かずすぐに崖の縁に膝をつき覗き込む。

「嘘でしょ」

トルフィンの上着が落ちている。フードがついているあの上着が。暗いとはいえ見間違う筈がない。何故上着だけが、本人はどこに、誰かしらに襲われたか、でも血がついていない、では何故。あらゆる予想が次々に頭に湧き上がっては状況判断により消えていく。

トルフィンは、行く先が川上の方向だと知っているはずだ。いつ落としたかは定かではない。彼はロンドン橋の戦いで手痛い怪我をしていた。恐らく遠くまでは行っていないだろう。行き違いになったかと顔を上げると、上着が落ちているところからやや川上に位置するところでトルフィンが倒れていた。彼は半身を川に沈めたままピクリとも動かない。



羊を集める仕事をすっぽかして暖かい日差しの中でぼんやりとしていた。心地よい陽射しを体めいっぱいに受けてどこか夢を見ているようで気持ちまでふわふわと柔らかくなるようだった。脱力していると、突然ガバッと誰かに抱き上げられて体が宙に浮いた。身を捩ると、眉間に皺を寄せていたずらっ子をどう叱ろうか考えている顔があった。

「姉上」

「この聞かん坊!羊見とけってのは、眺めてろって意味じゃないからね!?」

「ごめんなさい!」

「こらー!仕事しろー!」

口調は荒いけど笑っている姉上の腕を擦り抜けて走り出した。たっぷりと育った草原の中を全力疾走すれば頬に温かい風が当たる。見張りに最適な大きさの岩の上に飛び乗って振り返ると、姉上が大声でなにか叫んでいる。僕が羊を放ったらかしにしてたことに文句を言ってるんだ。羊を集めるのが大変なのはわかってるけどつい遊んでしまったんだ。そこまで大声で文句を言わなくてもいいじゃないか。

「トルフィン!後ろ!危ない!」

血相を変えて悲鳴を上げた。あの姉上が。何事かと事態を理解するより早く、脚を引っ張られて体が沈んだ。水だ。見上げるとたくさんの船腹が漂っていた。浮上して振り返ると、今までに見たこともない図体の大男が笑顔でこちらに手を振っていた。薬指と小指を失って大量の血を流しながら約束だからな、と前置きをして太く派手でやけに通る声で言う。

「またやろうなー!」

楽しげな声がこだました。また殺し合いをしようじゃないか。大男は子供のように待ち遠しそうに言うのだ。気でも狂っているのか。唐突に怒りと不信感とが腹の中に渦巻いた。俺の体は傷だらけだった。打撲に切り傷に矢傷、骨が軋んで痛い。血が流れていく。底なし沼に足が取られて動けない。体が冷たいものに飲み込まれて息ができなくなる。痛い、冷たい、苦しい。寒い。腕を伸ばしても何も縋れず沈んでいく。

「助けてくれ」

声に出したはずなのにゴボゴボと咳き込むように喉がつかえて悶えるだけ。ああ、死ぬのかと理解したとき、自分の体に寄り添うように柔らかく温かいものが触れてくるのに気がついた。



腕の中でトルフィンが少しばかり呻いた。外れていた肩をはめた時、うんともすんとも言わず意識を飛ばしたままだった。体温を上げようと試みたのは正解だったらしい。川辺の風雨がしのげる洞穴に彼を運び込み、火を起こし、手当てをした。

濡れそぼった服を脱がし火に当て乾かし、破れた部分を縫い合わせておいた。裂傷には塗り薬と包帯を巻き、暖かい毛皮で寝かせ、沸騰させた湯を人肌まで冷まして口移しで飲ませた。飲み込めるだけの力はあるので、何度か繰り返し様子を見ていた矢先だった。

「…、……」

ささくれた唇の隙間から空気が漏れてささやき声で何か言っている。微かに目を開けたものの未だ意識は朦朧として夢現な様子だ。

「……っ、!」

体を一瞬痙攣させて跳ね起きた。と同時に体の痛みにその場から動くことも出来ず、再び毛皮の上に寝転がった。ヒィヒィと痛々しい呼吸音が落ち着いた頃になると、周りの状況を把握できてきるようだった。同じ毛皮の中で横になって肌着だけを纏うわたしを見てキョトンとしている。

「トルフィン、大丈夫ですか」

どう見ても大丈夫とは言い難いが、兎にも角にも意識確認だ。どれだけ血を失ったか想像ができなかったから体力回復と保温に努めたのが功を奏したのか、思ったより目覚めるのが早かった。よかった。

