探り合い
※コミックス13巻あたり
灰色の空、濃紺の波を割いて進む船の行き先はケティル農場である。まもなく農場に着こうとする頃合い、海岸線に十数名の人がいるのをアリアドネが視認した。王の軍を迎え撃つつもりでいたのか海岸に集まっている農場の人間たちは矢を番えていた。放たれた矢は届く気配もなく落下し波に飲まれて消えていく。
「撃ってきましたね」
農場側に王の軍に対抗し得るだけの戦力がいるのだろうかとアリアドネは数瞬だけ考えたが、戦力があるわけがない。相手の主戦力は農夫たちだ。兵と呼べる代物ではない。
ヨーム戦士団の弓兵たちがフローキの命令に従い矢を放つのを横目にアリアドネは呆れながら呟く。
「まさか彼らは戦うつもりでいるんでしょうか」
「こっちの戦力を低く見積もってんだろうよ」
隣にいた従士の一人がアリアドネの疑問に答え、海岸線の方に視線を遣った。同じくどこか呆れた気配を見せている。
「不思議なものです」
こちらは選りすぐりの王の軍だというのに。練度が違うことなど想像に易いと思うのは、アリアドネが日頃から戦いの場に身を置いて様々な軍同士の戦争を見てきたからだ。
だが農場側の人間たちにはその知見がない。
農夫たちはこちらの兵の数しか見ないだろう。農場の主であり、指揮を取るケティルに――鉄拳と呼ばれていたケティルに戦場で軍を率いた経験がなければ――戦いは一方的なものになる。とはいえ、仮に農場に千の兵がいても戦力差は覆らないのだが。
「全く無謀なことを……」
船が着岸する。海岸には従士団とヨーム戦士団の船を迎え撃とうと矢を番えていた者の死体がいくつも転がっていた。
「そこの二人、死体を脇に寄せるのを手伝ってください」
「面倒だな。結構数があるぞ」
「蹴って転がしていいか」
「駄目です。丁重に扱うようにと指示が」
「迎撃なんかしなけりゃいいんだ。無駄なことしやがって」
「相手は農夫ですよ。敵が見えたら攻撃すればいいと思ってる彼らが戦いの常套手段を知るはずがないんです」
従士団の仲間と会話をしながら片付けを進める。海岸の砂にできた死体を引きずった跡は、直に他の者たちの足跡で見えなくなった。
上陸してしばらくした頃、アリアドネはふと、丘の向こうを見遣った。薄曇りの空に広がるのは豊かで生命力に溢れる肥沃な土地だ。これから血の海に染まる可能性があるとは思えない穏やかな景色の端から端までを注視して唸る。
「1、いや2かな……」
「何を見ている」
隣にウルフが立っている。
部下たちへの指示やフローキへの伝達などやることは一区切りついたようだ。もちろんまだすべきことは山のようにある。
「この丘の先にうさぎが2羽います」
うさぎが何を指すのかはウルフには伝わったらしい。細い目を少しばかり開けてアリアドネとなだらかな丘を交互に眺めた。
「農場の者だな」
「ええ。先ほどの牽制で逃げた者たちとは違うようです。戦に慣れた者が何名かいるんでしょうか」
「あり得るな」
うさぎはじっとこちらの様子を窺ったまま動かない。敵側の人間が側にいるのであれば捨て置くことはできない。アリアドネは丘の方から目を離さず呟いた。
「しばらく私が見張りましょう。うさぎは勘がいいですから狩人に気がつけばすぐに巣に帰るはずです」
従士団とヨーム戦士団を前にして突っ込んでくるとは到底思えない。しかし万が一にも、ということも考えられる。ひとまず様子を見る必要がある。
アリアドネはその場に留まった。
*
聞きしに勝るヨーム戦士団が目の前にいる、と聞いたキツネの目が大きく見開かれた。
「あ、あれがヨーム戦士団……っ」
白いマントを羽織った男たちを見て驚きと慄きで震えそうになっているキツネの独り言を聞きながらも、蛇の視線は妙な人物に釘付けになっていた。
宿営テント付近にいる少し小柄な従士。周りと比べると体格なら一回り以上、身長なら頭ひとつ分ほどは違う。
