その者、不在につき
担いだアリアドネは驚くほどに軽い。適当にぶん投げられた石が直撃してよく頭が吹っ飛ばなかったと思うほどに。実は内臓が詰まってないんじゃねえのかな。戦いの最中、脇に抱えながら移動するのは無理だったんで岩陰に放置していたが運良く逃げ回る敵に見つからずに済んだ。
「おーい、ビョルン!こっちは片付いたぞー!」
アトリの呼ぶ声に振り返る。仲間で数人ばかり怪我した奴がいるらしい。ちょうどいい、担いでるこいつも見てもらうか。
「おっ!女か!どこで見つけたんだよ」
「馬鹿野郎。これはアリアドネだ」
「うっわ!頭から血ィ出てるじゃねえか!」
石がぶち当たる瞬間を見たときはもしかしたら死んだかも知れねえなと思ったぜ。肩に担いでる今も全く反応がなくて死体を運んでいる感覚に近い。
「生きてんのか?」
「息はある。とりあえず手当てだな」
「なんだオイ、アリアドネも怪我してんのか」
荷台の隅に申し訳程度の寝床を拵えて寝かせてやると、アシェラッドは怪我の様子を見た。額に出来た他の誰よりも酷い傷と、意識がない状態だと分かって眉を顰める。
「あーあ。こりゃ酷え」
近くにいる仲間に包帯を持って来させて血を拭いながらアシェラッドは肉が抉れてやがる、と肩を竦めた。
「珍しいな。こいつが怪我するとは」
大抵の戦をかすり傷程度で乗り切るものだが、ここまでの大怪我は初めて見る。傷口に布を押し当てて包帯を巻きつける。
「内臓は心配ないみてえだな。頭は打ち所が悪いと死ぬぞ。しばらくは動かすなよ」
アリアドネを乗せた荷台の近くで火を焚いていると、心配そうに荷台の周りを器を持ってウロウロしている奴がいた。アトリだ。なんつう情けねえ顔してやがるんだ。眉尻を下げてひどく悲しそうに言う。
「なあ、玉ねぎスープ飲ませた方がいいんじゃねえか?」
「馬鹿野郎。寝てる奴に飲ませても詰まらせるだけだろが」
「でもよォ…」
「だーかーらー。アシェラッドに動かすなって言われてんだよ。今はそっとしておけ」
心配なのはわかるが無理に起こして食わせるわけにもいかねえから他に怪我してる奴に分けてやれと追っ払う。その後二日間、アリアドネは寝込んだまま目を覚さなかった。
*
ガタガタと何かが揺れている。大きな振動に目を開けると、すぐそばにトルフィンがいてわたしの顔を覗き込んでいた。
「おい、アリアドネが目を覚ましたぞ」
「…、あ…」
言葉が喉でつかえて出てこない。目の前に一面の空、脱力した体の感覚で自分が寝転んでいることに気がついた。揺れの原因はここが荷台だから。トルフィンに代わって声をかけてきたのはビョルンだった。
「全くもって珍しいヘマしたよな。お前らしくもない」
フランク族同士の小競り合いに乱入して稼ぎを横取りする、というのがアシェラッドの作戦だった。本格的な冬を前にもう一稼ぎしようと反対する者はいなかった。勿論わたしも同意していた。敵の頭数は多かったものの疲弊していたから、掠奪は容易いはずだった。奪ったばかりの砦に引き籠る相手に一方的な暴力を振るう。そのはずだった。城門にいる弓兵を狙うべく矢をつがえようと草むらから顔を出したところまでは覚えていた。
「一体、なに、が…」
「あーあー。無理に動こうとするな。お前、頭にでっかい傷が出来てるんだよ。ついでに喋るな。まだ寝てろ」
体を起こそうとするわたしをビョルンは制した。なんでも拳大の石礫がわたしの頭に直撃したのだという。弓矢や槍、剣がなくても石を投げれば立派な投擲武器になる。それにやられたらしい。実感が湧かないから他人事のように感じる。でも自由の利かない手足や平衡感覚がまるでない自分の体を考えれば、頭の傷が相当大きいのだと想像がつく。
「……」
一体どれほどの傷なのか。包帯で覆われているらしい頭部はじくじくと疼くばかりだ。頭が重い。体は少しも動かせない。こちらの様子を窺っているトルフィンと目が合う。ぐったりと身動ぎしないわたしに、無言で毛皮をかけてくれた。
*
アリアドネがいる荷台の周りには人が居つくようになった。群がったり騒いだりせず、様子を見るためにそっと近寄ってその場にいるだけだ。今日の客は王子だった。俺の姿を見ると少しばかり萎縮した。
「この者は…アリアドネの容体はなかなか良くならぬな」
既に一週間は寝て過ごしている上に食事もほとんど摂っていない。衰弱しているのではないかと心配しながら手を握る王子。従者のトンガリ頭のラグナルは傍にはいるものの必要以上には近付いてこない。うじうじして女々しい王子様自らが介抱している。へえ、またまた珍しいことがあるもんだ。
「いと高き方…我らの父よ…」
キリスト教徒はすぐ祈る。なんでもかんでも空にいる父とかいう奴に事あるごとに許してくれと頼む。難儀な神様だぜ。
「おい、祈るのは勝手だがこいつのためにやるのは止せ。祈りなんざで治らねえ。そんなもんは犬にでも食わせとけ」
王子はこっちを見た。アリアドネの手を握ったままこっちを呆けた顔で見ている。
「戦さ場には戦さ場の神がいるもんでな。お前にはキリストがいるように、俺らヴァイキングにはオーディン神がいる。こいつにキリストの恵みは要らねえよ」
「な…なんだと…」
