変転、行き着く先
※コミックス9巻までの描写あり。
子供は非力で無知で純粋ですぐに死ぬ。故に親は子供を守るし害を成すものを許さない。親の警戒心が強いのは、猪然り熊然り野生動物に限らず人間も例に漏れない。
ラグナルはクヌートの従者であり親ではない。だというのに振る舞いは我が子を愛する親そのもののようだ。度が行き過ぎた過保護ぶりが目に余る。誰も寄せ付けず常に傍に居りラグナルを通してしか王子にこちらの意思を伝えることはできない。
「やだやだ面倒くせえ。兄貴がいるだろ、アイツ。なんで第二王子につくんだよ」
「担ぎ上げるとか言ってたけどよ、アシェラッドもなんで勝ち目の薄い博打をするかね」
首領の指示のもとクヌートをトルケル軍より奪還した兵団員たちは件の王子を見て拍子抜けした。まるで姫君のようで精悍とは言い難い顔立ちの彼を見て驚嘆より脱力が大きかった。その王子に付き従うラグナルは周囲を睨み殺さん勢いで近寄る者を威嚇する。その様子はアリアドネのいる場所からもよく見えた。弓矢の手入れをしながら盗み見れば、甲斐甲斐しくクヌートに話しかけて諭したり勇気づけたりしている様子が窺える。
「めちゃくちゃ睨んで来るんだよ、従者のオッサン。飯を渡してやってるだけ有難く思って欲しいぜ」
ビョルンは皿を手に愚痴をこぼす。行軍の途中で火を起こして食事をこさえた。今晩も野営だ。毎度のことだがこちらとクヌートの間に割って入り必要以上に王子に近づけさせまいとしているらしい。親ならざる者も必死というわけだ。
「渡したものは食べ切っているんでしょう。ならしばらくそっとしておいた方がいいのでは」
「向こうから話かけられるのを待つってか?大体オッサンが文句言ってくるだけじゃねえか。悠長にしてられねえよ」
「事を急いで仲良くなれるわけでもないですよ」
「そんな必要ねえよ。戦いの最中で味方じゃねえ奴に捕まってあっちこっち連れ回されてんだぞアイツら。俺たちを受け入れると思うか」
「無理でしょうね…」
「話つーか、交渉ができればいいんだよ。こちとら切り札の王子をトルケルから獲ってんだぜ?アイツらいつ取り返しに来るかわかったもんじゃねえ」
王子とその従者、おまけに神父。この三つの異物が兵団内ある時点で監視やらで仲間の精神的負荷が多かれ少なかれかかる。全くの敵ではやりづらい。警戒心などあって構わないから少しばかりは軽口程度は叩き合えるくらいになればマシになる、ということだ。もちろん油断はしないが。
「なるほど一理あります。それで、どうしてそれをわたしに話すんです」
「アリアドネ、ここ最近ずっとアイツら見てただろ。観察してたんならいけんじゃねえかと思ってな」
「買い被りすぎですよ。…ですが食事は渡してきます。女ならそこまで邪険にされないかもしれません」
「だといいけどな」
「それにラグナル殿より小柄なわたしなら可能性はあります。多分。ダメ元ですが行ってきます」
「おー、頼むぜ」
男であれ女であれ味方でなければ警戒するのは当たり前、というのがビョルンとアリアドネの共通認識だ。しかし体格の小さい自分ならさほど警戒されず言葉を交わすくらいできるのではないか、と希望的観測も持った。同時にそれが針の穴を通すが如きこと、というもの共通の認識だった。全く期待していない声色でビョルンに送り出され、焼いた肉が盛られている皿を手に三人がいるテントへと足を運ぶ。
「クヌート殿下、ラグナル殿、それに神父様。食事をお持ちしました」
ラグナルはアリアドネを睨んでいる。聞いた通りで、全てを警戒して必要以上に近寄ろうとするなら即座に斬りかかられそうだ。三人分を一まとめにした皿をラグナルに渡すと、低い声でひとりごちた。
「…女が戦の真似事か」
「え?」
「デーン人には見えないな」
「ええ、わたしの故郷はウェールズです」
「貴様は何故この兵団にいる?」
「事情がありまして。長くなりますが話します?」
「結構だ」
