鳥のような人
船が来た、と港の方から男たちの声がした。
アリアドネは隣にいた女奴隷と一緒にゴルムの家の勝手口から海に浮かぶ二隻の船を眺めている。
「客人でしょうか」
「毎年船乗りの男たちが冬になるとこの村に逗留するそうです」
「よく知ってますね、ホルザランド」
「いいえ。ゴルム様が言っていただけで」
まだ会ったこともありません、とこの村に来て一年も経っていない女奴隷は気品のあるその顔に影を落とした。表情が暗い。客人を迎える仕事をせねばならないのを思って気が重くなっているらしい。
その顔を見て「気位が高く仕事を覚えず役に立たない女である」とゴルムがこぼしていたのをアリアドネは思い出した。仕事が満足にできないのだと不満を露わにしている顔も一緒に脳裏に浮かんだ。
地方領主の娘として気高く育った女が奴隷に身を落としてすぐに仕事が満足にできるはずがないだろうに。人として尊重し接していくのがまず第一歩なのではないか。
密かにそう考えていたアリアドネは自身の仕事の合間合間にホルザランドに話かけるようにした。奴隷を奴隷として扱わない物腰に、ホルザランドは次第に反応を示すようになった。顔を合わせれば自然と対等な立場の人間として言葉を交わして一緒に仕事をこなすようになっていく。家族と別れ、生まれた土地から離れたこの村で奴隷として働かざるを得ない女にとってアリアドネは頼もしくも奇妙な存在だった。
とある嵐の翌日の朝、難破した船の残骸と一緒に浜に打ち上げられそのままこの村に居候するようになったのがこの女、アリアドネだった。
村人ともあっと言う間に打ち解けてしまい、更に奴隷であるホルザランドよりもよく働いた。もしかしたら村の男たち以上に仕事に精を出していたかもしれない。結果として村にいくつようになってからひと月もしないで村の中の仕事の内容をほとんど把握してしまっていた。
「高い金を出して買った奴隷はろくに働かず、たまたま村にいつくようになった女の方がよく働くのう」
ゴルムの歯に衣着せぬ物言いでますますホルザランドは無気力になっていた。もとより反抗心などあってないようなものでその胸にあるのは望郷だけだったが、昔日にばかり思いを馳せ現状から逃避するような考えを振り払いつつあるのはアリアドネだ。
「食事の準備や給仕くらいいくらでも手伝いますから。次の仕事が済んだら一緒にやりましょう」
そう言ってアリアドネは緩やかな丘の上で羊の世話をしている男衆の手伝いに向かった。この村でホルザランドを人として見てくれる唯一の人物である。
そのアリアドネが十数年ぶりにアシェラッドと再会するのはこの日の夜である。
酒宴で首領の男とアリアドネが話しているのを見かけたホルザランドは「あれ?」と違和感を覚えた。アリアドネは男を前に心底嬉しそうに表情を綻ばせたのである。珍しいな、と思った。どうやら旧知の仲であるらしいことはわかった。だがそれ以上に、あの男に寄せる気持ちは何か特別なものであると察しがついた。
*
「ホルザランド、ごめんなさい。私はここを出て行きます」
春になると、アリアドネは男たちと共に船に乗って村を出ていってしまった。
「貴方には翼があったのね、アリアドネ」
沖に出た船はもう豆粒くらいの大きさになっていてホルザランドの目ではアリアドネの姿を確認できなくなった。
「多くは語らなかったけど、貴方は自分の力だけでここまで辿り着いたのね。そして新たに仲間を見つけて飛び立っていったのね」
曲がりなりにも女である。アリアドネがあの兵団の首領に心を寄せていることはすぐにわかった。あの男に会うために遥か遠くの地からユトランドまで渡り歩いてきた。その常軌を逸するほどの行動力と折れない心持ちにホルザランドは胸の前で手を組んだ。
「強い人ね」
また会えるかしら。
ホルザランドの祈りに近い呟きは春の風に掻き消された。
20230324