噂を否定してやり返す話
※三年生

進級して浮ついた雰囲気になっていたのははじめの二週間ほどだった。日に日に受験の二文字が存在感を増してどんなに悠長で呑気な奴も―間に合うかの是非は別にして―学業に本腰を入れ始める。

「悠、英語のテキスト貸せ」

「そこにある」

好きしろと顔を上げもしないで返事をした。互いに宿題やら課題を片付けている。悠は家族が一つ屋根の下に揃う時には逃げるようにして俺の家に来る。何をするでもない。勉強をしたり本を読んだり他愛もない話をするだけ。もとより多かった勉強の量と時間は加速度的に増えていくが、苦痛にも重圧にもならず以前と変わらず淡々とこなすだけだ。

ページを捲っていくと、付箋が貼ってあったり目立つ赤でマーカーが引かれていたり、几帳面に書きこまれた注釈が目についた。見易い文字が並ぶ。

「お前のことだから少しは浮足立つと思ってたが案外平気なんだな」

「さすがにこの程度でそう思われるのはムカつく」

過小評価ではなく素直な感想を述べたまでだがそれが気に入らなかったのか悠は俺に向かって緑のマーカーペンを投げつける。顔に向かって飛んでくるそれをテキストで弾いた。リビングの床に転がったそれを放ったまま悠はコーヒーを飲んで一息つく。そしてどんなにやることが増えようと、と前置きをした。

「両親が家にいること以外は至って普通だわ」

「珍しいな」

「出張がないのと帰省する理由がないんじゃないの?どうでもいいけど」

ここ最近は不仲の両親が何故か家にいることが多いらしい。それを除いた学業と部活と人間関係、その他諸々。それらは驚くほど平穏に、何事もなく日々を送れているという。ずっとこうならストレスも少なくていいんだけどね、などというやりとりをした数日後。部活のあと、ボールの手入れをしている原に唐突に問いかけられた。

「花宮さあ、掛川ちゃんと一緒に住んでるってマジ?」

「は?」

原を始めバスケ部の面々は俺と悠の関係を知っている。事の端々を見ていたから経緯も現状も虫食いではあるが把握している。答えはわかっているけど敢えてこの聞き方をしているだけで、ただの確認のようだ。呆れながら否定する。

「んなわけねえだろ」

返答を聞いて全員が全員「そうだよな」と頷きながら黙々と作業を進める。同棲しているわけがないという認識が共有されて皆一様に納得している。

「行き来してるだけでしょ?」

「ああ」

厳密に言えば悠がこちらに足を運んでいるだけだが。高校生が同棲って設定盛り盛りの少女漫画かよ、と山崎は現実味のなさに肩を竦めている。

「どういうわけかそういうことになってるよ」

「流す奴もだが、それを信じる奴もどうかしてるな」

理解に苦しむとばかりに古橋は言う。噂の一人歩きは往々にしてあることだし、人から人へと口伝えされる度に形を変えていくから勝手に尾鰭がついて話がデカくなる。

「ホント。誰が言い始めるんだろうね、ああいうの。他人に干渉して何が楽しいんだろ」

「自分に不満があると他人を意識するからな。そういう奴らには隣の芝は青く見える」

「はー、なるほど。噂好きはコンプレックス持ちってことか」

瀬戸と原は手入れの終わったボールをカゴに放っていく。受験に追われる身になりつつあると色恋沙汰は刺激的なネタになるのだろう。惚れたフラれた告られた。実に下らない。取るに足らないものに現を抜かす暇などない。

「花宮は構わないだろうが、掛川はそうはいかないかもな」

「そう?上手い具合にスルーしそうだけどね」

恐らく悠の耳にも入っているだろうこの噂話は学校生活を送る上で多かれ少なかれ影響が出る。見ものだな。



“花宮と掛川が同棲している”という流言蜚語ひごの類を掻き消そうと躍起になるのは逆効果だ。いつから流れているか知らないが、話題になるのは僅かな間だけで、みんな直に忘れるし執着する奴なんて少ない。

とはいえ人様のプライベートを探ろうとしたり真相のほどを聞き出そうとする阿呆は一定数いるから、話しかけられてそれとなく尋ねられる。

どういう経緯で?

ていうかいつから付き合ってたの?

どっちから持ちかけたんだ?

優等生掛川悠の浮ついた噂というは興味をそそられるもののようで、あれこれ手を使ってどうにか事実確認できないかを画策している奴がいる。下らない問いかけの度に丁寧に教えてやる。冷たい視線と素っ気ない態度で諦める奴もいるし、反応の薄い様子を見てようやく気がつく馬鹿もいる。とはいえこれで引き下がらない奴はいない。

態度で教えてやるうちに、この話題に触れるのも持ちかけるのもタブーだと噂と同じように広がり誰しもの耳に入るはず。そうしてほとぼりが冷めるのを待てばいい。あとは時間の経過が事を有耶無耶にする。どいつもこいつも受験生らしく勉強に励めばいい。それで全て解決だ。

「掛川さん、ちょっと数学で教えて欲しいところがあるんだけど…今いいかな?」

テキストとノートを手にしているクラスメイトに声をかけられた。借りた本を閉じて机にスペースを空けてやると、そこにテキストとノートを置いて近くにある椅子を引き摺ってきて座った。