冷たいわけではなく、馴れ合いや踏み込むことを避け何よりクヌートに賊を近寄らせんためにぞんざいな対応をしている、というのがラグナルの印象だった。
「食事が済んだら早めにお休みになるのをお勧めしますよ」
「何故だ」
「貴方方を奪い返さんとトルケルたちが追ってくる可能性があります。恐らく陽が昇るより前にアシェラッドがみんなを叩き起こして行軍を始めるはずです」
未だ警戒の色を見せるラグナル、目元が髪で隠れ量の多い髭に表情の変化が分からないヴィリバルド、そして紅いマントを羽織り兜を被り口元しか見えないクヌートをそれぞれ見遣ってアリアドネは続ける。
「荷台に乗っているとはいえ連日連夜の行軍は堪えますからね。体力は温存した方が賢明です」
逃げるには足を止めてられませんから、と大体の状況説明をするとテントの外に出る。この雰囲気では自分が気を遣って何を言っても変わらないことを肌で感じ取った。向こうは何が起きるか知らないからそんなにも警戒している。ならば教えてればいい。予め分かっていれば文句も反発も少ないだろうとアリアドネは判断した。
「お疲れでしょうがこれがわたしたちができる精一杯です。協力願いますよ。では」
これで兵団の中にいる女ぐらいの認知になれば、今後いくらかは話す取っ掛かりにはなり得る。初対面にしては悪くなかったと思っていると、テントからラグナルが顔を出した。
「待て。そなた、名はなんという」
「アリアドネです」
「次からそなたが持ってこい。他の者が来ると殿下が少しばかり怖がるのだ」
「……そうですか。わかりました」
お休みなさい。テントの中にいる二人には聞こえていないだろうがアリアドネは挨拶をしてそこを後にした。ことの成り行きを遠くから見ていたビョルンは腕を組んで台車に寄りかかっている。
「なんか色々話してたな?」
「ええ。名前を聞かれて、次からはわたしが食事持ってくるようにと言われました」
「…何だよオイ、めちゃくちゃ上手くいってんじゃねえか」
マジかよ、とビョルンの驚いた顔が少しばかり面白くてアリアドネは笑った。
*
ブリケイニオグ王国領土内を通過するにあたり起きた武力外交の一悶着の際に、トルフィンがクヌートに放った一言がきっかけだった。
「ダッセェ。お前、本当に俺と同い年か?」
捕虜になった体裁で武器を手放して小国内の領土を通行していた最中のことだった。台車に乗っていたクヌートがトルフィンに向かって声を張り上げた。
「こんな無礼者初めてだ!今まで僕にこんな態度をとる者はいなかった!」
「ならいい経験じゃねーか」
クヌートとトルフィンが口論するのはあまりに珍しい光景だった。トルフィンの一方的な礼を欠いた言動がクヌートを怒らせた。
“本当に同い年か?その体たらくで?”
この発言が酷く障ったらしく、それに続いて「自分の考えくらい言ったらどうだ。その口は飾りか」という誹りを浴びてクヌートは捲し立てている。それ対する不遜なトルフィンの返答にアリアドネは噴き出した。周りにいたビョルン、アトリやトルグリムたちは口論を見て唖然としている。
「ふふ、驚いた。あんな大きな声出せるなんて」
「俺ァ喋れないのかと思ってたぜ」
「彼、鳥が好きなようで色々話してくれましたよ。ウェールズで鳶を捕まえてあげたら喜んでました」
「へえ。お前いつの間にお近づきになったんだ」
「食事を運んでるうちに。親しくなりたいなら話しかけてみたらどうです?」
「おっさんが邪魔してできるわけねーだろ。あと野郎に興味はねえよ」
「つうか王子と普通に話せるのってトルフィンとアリアドネだけなんじゃねえの?」
子供の成長とは、何がきっかけで加速度的に進むか予測がつかない。気配を押し殺して生きてきたクヌートに火をつけたのは間違いなくトルフィンだった。そこからは生来のらしさが徐々に滲み出て、のっぺりとしていた表情を見せなくなり、控えめながらも喜怒哀楽が読み取れるほどには感情の起伏を面に出すようになった。