「喋れます?」

「…、あ、」

喉が掠れて声にならない。しかし表情は雄弁だった。どうしてお前がここに、と訴えてくるので経緯を大まかに伝えた。掠奪した農村でトルフィンが見当たらないと引き返し捜索していたこと、恐らく崖から滑り落ち河原で倒れていたこと、兵団はその農村で一日半だけ逗留していること、出発から既に一日経っていること。ついでに全身打撲とひどい裂傷があるが骨は折れていないだろうことも。

するとトルフィンはひどく不服そうな顔をした。助けられたことを不満とするなら看病を放り出し置いていくところだが、その不満は彼自身に向けられたものだ。己が不甲斐ないのだろう。納得できない様子については触れないことにした。

「食べれそうならどうぞ。体力つけないと」

怪我人が口にするのは難儀するだろう干し肉を託しつつ、兎を獲りに行った。肉を細かく切って煮込めば多少は食べられる。立って歩けるようになるためには食べてもらわないと。アシェラッドが猶予を与えてくれた刻限には間に合わないが、仕方あるまい。追いつければ問題はない。

狩りを終え洞穴に戻ると食糧は手付かずのまま、トルフィンはまた眠っていた。起きていただけで疲れてしまったのなら、まだしばらく身動きは取れない。兎の皮を剥ぎ内臓を取り出して肉を細切れにし、小振りな鍋に入れてくたくたと煮込んだ。目が覚めたときすぐ食べられるように。肉は柔らかくして体に負担をかけないように。

余った肉を焼いて食べ、新たに見つけた上着のほつれを直し弓矢の手入れをしているとき、気配がした。朧げな目つきでこちらを見ている。

「目が覚めましたか。食べれますか」

「ああ、…」

ひどく掠れた声で答えた。トルフィンは、目を覚まして食べては寝ることを不定期的に繰り返した。深く眠り、時間をかけて食事を摂る。生きるために眠り、食べた。それを支えるべく、わたしは狩りで兎を獲っては捌き食事を作り、火を絶やさぬよう薪を入れながら彼の包帯を変えて過ごした。

「だいぶ良くなりましたね」

徐々に血色も良くなり食欲も増して、座ったり這いずり始めるほどに回復し、意識もはっきりとしてきている。

「もう包帯は要らねえだろ」

「傷は塞がってますけど保護は必要ですよ。傷が深かった分、皮がまだ薄い」

「やめろ触るな」

できたばかりの傷痕をそっと撫でれば、むず痒さと僅かな痛みにトルフィンは顔を顰めた。ほぼ寝たきりで体の痛みの原因を視覚的に把握していなかったからか、傷痕の大きさにやや辟易した様子を見せる。身体中に残る痛みの痕跡を隈なく確認してボソリと呟いた。

「…世話、かけたな」

「どういたしまして」

大怪我とはいえ命に別状がないのが幸いだった。



今日は朝から気温が上がらず、火をおこしても寒い一日だった。陽が落ちて気温はますます下がり、息が白くなるほど肌寒い。腹の中に入ってきた兎のスープも体を温めるには心許なかった。横目でトルフィンを見遣る。毛皮に包まれぬくぬくと暖かそうだ。少しくらい甘えても許してくれるだろう。

「寒い。端っこでいいので潜らせてください」

「好きにしろ」

毛皮の中で身動いてこちらに背を向けた。滑り込むとほのかに塗り薬とトルフィンの匂いがした。人の温もりが沁みる。凍えていた指先が温まって、ささくれだち尖っていた気持ちもどこか丸くなる。物足りなくにじり寄ると更にじわりと温かくなる。

「あったかい…」

「アリアドネ近い。離れるかあっち向け」

「文句ばっかり」

怒らせてしまったら手間だ。言われるがままトルフィンに背を向けて暖を取り続ける。元気になってくれてよかった。暖かさにうつらうつらしたのも束の間、すぐに眠りに就いた。トルフィンがどうにか歩けるほどに回復できたのは農村を発って三日後のことだった。



こいつは、アリアドネはやや心配が過ぎる。

「なんで俺は簀巻きにされてんだ」

「寒いだろうと思いまして」

鈍る体に鞭打って川原の緩やかな崖を登る。寝床で使っていた毛皮を何重にも巻きつけられた所為で腕の可動域が狭い。ひどくかったるいが毛皮のお陰でいくらか寒さは防げている。馬の手綱を手繰り寄せたアリアドネは、お先にどうぞと一言添えて馬に跨るよう促した。

