落ちた禽
行軍の最中にばったり出くわした小さな軍団から食糧を奪う。抵抗力・団結力の乏しい団員どもの頭をかち割るにもそう時間はかからなかった。塩漬けされた肉に少量ながらの酒。殺した団員たちの懐よりくすねた武器や金品。一級品とはいかずともそこそこの値が見込めるものが多そうだ。なんとも運のいい。臨時収入を得たと思っていた。
「俺の耳が捉えた。間違いねえ」
数刻後、アシェラッドの元にそう申告してきたのは兵団でも随一耳がいい小柄な男だった。仕事の信頼に揺るぎはなく、聞いた話だと雪の中でなければ4マイルほど先の音でさえ聞こえるらしい。
「トルフィンとアリアドネ、仕事だ!」
数は三名ほどだという。一定の距離を保ったまましっかりと軍の後ろを尾けてくるのだそうだ。
「きっかり殺しゃいい。テメエの出番はねえかもしれんが行ってこい」
待ち伏せして木の上から射れ、というのが命令だったが万が一を考えて二人で行けという。わざわざ射る必要があるか俺一人で十分だろ、という口応えにアシェラッドはにべもなく「十分じゃねえから二人だクソガキ」と言い放った。
*
行軍した道を逆走し、その道中で手頃な木を見つけた。幹も枝も太くそして葉が覆い茂るように生え身を隠すのにちょうどいい。振り返ると、アリアドネは木に手をついて膝に手を置き、ひどく疲れているような仕草でどうにか立っている。青白い顔をしていた。
「顔色が悪いな」
「わかりますか」
「わかりますか、じゃねえよ。帰るか?」
仕事ほっぽり出してすごすご帰るか?という侮辱に近いそれに頑とした態度でアリアドネは突っぱねる。
「大丈夫です」
「そんな状態で射てるのかよ」
「無論です」
体を起こしてこちらを見据える目に色濃い疲労の色が見えた。不安はあったもののここで引き返すことも出来ない、というのが本人の心情だ。追手を殺せばいいのだ。仕方なく二手に分かれて木に登った。
「トルフィン、あれ」
アリアドネに声をかけらえるより一瞬早く気配には気がついていた。半刻と待たずに目当ては現れた。“耳”の進言通り敵は三人。兜を被った男、斧を背負った大柄な男、熊の外套を被った耳の欠けた短髪の男。待ち伏せがいるなどとこれっぽっちも考えていないし予想だにしないだろう。アリアドネの射程圏内に入ってしまえば仕事は終わりだ。戦いの最中では丘一つ越えた向こうにいる相手を穿つほどの腕を持つコイツだ。この距離、それこそ目と鼻の先にいる相手など一網打尽だ。
―オイ、何をしている。
異変に気が付いたのは標的が近づきすぎた、と感じたせいだ。的確に射殺せる距離を大きく超え懐にまで招き入れている。これでは相手にも気が付かれる上に、反撃も受けやすい。いよいよ、身を隠している枝の下を三人が通り過ぎようとしている。
―寝ているのか、アリアドネ。
当の本人は、番えていた矢を収め、弓を胸元に抱き寄せていた。先ほどよりも顔が青白い。肩で息をして座っているのもやっと、という体たらくだ。一瞬視線が絡んだが、首を横に振って“出来ない”と言ってきた。寝惚けるのも大概にしろ、と唸りそうになったときアリアドネは、雪で足を滑らせてあろうことか敵―熊の外套の男―の頭上に落下した。
「−!」
「なんだテメエ……ッう」
寸で身を躱しながら相手の喉笛に矢を突き立て一人を屠った。それまでは良かったが、もう一人の首を狙うには時間と角度が悪かった。死角から兜の男に体当たりされ木の幹に額をしこたま打ち付けたアリアドネはしばし昏倒する。
「このアマ、どっから出て来た!」
兜の男は意識を失っているアリアドネの腹部に覆いかぶさり、胸倉を掴んでその横っ面を力の限り殴った。
―あんの野郎!