その変化が一層如実に顕れたのはウェールズを発ったあと、トルケル軍から身を隠すべく襲った村で過ごしていた時だった。キリスト教徒62人が埋まる墓の前で祈りを捧げる神父の言葉にクヌートは叫んだ。
「我が子を愛おしく思わぬ父親など、いない…!」
雪が深く残る林をクヌートは黙々と進んで、足取られ蹴つまずくまで止まらなかった。大きなモミの木の根本に蹲り息を切らしているところへアリアドネが駆け寄ると悲しげな声を絞り出した。
「ラグナル…わたしは…」
「彼は貴方を見失って大慌てですよ」
自分を追っていたのがラグナルではなくアリアドネだと気がついてクヌートは顔を上げた。言いかけた言葉を飲み込んで一層苦しげな表情を隠しもせずにいる。
「戻りましょう。せめて村の近くまで」
「…一人にしてくれ…」
「できません。目を離すなと言いつけられていますし、ラグナル殿も心配しています」
主張せずにいたクヌートが感情を露わにしたのは神父の一言がきっかけだ。彼の父、スヴェン王との間には何か事情があるようだった。
「お父上を慕っているのですね」
「……」
「ゲインズバラへ着いたら貴方の元気な顔を見せてあげましょう。きっとお喜びになりますよ」
「違うのだ…アリアドネ、父上は…、」
クヌートはアリアドネの外套を掴んだ。眉間に皺を寄せ苦悶の表情を浮かべる姿を見て、慕う父親と思惑がすれ違ってばかりいる関係のような、単純ではないと理解した。王家は狐の巣だとラグナルは言っていた。それを聞いていながら考えが及ばなかった。
「殿下!」
雪に膝をついて項垂れるクヌートを見てラグナルは労しい、と慰める。その様を見て、彼とスヴェン王の間には埋め難い深い溝がある確信を持つと同時にデーン人の王族というのはどこか血腥いとアリアドネは思った。
*
「さっきまで、ウサギの煮込みを食べていたんだ。途中で飛び出して行って…それで……」
村がイングランド兵に見つかった直後、アシェラッドの謀によりラグナルは死んだ。腹部を背後から槍でひと突き。それが死因だった。クヌートは腰を抜かして、ただただ茫然と見つめていた。肉となった従者を。
「腰抜かしてやがる。大丈夫かねあのヘタレ王子は」
「いつからラグナル殿を殺すつもりだったんです」
「ウェールズに行くより前だ。子離れしない親は邪魔なだけだからな」
「おいアシェラッド、裏目ったかもだぜ。ラグナルを殺したのは不味かったんじゃねーか?」
「声がでかいぜ。やったのはイングランド兵だ。あくまでもな。ボロを出すんじゃねえぞ。アリアドネお前もだ」
ラグナルを死へと追いやる企てを知っているのは数人の手下のみだ。
聞かれたとしても知らぬ存ぜぬなんのことやら見当もつかぬ。そう振る舞え。
アシェラッドはビョルンとアリアドネに言った。そのつもりだったが、返事は出来なかった。せめてゲインズバラまでは一緒に居させてやれなかったのか。どうして今やらねばいけなかったのか。苦い思いが腹の奥深くから湧き上がってくる。大事な者を失ったクヌートの心情を慮る者はアリアドネ以外にいなかった。
そして間もなく、かねてよりクヌートを追いかけていた者たちが姿を現した。嵐のように容赦なく全てを薙ぎ倒していくようだった。
「かかってこいよ。戦士ならスカッと気持ちよく死んでみろ。さア!来いよホラ!来い!!」
まさに怪物と形容するに相応しい暴虐ぶりだった。トルケル軍のと一戦でアシェラッド兵団はほぼ全滅した。スヴェン王の軍団と一戦交えるためのエサであり金づるであり人質であると悪びれもせず言うトルケルに対し、その認識は誤りだとクヌートは表情を険しくした。
「兄の身にもしものことがあった時のための備えに過ぎぬ。そのために17年間生かされてきた。わたしに人質の価値はない。…父はわたしを愛してなどいないからだ」
スヴェン王とケンカをすべくゲインズバラ軍団本営へ向かうというクヌートを前に、後悔していることがあるとトルケルは言う。何故トールズについていかなかったのか。本当の戦士の秘密を知ることができただろう、と。