「は?お前が手綱をとるのかよ」

「当たり前です。本調子じゃないのに任せられませんよ。今のトルフィンの体力じゃ座ってるだけでいっぱいいっぱいです。はい乗って」

ぐうの音も出ない正論に歯噛みしつつ騎乗する。ここにある馬は一騎のみ。相乗りする他ない上に俺は手綱を握らないため、必然的にアリアドネが背後に周る。

「これでトルフィンがわたしの背より高かったら二人羽織みたいになるところでした。よかったです、背丈が大して変わらなくて」

「てめぇ…喧嘩売ってるだろ」

「まさか」

馬の背から見る景色は高く、遠くまで見通せる。風の音と鳥のさえずりくらいした聞こえるものがない静かな道中、異変を感じ取ったのは俺だけではなかった。

「!」

「…尾けられてますね、四騎」

「どこのやつらだ。アシェラッドたちが襲った農村の村人か?」

「いえ、村人は残らず殺しましたよ。どこかの兵団か軍の斥候か、村人がヴァイキングの真似事をしているのか…」

「だとしたらチンケな奴らだ」

「しかし厄介です」

斥候であれ真似事であれ捕まれば無事では済むまい。多勢に無勢、となれば博打はしないのが利口だ。

「撒きましょう。飛ばすので掴まってください」

「言われるまでもねえ」

いななきと同時に馬が駆け出す。やや遅れて後方から複数の馬蹄の音。その音を耳が捉えると同時に耳元を矢が掠めた。

「撃ってきやがった!」

本命は馬だ。馬に当たればガキ二人を捕らえられると考えているらしい。俺らを狙う矢は少ない。捕まえて拷問やリンチにでもするつもりか、タチが悪い。

「馬がやられたら足がなくなる!」

また矢が馬の体近くを掠める。寸毫すんごうの差で馬の方が疾い。だが長時間走れば、小柄とはいえ二人乗りのこちらの分が悪くなるのは目に見えている。手綱を俺の手に握らせながらアリアドネは身を屈めた。息継ぐ間もなく矢が降ってくる。

「先に行って!西南の方角へ!」

「はあ!?」

意味を問い質す暇はなかった。背中に感じていた体温が消え、視界の隅で馬から飛び降りたアリアドネが地面を転がる様子が見えた。何考えてやがるあのアマ!一人で迎え撃つつもりなのか!四対一じゃ敵うはずがねぇ!手綱を引き、全速力で引き返す。

前方から向かってくるのは、立派な黒馬に跨る男だった。俺に気がつくと威嚇に近い野太い声を発しながら速度を上げて駆けてくる。手には斧を持ち、それを振りかぶっている。大振りなんだよ、そんなの誰だって避けられる。幾重に巻かれた毛皮を脱ぎ捨て、斧が振り下ろされた後に馬から飛び膝蹴りをかまし、地面に無様に転がる斥候の首筋に短剣を突き立てた。

顔面に走る痛みにしどろもどろになる男は首から血を吹き出しながら倒れ込んだ。病み上がりで制御が利かない体は男一人を屠っただけで疲労感に見舞われる。手に馴染んでいたはずのナイフがまるで別物のように居心地が悪い。

「アリアドネ、アイツは」

はたと思い出し顔を上げ、男を見向きもせず走り出した。ヒョコヒョコとみっともなく力のない足取りだ。兎の方がまだ速さがある。

「くそ、痛え」

地面を転がったがあいつのことだから受け身を取っている。問題はその後だ。残り三人、一人でも取り零して手に負えなかったら確実に殺される。考えなしに突飛な行動をしやがって、腹立たしさを覚えながら茂みを曲がった。

「!」

アリアドネは膝をついて俯いていた。そのすぐ近くに死体が3つ。額に矢が一本、腹部と喉にそれぞれ一本ずつ刺さったもの、それから顔面から頭部にかけて何度も潰された形跡のあるものが転がっていた。最も手のかかったらしい死体のそばには血がこびりついている人の頭と同じくらいの大きさの石が転がっている。三人とも殺したのか、大した奴だ。

「上手くいったからいいものの、馬鹿な真似をすんな」

死体の服でナイフにべっとりとこびり付いた血を拭いつつ文句を言うが反応がない。

「おい、立てるか」

アリアドネに声をかけ腕を掴むと、弾かれたように顔を上げ俺の胸倉を掴み、腰に提げていたナイフに手をかけた。

「しっかりしろ。俺だ」

鞘から刀身が抜かれる前に柄を押さえ込む。猛禽類の威嚇に似た目つきでこちらを睨んでいた。が、自分の腕を制しているのが誰かを認識すると、やや安堵したような表情を浮かべてアリアドネは肩を落とした。頬に殴打された痕があり、唇から血が溢れていた。裂けた服が大きくはだけて、小振りな胸が見えている。

