夢の中で会う話の続き
髪を後ろでラフに結わえ、眉間に皺を作りながら唐突に悠がこんな前置きをした。
「変なこと言っていい?」
一拍遅れてテーブルの上に置かれた朝食の盛られたプレートに乗っている厚焼き玉子が湯気を立てている。椅子に座りカップを手に取った。
「…言っていいかって聞いてるんだけど」
別に了承を得る必要などないから言えばいいだろうに。そうとは口にせずに「何だ」と先を促す。返事をするまでの間に湯気の立つ玉子を割って口にした悠は咀嚼して一息ついたあと、仕方なしに言うんだという雰囲気を醸し出しながら言った。
「まだ幼いアンタを抱っこしてる夢を見た」
突拍子のないというか、あまりに打ち明け方が藪から棒で危うく噎せそうになった。カップをテーブルに置いて前に座る悠を見る。
「何?」
「睨まないでよ」
そういう本人は相変わらず眉間の皺を作ったままだ。睨んでいるのはそっちだろうが。険しい目線をくれてやっても動じることも反応することもなく、悠は話を続ける。
「こう、まだ小学生にもなっていないような年頃で」
手振りでおおよその身長を示し、その手を翻しざまこちらをいい加減な態度で不満げに指差す。
「可愛いなと思って顔を見たらアンタなんだよ。気分悪くて」
「そういうこと聞いてるんじゃねぇ。何でそんな」
夢を見たといちゃもんに近い詰問が口から出かけて飲み込んだ。何でそんな夢を見た、と聞かれたら「そんなもんこっちが知りたい」と噛み付いてくるに決まってる。この問いに答えはないし、意味もない。
「その小さい花宮を抱きかかえてたんだよね」
「で?」
続く夢の中での話に、適当ながら相槌をうつ。
「腕の中で熟睡。完全にこっちに体預けて、挙句に私の服を掴んでね」
コーヒーを静かに啜る悠は肘をついて息を吐く。
「花宮をそのまま小さくした形だったわけだから放り投げても良かったはずなのに」
「酷え仕打ちだな」
「寧ろ、起きないようにあやしてた。肩に手を添えてゆっくりさすって。それで気持ちよさそうに寝てる顔を見て安心してた」
「………」
流暢に話す悠の口から普段耳にしないような単語が溢れ出る。
「不思議と嫌な気分じゃなかったんだよね、花宮をそのまま小さくした見た目だったのに」
そこを強調するな、と口を挟もうにも話し終えた悠の表情が冴えない。バツが悪そうにコーヒーをまた啜って「変な夢だった」と言い訳じみた独り言をつぶやいて箸を手に取る。それにつられて俺も料理を口に運んだ。
「続きは」
まだ話すのかと不満げに表情を歪ませたものの、話題を振ったのが自分であると分かっている手前か仕方なしに言葉を零す。
「あやしてるうちに、なんだかこっちも気分が朦朧としてきたというか…夢の中で寝たと思ったところで目が覚めた」
もういいでしょ、と切り込んだ会話を無理矢理終わらせた悠はさっさと料理を流し込んで席を立った。
*
話さず忘れてしまえば良かったと後悔したし、試みはした。
「はあ、何でかな」
見たものをどうして口に出さなければならなかったのか。忘れられたら良かったのにと思いつつ、結局のところ忘れるに至れなかったわけだった。だからこうして本人に言わねば気が済まなかった。落としどころが、どうしても必要だった。会話があったわけではない。あったとしても覚えていることはない。
全てがあやふやで、明瞭でないはずなのにどういうわけか、夢の中でそれを抱いた感触、熱だけが克明に思い出された。頼りない肩、思わず手を伸ばして触れてしまいたくなる丸い後頭部、無垢で疑うことを知らない無邪気さ、私の腕の中で眠り無条件に縋ってくる小さな手。幼少期の彼を腕に抱いて謂れもない安堵感、幸福感があった。あれを幸福と呼ばないなら何というのだろう。やけに満たされていてそれが続くと信じて疑わない、充足に満ち足りたあの感覚。滅多に感じないそれ。
夢で見て感じたものと、いま自分が足をつけている現実があまりにも不釣り合いで。息が詰まった。洗濯機の前にしゃがみ込んで顔を腕の間に伏せて視界をシャットアウトする。視界から入る情報全てが煩わしい。
「何で」
答えのない自問自答。なんであんなものを見てしまったんだろう。足元が掬われそうな浮足立ったこの感覚の後ろめたさと、忘れようにも忘れることが叶わない現実。どうしてこんなことで頭を抱えなければならないのか、と湧いて出た疑問も結局のところ「忘れられないから」で片付いてしまうのだ。
「邪魔だ、悠」
唐突に聞こえた花宮の声が私の背中を跨いでいく。足が幾らか長いんだから文句なんて言わずに黙って通り越してくれ。爪先が背中を擦るその小さな衝撃に後押しされて、酩酊状態よろしく後先考えずに口走る。
「あのさあ」
「あ?」
「さっき言ったこと忘れてくれない」
「そりゃ無茶だ」
「……だよね」