「花宮くんと同棲してるって聞いたんだけど。本当?」

教えて欲しい、は話しかけるためのただの取っ掛かりに過ぎなかった。ふざけてるな、お前。どいつもこいつも受験生だというのに暇で羨ましい限りだ。はあ、とため息が漏れる。邪魔だ。酷く鬱陶しい。

「関係ある?」

眼前のクラスメイトを見遣った。彼女は興味津々なのか目を輝かせて前のめりでわたしの顔を覗いている。

「あるよ。クラスメイトの恋愛事情だもん。気になるじゃん。ねえ、いつから一緒に住んでるの?みんな気にして…」

「分からない単元と関係あるかって言ってるんだけど」

取りつく島もない態度で苛立たしげにテキストを小突くと目を泳がせた。

「え、えっと…」

思ったより刺のある対応で面食らって慌てる様子が滑稽だ。そのつもりで来たのなら相手をしてやる道理はない。テキストとノートを閉じて突き返してやると狼狽して身を乗り出す。

「ちょ、ちょっと待ってよ。分からないのは本当なんだってば。ここの…」

「このレベルが分からないって相当だね」

侮辱の言葉を受けて一瞬の間の後、唇を震わせてわたしを睨みつけてくる。訳もなく一方的に辱めているのではない。こうなる理由を作ったのは向こうで、恨まれるのはお門違いもいいところだ。これを機に、外野の人間がわたしと花宮との関係を問い質すこと自体が侮辱であることを分からせるべきかも知れない。

「基本が理解出来てない人には教えられないしアンタに教える義理はない。他所当たってくれる?」

何を言っても無駄だと理解したようで荷物を手繰り寄せて恨み言を並べ始めた。

「さすが、定期考査で毎回10位以内に入るだけあるよね。どうせ受験も余裕なんでしょ?いいご身分だね」

自分の思い通りにならないのが気に入らないらしい。嘲りの表情を浮かべてわたしを睨みながら続ける。

「生まれつき頭の良い人には努力してもできない人の気持ちなんかわかるはずないよね」

臓腑の奥深く、鳴りを潜めていた感情が湧き上がる。机に拳を叩きつけると相手はびくりと肩を震わせてわたしを見た。困惑している。冗談だよ、と言い逃れをする暇など与えてやるものか。

「これが先天性とでも思ってる?笑わせないで。いっぺん血反吐を吐くまで勉強してみれば?」

知りもしない癖に努力もなしで結果を得たと、そう思っている。全く腹立たしい。粗暴な態度で積み重ねた信頼が瓦解する覚悟はできている。ただ、わたしのプライベートを詮索してきたことへの牽制はあって然るべきだ。ここで釘を刺さないと調子に乗りつけ上がる。更に生い立ちにも深く関わることを、よく知りもしない輩に好き勝手言われたことへの報復も必要だ。そんなつもりなかったとは言わせない。良し悪しの分別はつけられる年頃だろう。軽々しく足を踏み入れたことを心の底から後悔して申し訳なく思え。

「アンタは死に物狂いで勉強した人間の気持ちがわかる?わかるはずないよね。ちょっと授業受けてテキスト読んで勉強した気分になってるならそれ相応にしかならないわ」

出直してこい。甘えるな。低い声で唸り睨め付けてやると、クラスメイトたちの視線もあってか居た堪れなくなり立ち去った。



「捨て台詞と一緒にバッサリ切り捨てたな」

雰囲気の悪い教室を出て来たところを嗤ってやると悠は眉間に皺を寄せて俺を睨む。

「いいもん見せてもらったぜ」

「見せ物じゃない」

一緒に話しているところを盗み見てくる輩に一瞥くれてやると気まずそうに視線を逸らす癖にどこかいやらしげに笑う。精神年齢の低い奴らだな。俺にも馬鹿の一つ覚えよろしく尋ねる奴らがいたが全て適当に受け流している。

「聞くまでもないだろうけど、あの話知ってた?」

「そりゃな」

「…はあ…」

「火のない所に煙は立たぬ、だろ。外野の妄言だ。放っておけよ」

「そのつもりだったんだけど」

一部始終を見ていたので断言するがあれは悠なりの正当な仕返しだ。ご丁寧に逐一全身全霊を以て受け応えているわけではない。最も触れてはいけない部分をピンポイントで踏み抜いたのなら、あって然るべきものだ。

「久しぶりに頭に血が昇って、ついね」

「“死に物狂いで勉強した人間の気持ち”な。言えるようになったじゃねえか」

本音を。一連のやりとりを見ていた俺の口から嘲笑いではない言葉が出たことに悠は驚いて目を見開く。でもそれは一瞬で、猫を被らなかった自分の言動を思い返してすぐに納得したような顔つきに変わる。

「演じる必要がないからね。それに向こうが突っかかってくるんだから、それなりの対応はしないと」

くつくつと微かに肩を揺らしている悠の顔は悪役も真っ青な歪んだ笑顔だ。余所行きの柔らかさのあるものではなく、悪意と敵意を含んでいる。それにつられて口角が上がる。

「なに笑ってんの」

「別に。しかしお前と同棲とは趣味の悪い噂だな」

「花宮となんてあり得ないし願い下げ」

そうだな、願い下げだ。互いの意思を相互確認できただけで、事態は進展も好転もしていないというのに不思議と悪い気分ではなかった。


20200801
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