「立てるか?」

「ええ、大丈夫」

大丈夫そうに見えなかったのは僅かな時間だった。ふた呼吸もすればいつものアリアドネだ。芯のある瞳の色を湛えて、静かに辺りを見回した。

「片付けますか」

「そうだな」

中身がこぼれ出すから顔が原型を留めていないやつを隠すのは手間がかかったが、どうにか4つの死体を草むらに運び込んだ。結局、斥候だったのか村人だったのか、こいつらが何者であるかは分からず仕舞いになった。川で顔の血を洗い流しているアリアドネの後ろ姿はやや疲れている。

「殺したのが初めて、ってわけじゃねえよな」

服を繕いでいる横顔に問うと、至極当然の態度であっけらかんと答えた。

「そりゃもう」

両手でも数えきれないでしょうね、と。そうだろう。そもそも律儀に数えてるやつがいるわけもなく。食った肉の数、クソした回数もそれと同じ。殺すか殺されるかの毎日。弱ければ死ぬだけだ。

「脱いだら見逃してやる、と言われました」

自分に向かい矢を番えるこいつにそう言い放てるのだから、頭を潰された輩は相当胆力のあった奴と窺える。体つきも大きかった。外套で体を覆い、破れた上着を繕う手を止めることなくアリアドネは淡々と続ける。

「女を見れば犯すことしか考えつかない。この手合いの輩には慣れました」

自身で服を裂き挑発に乗ったと見せかけて、相手が馬乗りになってきたところを岩で殴打したという。自分を下に見る奴らは驕っている。その驕りを逆手に取って利用してやる。

女が屈強な男たちの中で生き延びるには全てを巧く使い、立ち回るほかに手がなかった。性別なんていい武器になる。アリアドネは尋ねてもいないのにひとりごちた。

「時間がかかりすみません。行きましょう」

アリアドネが乗ってきた馬は何処ぞへ逃げて行き帰ってこなかったが、運良くその場に留まった馬が一騎あった。こいつに再び相乗りをして西南を目指した。



西南へ70キロも進んだところにあった農村をまたひとつ飲み込んだ。人数の割には越冬のための蓄えも馬もある農村だった。肉、酒を浴びるように平らげて夜な夜な大騒ぎをしている。今も大きくおこした火の周りで呑み食いしながら、突発的に始まる決闘を囃し立てたりして大盛り上がりだ。

「なかなかいい村だよな」

「そうだな。たらふく食って寝て、またひと稼ぎといきたいところだぜ」

グビリと酒を飲みながら眺めている人だかりから、ギャーっと悲鳴が上がると同時に歓声もこだまする。いいぞやっちまえ。大金掛けたんだ勝ってくれ。盛り上がる殺し合いは、肉と酒で腹の膨れた輩には持って来いの座興だ。

「ここ数日、行軍の速度が控えめなのは俺の勘違いか?」

「ビョルン、何が言いてえ」

「いや、別に」

トルフィンを探しにアリアドネが村を出て今日で五日経った。一日半待って欲しい、という申し出を受け入れみたものの予想に違わず、いや外れたのか、二人の姿を見ることは出来なかった。約束の刻限を過ぎた時、アシェラッドはアリアドネが駆けていった方向を一瞥することもなく行軍開始の指示を出した。

本当は待っていたかったんだよな、なんて言おうものなら俺と言えども容赦も温情もなく切り捨てられそうだ。肉を咀嚼する。酒を呑む。踏み込めはしない話題をぶら下げたまま、アシェラッドと俺は決闘の行方をぼんやりと眺めている。盾で剣を防いで斧で斬りかかる。斧を避け振りかぶった剣で兜を弾く。太刀筋の良い、なかなかの斬り合いを見守る連中の横を耳が慌しげに走ってきた。

「忙しねえな、耳。肉はもうねえぞ」

「馬鹿野郎、肉が目当てじゃねよ。アシェラッド、帰ってきたぞ」

誰が、と言いかけたアシェラッドは目を見開いた。落としかけた杯から酒が溢れる。向こうを見遣ると、馬の手綱を引くアリアドネに馬上からアシェラッドを見据えているトルフィンの姿があった。にわかには信じられねえ。決闘を囃し立てていた連中も思いもしなかった帰還者に瞠目して一気に静かになる。