「そのケンカ助太刀しよう。オレはアンタについていくぜ王子。これから何をして、何者になっていくのか。この目で見届けてやるぜ」
トルケルはクヌートの従者になった。それにより第二王子は下手な軍より強い手駒を得ることとなる。ラグナルを殺したのは自分だと告白したアシェラッドに、弔いのために尽くせとクヌートは言った。理解者を亡くし、理解者を奪った者や自身を捕らえようとした者を従えて辺境の地からゲインズバラを目指す。
「スヴェン王を玉座から引き摺り下ろす!」
ゲインズバラでの出迎えは芳しくなかった。第二王子の帰還を祝うどころか誤報と疑う様子こそ、クヌートはマーシアの地で戦死することを望まれていた証だった。宴席が設けられるヨークの地。スヴェン王に対抗すべくアシェラッドが打った芝居でヨークの町はその噂で持ちきりになる。
「王子様が殺されたってマジか?」
「影武者がやられたんだよ」
「暗殺者はなんで王子様狙ったんだ?」
「偉い人だから狙われることもあるだろうよ」
「でもお世継ぎ候補は二人いて、次男を狙ってもなあ?なんで陛下じゃないんだ?」
「クヌート様が死んで得する奴の仕業なんだよ」
「誰だよそれ」
「お前ら知ってるか?こいつは飽くまで噂程度の話なんだが……」
身代わりを用意してでっち上げたクヌート暗殺未遂事件。これは布石だ。
“王陛下がクヌート殿下の命を狙っている”
真実味のある噂はあっという間に広がる。新領分配と称してクヌートとトルケルに離れた領地を与えて孤立させたり激戦地へ派遣をすれば、噂は本当だったと認めることになる。頭の回るスヴェン王は第二王子に不利になることは言わないはずだ。王は王子に無理難題を吹っかけない。
「間者すら利用するか。まったく。そなたという男は…」
「明日の王陛下の反応が楽しみですな」
作戦の用意周到さを聞き呆れるクヌートにアシェラッドは薄笑いを浮かべた。
父と息子の駆け引きは泥沼のように深く思惑が二重三重にも絡み合い、如何に騙し出し抜くかが繰り広げられる。と、同時に水面下で恐ろしい事態の下準備が整っていく。
翌日。各地の首領を招集しての祝いの場で、死角から不意打ちを食らったかのような誰しもが想像し得なかった出来事が起きる。広間に集まった者たちの前で、アシェラッドがスヴェン王の首を斬り落とした。
「我が名はルキウス・アルトリウス・カストゥス」
そして自分こそがこの地を統べる正統の王だと叫んだ。
二者択一を迫る言葉を耳打ちされたのはアシェラッドただ一人だったが、その後の行動を見ていれば内容は想像に容易かった。半狂乱のフリをするのも全てクヌートを救うための演技であることはアリアドネもわかった。クヌートとウェールズ。どちらも救うにはアシェラッドが死ぬほかに選択肢はない。高笑いと共に片っ端から衛兵が斬り捨てられていく。
「剣をこちらに渡せ、アリアドネ」
アシェラッドを刺せ、と判断してしまうほどに混乱していた。人並みにしか扱えない剣を携えていたばかりにアリアドネはクヌートに指図され身構える。
「わたしがやる」
「これで、刺すのですか…!わたしの手から渡したこの剣で、彼を!」
声を荒らげたのは久しぶりだった。怒号の飛び交う戦場で仲間を呼ぶのではなく、腹の底から湧き上がる憤りを露わにした声はアリアドネとは思えないほど刺々しい。衛兵は片っ端から斬り伏せられ死体の山が築かれていく。クヌートは手を差し出したままアリアドネを見据えて答えない。
「そなたの故郷もウェールズであろう、アリアドネ」
「そうです、分かっていますとも。この状況の意味するところが分からない筈がないでしょう…!」
クヌートか、ウェールズか。王子が死ねば、故郷は戦禍を免れる。王子が生きれば、故郷が火の海になる。アシェラッドがこの場で死なない限りはどちらも避けられない。言われるまでもなく理解している。解りたくなどない。覆らない事実に震えが止まらない。
死ぬのも、戦場になるのも許せない。それと同様に、それ以上にアシェラッドを見殺しにすることは許容できない。全員を殺して死ぬ。彼の選んだ唯一の答えは揺るがない。何もできないアリアドネは自分の無力さに怒りが湧き上がった。