それに対する溜息が「思ってるなら言うな」と伝えてくる。洗面台の前に立っている花宮は私に何か言うように促しているのかその後はだんまりで、その代わりに歯ブラシを手に取った。
「見たくて見たんじゃないんだよね」
「だろうな」
本意からなのか、はたまた全く興味がない故なのか、素っ気ない返事。
「何でかな」
三度目の問い。堂々巡りもいいところだ。忘れてしまえば丸くおさまるのに忘れられないなら、受け入れるしかない。受け入れて自分の一部にしていまえばいい。それが出来ないのは、それを拒絶しているのは、何故だろう。
―どうして、こうも覚束ないのか。
眼下にある自分の足先に目を遣る。確実に足が地面についているのにこうも浮足立っているのは、忘れることも出来ず受け入れることにも躊躇しているからで。隣に立っている花宮に視線を移す。せいぜい膝辺りまでしか見えないけど、薄い灰色のシャツの裾が視界の端に映り込んだ。
「花宮」
そのシャツの裾を掴んだ。
「―、」
花宮の空気が一瞬硬直したから、私に一瞥くれたんだろうけど、離せと言わず黙々と歯を磨いている音がする。
「終わるまでで良いから」
―しばらくこのままで。
「………」
また沈黙。振り払われないから、いいんだろう、このままで。縋れるなら、なんでもいい。そんな切羽詰まったようなぞんざいな感情。
「―っ、」
指先に触れた感触に肩が跳ね上がりそうになった。裾に縋る指先に、触れる熱。添えられただけの感触に恐る恐る指を離して、何かの勘違いではないだろうかと疑心暗鬼になりながら手をゆっくり翻していく。肌と骨の感触が同時に伝わる。私より大きい指を掴めば、花宮はそれを拒絶せずに合わせるように絡ませる。余った指の収まりの悪さにまたしがみ付けば、同じ動きを繰り返して据わりのいいところを探し出す。不器用な絡ませ方だった。
「………」
発せられる言葉はない。ただ静かに互いの手を取り合ってそこに居るだけ。たったそれだけなのに、瞬く間に気持ちは落ち着いた。先ほどまで心を掻き乱していたもどかしさは跡形もなく消えた。代わりに、花宮の熱だけでここまで平静を取り戻せてしまった事実に、悔しさが湧き上がった。その癖、握った手はどうしたって離したくなかった。
*
子供特有の少し高めの声に耳を傾ける。
「かくれてるの」
「誰から」
「おかあさん」
見つかったらどうするんだ、と意地の悪い質問をすると「べつにいいの」としれっと答えた。椅子に腰かけて、足を前後に揺らしながら何もない遠くの方をじっと見ているこの少女は誰だ。
「かくれてるけど、さがしに来ないから」
だから平気。一貫性のないことを言いながら振り向いた顔には見覚えがあった。人を見下し、どす黒い感情を押し殺している片鱗はまるで感じられない、まっさらな笑みを浮かべている。
「父さんは」
「いるけど、あんまりいない」
「お前が隠れてること、知らないんじゃないのか」
「そうかなあ」
「かくれんぼしてることを、知ってるのか?」
「あんまりかんけいないかなあ。知っててもさがしには来ないよ」
「何で」
「合意の上でこうなっているから」
まだ幼い子供の口から出る言葉にしては随分と冷ややかで平然としている。聞き洩らしたわけではない。が、もう一度問う。少女の回答は先ほどとは違った。
「おかあさんは、さがしに来ないの」
座っているのに飽きたのか、地面に靴の先で溝を掘り始めた。大きな円を描いてその中に入って、ウロウロと行ったり来たりを繰り返す。地面を徐に蹴ったり、ありもしない障害物を避けるように蛇行したり、かと思えば急に立ち止まってみたり。
「さがしに来ないって、かなしいけど気楽でいいかも」
また似つかわしくない言葉を吐きながら、地面に描かれた円のところどころを消して歩いている。長いことそれを繰り返していたが飽きたのか、円の外側に向かって足先を蹴り出す。溝を軽い足取りで飛び越えて、俺を一瞥したあとまたニッコリ笑った。
「またね」
手を振って踵を返し、背を向ける少女に返事をする前に、意識が遠のいた。
「子供の頃のアイツの顔なんざ知らねえ」
目覚めた刹那の自分の声の明瞭さに、果たして今まで本当に意識を手放していたのかと疑いたくなった。
「またね」
そう言った少女に面影があったようにも思えたが、あんな風に純粋な笑みを見たことがない。後味が悪いわけでも内容が酷かったわけではないが、どうも気持ちの整理がつきにくい夢想だった。
「変なこと言っていい?」
リビングに行ったら悠の口から「まだ幼いアンタを抱っこしてる夢を見た」と言われてしまっては、口にしたくても出来ない。
「終わるまでで良いから、」
裾を掴む悠の手に反射的に触れた。今、言うべきではないと思う。俺の行動理由を、今こいつが識る必要はない。ただ黙って、こうして僅かに熱を分け合っておけば今はそれで良い。
改稿:20200506
初出:20150920