夜闇
※びんさが夢本「残照」に収録したアリアドネが兵団に加わって初めて参加した戦闘の話がちょっと出てくる。
数百メートル前方、仲間たちが敵に向かって突撃していって土煙が立ち上がっている。その様子をアリアドネは丘の上から見下ろしていた。その背後には首領のアシェラッドが立っていてアリアドネに指示を出そうとしている。
「大将首はアレだ。見えるか」
「はい」
人数も兵力もこちらに利があるからと部下に指示を任せていて、首領のそばには副官と数名の弓兵がいるのみになっている。
アシェラッドの指差す先を注視すれば一人の男がいた。群衆の中、砦の上で部下たちに指示を出しているのがよく見える。
「こんな遠くから狙えるのかね、アイツ」
仮に法螺だったにしてもあの自信のありようはなんだ、と数名の弓兵が訝しげに視線を寄越しているのを感じつつもアリアドネは淀みない動作で弓矢を番えた。剣を振り上げて周囲の仲間たちを鼓舞しながら指示を出している男を確と見て矢を放つ。真っ直ぐに飛んでいった矢は吸い寄せられるように男の首にストン、と刺さった。
「お、殺った」
周囲にいた仲間たちは驚きの声を漏らす。男はそのままの体勢から力が抜けて塀に寄りかかったかと思うと、自重に耐え切れずその塀を乗り越えてそのまま落ちていった。指揮官を失った隊は直に瓦解して戦闘は止むだろうが、未だに殺し合いが繰り広げられている。
「少し援護に行ってきます」
言うが早いか丘を降りながら矢を番え、戦闘に身を投じている仲間に斬りかからんとする敵を目のつく限り片っ端から射っていく。地面に尻餅をついている仲間の腕をとり引き起こしたかと思えば転がっていた矢を手に取って数メートル先の敵の顔面を射抜いて戦場を走り抜ける。それを見て首領は顎髭を撫で、副官は口笛を吹いた。
敗走しつつある敵を追撃する仲間たちを見遣りながら歩いていると前方から鬼の形相でトルフィンが詰め寄ってきた。と同時にしてきた激しい怒鳴り声は自身に向けられたものだと気がついた。
「おいテメエ!!」
「え、私?」
大将首を目の前で獲られたトルフィンはアリアドネに唾を飛ばさん勢いで怒鳴りつけている。ナイフを握りしめて返答次第では刺し殺しかねない。
「手柄を横取りしやがったな!!」
近くはない距離から矢を放ったのによく判別がついたものだと思うと同時に、大将のそばにトルフィンの姿があったような気がするとアリアドネは思い返した。
「ああ、よく私だと分かりましたね。敵を殺しただけですよ」
アシェラッドの指示通りに、と付け加えればトルフィンの怒りの矛先は途端にアシェラッドに変わり怒鳴りながら首領のいる方へ踵を返していた。あまりの激昂具合に目を点にして驚いているところに副官のビョルンがフォローに入る。
「あいつ、アシェラッドの命令で敵陣に突っ込んで行ってたからな」
「そうだったんですか。姿が見えなかったのは先陣切ってたからなんですね」
「しかしあいつも意地が悪いぜ」
「……? 意地が悪いとは?」
「トルフィンとお前を競わせてたんだよ」
「アシェラッドが、トルフィンと私を? 何故。どうしてそんなことを」
程なくして戦場を後にする際にアシェラッドから声をかけられアリアドネの疑問に対する答えはすぐ出た。
「ようお疲れさん。トルフィンに絡まれちまって面倒だったな」
「いえ、気にしません」
手下は多くて困ることはない、というのがアシェラッドのアリアドネに対する人物評だった。仲間内でも卑怯で目障りこの上ない男を手にかけた時には弓矢の腕を披露することがなかったため、本来の腕前を知る機会がなかった。首領は手下の技量を把握して使い所を見誤ってはならない。今回アシェラッドが指示を出したのはアリアドネの力量を測るためでもあった。
「しかし、やるじゃねえかアリアドネ」
「え」
「思った以上の腕だ。目一杯働けよ」
評価されたと気がつくまでに時間を要した。自分の存在が、弓矢の腕前が価値のあるものとアシェラッドに判断された。その事実に気がついたアリアドネはようやく返事をする。
勿論です。この腕は貴方のためにあるのですから、と。
アシェラッドに褒められて胸の奥が締め付けられるような感覚とともに嬉しい気持ちが溢れ出す。
どこか陰のある雰囲気。その根源を知る今ならもっと貴方の力になれるはずだ。
貴方に触れたい。
宙に伸ばしたアリアドネの手は空を切り風景も思い人も消え去り、目の前にはただただ暗闇があった。
「……夢……」
起き上がり薄暗い虚空を見つめたままつい先ほど見た夢を反芻し始めた。
懐かしい光景だった。兵団の仲間として初めて参加した戦いでは大将首を獲り、兵団の誰もがアリアドネの弓矢の腕前に舌を巻き、直に頼られるようにもなった。
「あの時はトルフィンには悪いことをしたな」
短刀二本で敵陣に突っ込んで行き孤軍奮闘、敵兵を殺しあと僅かなところでアリアドネが手柄を横取りした。アシェラッドの指示だったとはいえ少しばかりの申し訳なさを胸に抱いたものだった、と思い返す。
『やるじゃねえかアリアドネ』
脳裏にアシェラッドの顔が浮かび、かけられた言葉が頭の中を反響する。あの瞬間にアリアドネは自分の選んだ道は正しかったのだと心の底から自身の行為を肯定できた。弓矢の鍛錬を怠らなかったことも、ウェールズを飛び出して彼を探し各地を転々としたことも全てにおいて間違いはなかった。
だが追い求めたアシェラッドはもういない。
御前会議で乱心したフリをする彼に同調して衛兵たちを殺して回れば今頃楽になっていただろうか。
不意に過ぎる思考を振り払うように頭を横に振る。
「彼の成したことを利用するな」
自分に言い聞かせるように低く唸るような声で否定した。
故郷と新王の座を天秤にかけて彼が選んだ道だ。御前会議の後、新たにクヌートが王となった。アシェラッドの考えた筋書きの通りに事が運んだ。
あの時、ただの駒だったお前に何ができたというのだ。身の程を弁えているだろうアリアドネ。お前はただの女で、ただの弓兵で、ただあの兵団にいただけの存在だったのだ。アシェラッドと王との知略戦の中では駒の一つに過ぎなかった。だからあの瞬間あの場所でお前にできたことなど何もなかったのだ。
ひどく第三者的な視点のアリアドネの思考はそう結論つけている。
アシェラッドが仕えたように、アリアドネはクヌートに仕えることを選んだ。それを後悔したことはただの一瞬もない。だが。
「それでも、あなたがいない世界は真っ暗です」
膝を抱えたアリアドネは登りつつある朝陽を見ながら呟いた。
20221230