啖呵を切ったのはアリアドネに対してなのか、兜の男に対してなのか判別はつかなかったしどうでもよかった。一目散に枝から飛び降り、斧を持つ男の前に立って自分の何倍もの体躯を見上げた。恰幅のありすぎる男だ。俺に気が付くと女とグルか!と吐き捨てた。
「このガキ!」
でかい図体で斧を振りかぶる。楔帷子に斧。ただでさえ重い体に重装備。愚鈍なまでの遅さに止まって見えた。振り下ろされる斧の隙間を縫い懐に入り込みながら指を断ち切り、弾力のある顎の肉をナイフで突き上げると男は自分の喉が掻き切られることの驚きながら目を反転させた。
―あと一人。
アリアドネに覆いかぶさる兜の男はこちらに背を向けている。首筋にナイフを容赦なく突き立てる。血管の収縮に合わせて、皮膚から血が吹き上がるのが兜の隙間から見えた。どう、と雪の上に倒れ込む巨体の男の首筋からナイフを抜き去って、組み敷かれていたアリアドネを男の足の間から引きずり出した。
「おい、おい。起きろ」
切り裂かれた胸元の服の間から柔らかい皮膚が垣間見える。一本赤い線が走るのは、ナイフがその柔らかいものを裂いたものによるが、出血は少なく傷は浅いと判る。
「手間かけさせがって」
畜生、と悪態をつくが戦力になるやつだ。置いていくわけにはいかない。雪の上に身を投げ出しているアリアドネの傍に膝をつくと、胸が目につく。こいつは女なのだと、改めて理解した。
「、る…」
「喋るな、周りは全員片付けてある」
焦点が合わない瞳でこちらを見上げてくる様はなんとも言い難く、凛々しくいつもの猛禽類の鋭さが感じられない。敵は死んだ、と告げるとグラつく脳みその中で情報が処理されて、ようやく安堵したように肩の力を抜いた。強打し擦り傷の出来た額、殴られ赤黒く腫れた頬に血が伝う唇。肌蹴た胸元を隠すように強引に毛皮を手繰り寄せ、細い腕を梃のように使いアリアドネを背負う。女の体は驚くほどに軽く、戦うには細すぎた。
「………」
去り際、兜の男の死体が目に留まった。アリアドネに馬乗りになり昏倒しているところを殴り嬲ろうとした光景が浮かび、普通なら向かない方向に曲がっているその頭を徐に蹴り飛ばした。嫌な音がした。背負い歩きしばらく経った頃、項垂れていただけのアリアドネがもぞりと身じろいだ。
「トルフィン、歩きます」
だから下ろして。アリアドネの戯言に何を寝惚けてやがると俺は舌打ちをした。
「馬鹿野郎。寝言は寝て言え」
「歩きます」
「黙ってろ」
「歩きますってば」
「うるせえっての」
「う、ひゃ!」
背中できゃんきゃん小言を言うアリアドネを雪の上に放り投げた。ぼすんと雪に埋まって身動きが取れなくなり赤子の如く手足を、鈍く曇る空に向かって動かしているだけだ。歩くどころか立ち上がることすらままならない。
「おら、立てよ」
「………」
「さっさと歩け。置いていくぞ」
「…っつう…」
上半身を起こす前に力尽き雪に沈んだ。結局、俺はアリアドネを再び背負って歩き出した。髪や服に付着した雪が歩く度に落ちる。深い雪を踏みしめながら歩くが、苦ではない。背中のアリアドネが軽い。負担とは全く感じなかった。羽でも生えているんだろうか。鳥のようだ。そして温かい。
「置いていかないんですね」
「あ?」
「重たいのにわざわざこうして」
「それ以上喋るなら本当に置いていく」
「すみません」
重たくねえ、とは口にはしない。体温は心地よいが声が障るだけだった。陽が傾き始める。ただでさえ薄暗い森が暗闇に飲まれようとしている。凍えるように寒いはずが、不思議と寒さは感じない。
「トルフィン」
まだ無駄口を叩くか。黙ってることもできねえのかテメエは。口を突いて出そうになるが、喉元まで出かかった言葉はアリアドネの言葉で飲み込む以外になくなってしまった。
「ヘマをしました。すみません」
アリアドネは俺の外套を握り締めてそれきり黙り込んだ。闇に飲まれた森の中、遠方に松明に灯した火がぽつぽつと見えた。
20170326