周りにいる者たちは忙しなく動き回ったり、或いは仲間と会話をし情報交換をしつつ周囲を警戒している。にも関わらず蛇の視線の先にいる従士は立ったまま動く様子はない。遠くの空を眺めて雲行きでも見ているかのような雰囲気だ。
「なんだ……?」
蛇は抜きん出て視力がいいというわけではないが、遠くにいる人物がどんな雰囲気かくらいは十分に識別できる。目を凝らすとその従士がどうやら女であることがわかった。
近衛兵。トールギルの元同僚。つまりあの女はよほどの手練れである。その女は相変わらず呑気に空を眺めているらしく、ぼんやりとしたまま動かない。何をしているのかと思案していた蛇は、従士がある一点を注意深そうに眺めているのだと気がついた。
「どういうことだ」
女は遠くを眺めているのではなく、地面に伏して王が引き連れてきた従士団やヨーム戦士団の様子を
具に見ている者を監視しているのだと理解した。
「まさか、俺たちに気がついてるのか? この距離で?」
蛇の疑念の声はキツネの耳には届かない。
見間違えかもしれない。思い過ごしかもしれない。しかし従士の一人が堂々と、これから戦闘が始まりかねない状況下でのんべんだらりと風景を眺めていられるはずがないのだ。
「キツネ、戻るぞ」
「あ、ああ。ちくしょう、なんてこった」
ヨーム戦士団の迫力に圧倒されたままのキツネとともに、蛇は得体の知れない女従士の振る舞いを気にしながらその場を後にした。
農場では、先んじでトールギルからもたらされた情報を聞き王の軍がどうした、と沸き立っていた。
兵の数では圧倒的に農場側が勝る。戦争は数だけで決まるとでも思っているのか与えられる情報を聞いては楽観的に捉えるばかりで、これから起こり得る一方的な殺戮を予想できてきる者はほぼいない。勝てるぞ、と笑い飛ばしているケティルや農場の男たちの横で角杯を傾け水を飲むトールギルに蛇が歩み寄った。
「よう蛇。見ろよ。100人相手ならいけると思ってやがるぜ。愉快だな」
「愉快なわけがあるか」
「この戦闘狂め」と唸り水を一口飲んだ後、蛇は尋ねる。
「トールギル。従士団や近衛兵の中に女はいたか」
「あ? ……ああ。一人いた」
トールギルが一瞬だけ嫌悪感を滲ませたのを蛇は見逃さない。
「どんな奴だ」
「ふん。何を考えてるのかわからねえ、腹の内が読めない奴だった」
「そうか」
「あいつ、来てやがるのか」と忌々しげに吐き捨てるトールギルの様子から、自分の覚えた違和感に間違いはなかったのかと蛇は納得した。
だが女従士の存在など瑣末なことだ。まもなく戦が始まる。
戦支度を整えるために蛇はキツネと共に砦へ向かった。
お互いにお互いを視認?しただけの話です。こういう感じで知り合わなければ普通に友達くらいにはなれたかもね。(ホンマか?)
この下にあるのは本編に入れるつもりだったんだけど「視点転換が多すぎない?」と思ってボツにしたやつ。おまけとして載せます。
丘の向こうに身を潜めていた者の姿が見えなくなったのを確認したあと、アリアドネは踵を返した。
うさぎたちはこの後どう動くだろう。ケティルに報告をする、とまで考えたが果たしてそれがどれだけ戦術に影響を及ぼすだろうか。飽くまで二人は斥候のようなもので他にもう何人か戦いに精通してる者がいても不思議はない。
そんなことを考えながら歩いていると、宿営のために張ったテントの横でウルフに出会した。
「うさぎは帰ったか」
「はい。ヨーム戦士団を見て降伏して欲しいところですね」
「そうはいかんだろうな。先ほど軍師が帰って来た」
「芳しい返答は得られそうにないんですね」
クヌートの提案――平和喪失処分――は到底受け入れられないものだったのだろう。想像に容易い。だから無謀にもケティルたちは勧告を無視して戦うことを選択した。
「酷いことにならないといいんですが」
戦争をして“酷いこと”にならないはずがない。馬鹿馬鹿しさを自覚しつつもアリアドネは呟いた。
20231226