「だいたい祈って腹の足しになるわけでもなし。変な感傷に浸るなよ。怪我したのはお前じゃねえぞ王子様」
姫様みたいな面した王子は俺にそう言われて不服そうにしながらも言い返すことはせず俯いてアリアドネを見つめた。
「貴様!黙って聞いておれば殿下に何という非礼な態度か!身分を弁えよ!」
代わりに怒涛の勢いでまくし立てたのはラグナルだった。トンガリ頭から湯気が出そうな怒気を放っている。あー、うるせえ奴だ。
「ラグナルさんよぉ。王子の従者だからって大目に見てやってんのに今すぐ殺されてえのか?」
「そこになおれビョルン!改心せぬのならば今すぐにでも斬ってやる!」
「ああん!?臨むところだ!オラさっさと剣を抜きやがれ!」
「や、止めよ!二人とも大声を出すでない!アリアドネを起こしてしまったではないか!」
意識がない時間が多いアリアドネが目を覚ました。容体はどうだと、荷台に横たわる女の周りに男が三人群がった。ぼんやりと遠くを見つめていて視点は誰とも合わない。掠れて聞き取りにくいそれに耳をすます。
「頭に……ひ、響くので、静かにして…くれますか…」
アリアドネは言い終えるなりまた目蓋を閉じて浅く呼吸をする。静かにしろと言われた手前、決闘なんざできやしねえ。抜いた剣を鞘に戻して、俺とラグナルはそっとその場から立ち退いた。怪我人の言いなりになるとは思ってもなかったぜ。畜生め。
*
野営だから飯は自分で調達するのが決まりだ。蓄えはあるがおいそれと使い切るわけにゃいかないので狩りに出たがめぼしいものが見当たらない。魚が食いてえが近くに川もない。肉が食いてえが肝心の獲物が見つからない。
「くそっ。腹が減ってイライラするぜ」
「近くに村があったら楽だったのによ」
「そうだなァ。襲って殺して奪えば飯にありつける」
耳とアトリと草むらに隠れて獲物を待ち伏せする。酒も飲みてえな。ビールにはチーズが合う。ぼんやりと妄想していると、耳が声を潜めて指を差す。
「おい、見ろトルグリム。雌鹿がいる」
草の隙間から目をこらすと、数メートル先に草を食べている雌鹿がいた。体格もそれなりにしっかりしていて肉がたくさん取れそうだ。
「捕まえてこいよ」
「阿呆。この距離で動いたら気付かれるだろーが」
運良く雌鹿はまだこっちに気がついていない。野生動物は勘が鋭い。俺らが少しでも動けばすぐさまバレるし逃げ出す。遠間から仕留める武器がいるが、手元には剣しかない。
「おい耳。弓矢を持って来い」
「うるせぇ命令すんな」
この場に弓矢はないしそもそも得意な奴もいない。獲物を前に指を咥えて見ているだけのこの状況にもまた腹が立つ。
「こういう時、アリアドネが元気ならなあ…」
アトリはポツリと呟いた。あいつは弓矢の名手だ。雌鹿の脳天に矢を寸分の狂いなく打ち込めるはず。鹿の一頭や二頭、あっさり仕留めてくれるんだろうな。
「お前、やたらとアリアドネに肩入れしてるよな」
「はー。嫌だね。女に気に入られようとしてやがる」
「そ、そういう訳じゃねえよ」
ただ気になるんだよ、とアトリはなぜかしょぼくれて言う。アリアドネは怪我をして長いこと寝込んでいる。アシェラッドが言うには頭を怪我してるので養生しないといけないんだと。
「女々しいことすんじゃねえよアトリ」
「なんだよ。俺は心配してるだけだぜ兄者」
「あっ!」
耳の声に獲物を見遣ると、雌鹿が俺らをじっと見ていた。瞬きしたあとすぐに軽い足取りで走り去ってしまった。
「口答えするから逃げちまったじゃねえか!」
「俺のせいじゃねえよ!」
晩メシが逃げた!と三人揃って頭を抱えて地団駄を踏んだ。そのあと、槍でも剣でも斧でもとりあえずぶん投げとけ精神でようやく捕まえたウサギを食った。量が少ねえだのお前は食い過ぎだの喧嘩をしながら食ったもんだから腹は大して膨れなかった。
*
額の生え際近くに5、6センチほどの大きさの治りかけた傷がある。傷口には薄皮が覆っていたが、まだ肉が透けて見えていた。こりゃ痕が残るな。
「あだだだだ…!もう少しゆっくり剥がしてください!!」
「我慢しろ。これでも十分ゆっくりだ」
当て布を剥がすと乾いた血と体液に薄皮が引っ張られて激痛が走るのか、らしくない声を上げて痛みを訴える。怪我から二週間経ち、アリアドネはようやく寝たきりの生活から回復しつつあった。よろけながらも立って歩くくらいはできるようになったが、まだ斥候も行軍もましてや戦闘には加われない。手足のように扱えていた弓矢もまだ少しばかり覚束ないらしく獲物を取るのにもかなり苦労している。
「死ななかっただけ佳しとします。怪我と調子はなるべく早く治してせめて行軍についていかないと」
そろそろ荷台での生活は飽きましたとアリアドネは保護のために包帯を巻く。少しやつれてこけた頬も、あまり生気がない顔色もすぐよくなりそうな気合の入り方だ。腹が減っているのか肉の焼ける匂いに鼻をひくつかせた。
「おう。頼もしくて何よりだぜ」
戦闘も野営も行軍も、アリアドネがいなくとも全くもって何の問題もない。が、いないならいないで据わりが悪いというか、いた方がしっくりくるというか。こいつが寝込んでいる間は、兵団全体がどことなく浮ついてぎくしゃくしていた気がする。
20200624