「アシェラッド、ただいま戻りました」

連れて帰って来ました、と口にはしないもののどこか誇らしげな表情をしている。

「ビョルン、食糧と武器は大変助かりました。ありがとうございます」

「お、おう。無事で何より」

かなりの荒業でここまでたどり着いたらしく、埃や泥に塗れ汚れている上に少しばかりやつれてはいるが二人とも健在である。トルフィンにアリアドネ。この小さいガキ二人がよくもまあ死なずに。

「へぇ、本当に連れて帰ってきやがった」

「女に二言はありません。やると言ったらやり遂げますとも」

「見る限りじゃだいぶズタボロだが、手負いだからって休みはしねぇ。行軍はいつも通りだ」

容赦ねぇなぁ、アシェラッドの奴。でも行軍がのんびりしてたのは間違いない。こいつらが追いつける範囲内の速度で移動をしていたわけだ。ここから先はいつも通りだ。大した遅れはないが、取り戻した方がいい。冬が近くまで来ている。

「承知の上です。ただ、トルフィンの傷が深かったので念のため養生を」

「要らねえよ」

「一人では馬もろくに乗れないんだから休ん…」

「!」

トルフィンの無下な返答をもろともせず切り返すその言葉尻が萎むのと同時に、アリアドネの体が大きく傾いでそのまま地面に倒れ込んだ。頭から派手に地面に沈んだ様子に、一同唖然として状況の把握に時間を要した。

「あ、おい…?!」

トルフィンがいの一番に動きアリアドネを抱き起こした。見てる連中も考えただろう、ぐったりと脱力する様子から怪我をしたのか、病気なのかと、はたまた斬られたのかと。

しかしよくよく見れば、為すべきことを達成し気が抜けたのかアリアドネはトルフィンの腕の中で寝息を立てていた。流行病か、敵襲か、と大袈裟な仮定を一瞬でもしたのが阿呆らしくなるほどの爆睡ぶりだった。アシェラッドはクククと笑いを噛み殺す。

「まともに寝てなかったんだろうよ。休ませてやれ」

自分を差し置いて人の心配かよ。くそがつくほど真面目な女だよ全く。アシェラッドは呆れたような、参ったような、裏切られたような、面白そうな、なんとでも取れる感情の入り混じった声で言った。視線で促されるまま、俺は眠るアリアドネを肩に担いだ。

「さぁ野郎ども、もっと盛大に食って呑め」

また長いこと歩くから精をつけろと焚き付けられるまま、帰還者の周りに集まっていた連中は肉と酒を求めて散っていった。養生をしないと支障がありそうなもう一人のガキをヒョイと拾う。

「ふざけんな、放せ!」

「はいはい、粋がるのは完治してからにしろ」

足腰もろくに立たないで女に世話になってた奴が喚くな。村に戻ってきた時も馬に乗っていたんだ、まだ辛いだろうに。図星だったのかそのまま大人しくなったトルフィンを小脇に抱えたまま、納屋へ足を向けた。



拍車をかけて盛り上がる様子は納屋の中からでもわかった。厚く積み上げられた藁にアリアドネを下ろしたビョルンは、お子ちゃまはさっさと寝ろと言い残して出て行った。

「っ、痛…」

灯りもない暗さに目が慣れた頃、寒さから傷が疼くことに気がついた。毛皮が欲しい、と思ったが馬に括り付けたままで取りに行くことは叶わない。藁に埋れればいくらかは凌げるかもしれないが、負傷した体にはまだまだ堪える。

「……アリアドネ」

呼んでも返事はない。音を立てぬように立ち上がり深い寝息を立てるアリアドネの傍に寝転がり目蓋を閉じた。幾らか温かく、痛みも和らぐ気がした。手当てをされ回復するまで看病され身の回りの世話をしてもらったとはいえ、絆されたわけじゃない。

しかし、ただ傍にいられても目障りではなくなった。体の痛みを理由に少しばかり寄り添う選択をするほどには、鬱陶しくない。釈然としない。邪険にするどころか気を許してしまいそうになる。父上の仇を必ず取ると心に誓った頑ななものに、するりと入り込んでくる得体の知れない何か。よくわからないものなのに、どうしてこうも拒絶するにできないのか。

「ちっ、気に食わねえ」

受け入れていることも跳ね除けられないことも、どこか懐いてしまっていることも。藁に潜りフードを被り、目を一層きつく閉じた。


生きているか判らない仲間を探しに行く、猶予を設けてやる、物資を分ける、それぞれの情。


20200113
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