「わたしに、アシェラッド殺しに加担しろと言うのですか…っ」
「剣が必要だ」
「そこら中に転がっているでしょう!?何故わたしなんです!」
アリアドネが拒否したところで結末は何も変わりはしない。頭では分かっていても心と体がついていかない。嫌だ。そんな結末など見たくない。心が張り裂ける。
「渡せ。アリアドネ」
揺るぎない声。有無を言わせぬ命令だった。受け入れろ。他に道はない。態度でそう示され泣きながら握り拳を開いた。震える手で、腰に携えていた剣を渡した時点で決まっていた。思い人を喪ったアリアドネは、アシェラッドが王だと、ついていくと決めたクヌートに付き従うことを選んだ。
*
昔の話に尾鰭がついて大きくなり一人歩きするというのはよくある話であった。アシェラッドの死から一年と四か月後の1015年6月。アリアドネはクヌートの屋敷にいた。
「陛下についているアリアドネという従者だが、先王殺しの賊と同郷らしい」
「それは本当か」
「何かよからぬことを企んでいるのでは」
「しかし彼女はよく働いているようだが…」
「悪人はそれぐらいの擬態くらいする」
「陛下の身が危ないのでは」
デンマーク・ヴァイキング・イングランド方面軍の長となったクヌートは髪も短く、今や精悍な青年そのものだった。顔つきも幼き頃の少女の面影は一切ない。貫禄がある顔つきで、声で、憂慮すべき事態やも知れぬと耳打ちをする臣下たちを見据えてはっきりと伝える。
「彼女ほど忠義の者は居らぬ。腕も確かで仕えて長い。解任する理由はない」
「ですが…」
「何度も同じことを言わせるな。退がれ」
図らずも盗み聞きしてしまい、アリアドネは居心地の悪さに俯いた。アシェラッドの存在と自身の出生とがこんな形で影響するなどと考えられただろうか。先王殺しの賊。その賊と同郷の女従者。禍根にしかなり得ぬ己が立場を憂いた。
「アリアドネ」
声をかけられて体が縮み上がった。なぜわかったのだろうか。野生動物のような勘の鋭さにアリアドネは閉口した。物陰から歩み出る足取りは少しばかり重たい。
「陛下…」
クヌートはアリアドネに視線を寄越した。視線がかち合う。迷いも曇りもない青い瞳がある。
「申し訳ありません。聞くつもりはなかったのですが」
「構わぬ」
「陛下、わたしがいることで支障が出るなら早急に芽を摘むのが得策かと思います」
「そなたも同じことを言わせるか」
「いいえ。ですが…」
思わぬところで意図せぬ形で育つのが悪いものだ。育ちきり、手に負えなくなってからでは遅い。進行を阻む、足に絡みついて妨げになる蔦になる前に、刈り取らねばなるまい。
「貴方の行く道に禍があってはなりません」
人の心には愛がない。ヴァイキングたちに安らぎをもたらすべく“楽土の建設”を目的としているクヌートの傍らに身をおいているアリアドネだが、成就する前に自分の身がそれを妨げる原因になってはいけない、と考えていた。噂を耳にするようになってからは殊更に。
「聞こえなかったのか。任を解く理由などない」
「過ちを犯してはならないのです、陛下」
いずれ王となる貴方の、楽土建設のための道を遮る禍根にはなりたくないのです。伝えてもアリアドネの懇願は聞き入れられない。
「禍のもとになりたくないのであれば、疑いの眼差しを向ける者どもが畏れを抱くほどの忠誠を見せてやれ」
迷いを抱いてはついては来れぬぞ。再び青い瞳がアリアドネに向けられる。初めて会った時の面影はない。貫禄と覚悟が見て取れる瞳だった。
「働け、アリアドネ。今まで以上に」
クヌートは断固とした態度で言い渡した。果てしなく先は長い。翌年1016年4月。スヴェン王の死のあと、亡命先から戻り復位を果たしていたエセルレッド二世が病没する。彼の死後、息子のエドモンドが王位を継承するが七か月後に父親同様病没した。1018年、クヌートは正式にイングランド王となった。
20200912