泡風呂で口論する話
※名著の冒頭の一節を言い、作者とタイトルを当てるメタレベル(?)しりとりをしています。“”内の引用・作者やタイトルの出典ははページ下部に明記してあります。

「“この少年は、名を知られなかった”」

問答をひたすら繰り返す。水面に浮かぶ泡を掻き集めて弄りながら、私は淡々と答えた。

「小川未明の眠い町。“ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。”」

「芥川龍之介の蜘蛛の糸。“ひとびとが分析的知性と呼ぶものがあるが、これを分析する
ことは、ほとんど不可能である”」

「ポーのモルグ街の殺人。“蓮華寺では下宿を兼ねた”」

「島崎藤村の破戒。“花が散って、海が碧くなった”」

「司馬遼太郎の十一番目の志士。“ちょうど、お盆が明けた頃のこと”」

「道尾秀介の箱詰めの文字。“その年、ぼくは百六十二篇の小説を読んだ”」

「宮本輝の星々の悲しみ。“ナイフの使い手だった私の祖父は十八歳になるまえにドイツ人ふたりを殺している”」

「ディヴィッド・ベニオフの卵をめぐる祖父の戦争。“申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です”」

「太宰治の駆け込み訴え。“何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている”」

「森見登美彦の太陽の塔。“完璧な文章などといったものは存在しない”」

「村上春樹の風の歌を聴け。………“我輩は」

「夏目漱石の我輩は猫である。何だよもうネタ切れか、早ぇな」

「寧ろネタ切れしないとかどんだけだよ」

浴槽の中、向き合った状態で続けられた奇妙な遊びは私の質問で途切れた。小説の冒頭を諳んじて、それの著者とタイトルを言い当てるというしりとりの上級編みたいな遊びだ。遊びというには些か頭を使い過ぎるように思う。結構頑張ったつもりだったけど、思考回路の作りからして違う花宮には及ばなかった。

「続けてやっても良いぜ」

「結構。頭痛くなりそうだし」

浴槽の縁に寄りかかるようにして一息ついた。極力体が触れないように足を小さく折り畳んでいるけど、花宮が長々と足を伸ばすせいで意味がない。ちょっと膝が窮屈だから伸ばしたい頃合だったりする。

「足、邪魔。私も伸ばしたいんだけど」

「伸ばせば良いだろ」

花宮の足を押し退けながら足を伸ばす。ちょうど、花宮の膝裏と私の膝頭が上手い具合に重なっている。上からかかる重みが鬱陶しくて、“退けよ”と態度で示した。

「蹴るな」

「蹴ってない」

「故意だろ。ふざけんな」

「そういう粗探しやめてくんない?」

「うるせえ貧乳」

「うるさい短小」

「…………」

「いたたた!ツボ押すな!」

お湯の中、突然足を掴まれて土踏まず辺りを指で押されて激痛が走った。なんだ、どこのツボ押してるんだ!すっごい痛い!

「それで喘いでるのはどこのどいつだ。あ?」

「離せ!痛いって!」

「なあ悠。どこのどいつだか言ってみろ」

「喘いでない!痛いってば!…っ!」

滑る浴槽で体勢を崩して、顔の半分くらいまで浸かってしまい反射的に開いてしまった口の中にお湯が入り込んだ。泡風呂だから変な味がする。なんか苦い。ついでに鼻にもお湯が入って痛い。

「げほっ!苦っ!」

「汚えな」

「誰のせいだと思ってんの…!」

「自分で滑ったんだろうが。ざまあみ」

頭にきたからお湯を花宮の顔面目掛けて吹っ掛けてやった。この苦い味をお前もとくと味わえ!ざまあみろと最後まで聞こえなかった言葉をそっくりそのまま返してやる。ぼたぼたと滴るお湯がいくらか口に入ったらしく、ぺっと吐き捨てた。

「てめえ…」

髪の毛が顔に張り付いている。前髪の隙間から見える、特徴的な眉が寄った。おお、大層ご立腹な様子。もしかしなくてもヤバイ。花宮は獲物の草食動物に標準を定めたような目でこっちを見て、私はその肉食動物と目が合ってしまった。はた、と互いに動きが一瞬だけ止まる。

「状況わかってんだろうな?」

「…ちょっと待って」

「待つかよ」

花宮は逃げ出そうとする私の腕を一つにまとめて掴んで、羽交い絞めにして浴槽に押し付けた。暴れた勢いで、お湯が排水溝に流れていく音がする。

「刃向かうってことは、何されても文句はねえってことだよな」

「何をどう解釈したらそうなる」

超至近距離で睨み合いながら、どうにか手を振り払おうと抵抗しているといきなり喉元に噛みつかれた。

「っ!」

「暴れんな」

空いている方の手が、お腹辺りからゆっくり這うようにして上がってきて胸を揉みしだく。その艶かしい動きにぞわりと鳥肌が立つ。体がお湯に浸かっていてその様子が見えないのが救いだ。

「はっ、本当に無ねえな」

「うるさい…!」

妙な心地よさに体が弛緩してしまって肌を撫でられる度、勝手に跳ね上がってしまう。それが恥ずかしい。明るい照明の下、顔を見られないように掴まれている手で隠す。その間もずっと、どこが良い反応をするかを探しているみたいに撫で回す。不意に脇腹を指で擦られてびくりと肩が揺れる。くすぐったいのか気持ち良いのか、わからない。

思わず顔を上げてしまって、また花宮と目が合った。でもさっきの怒りの色を湛えた目付きとは違う。眉を顰め口唇を三日月型にしながら、酷く意地悪く笑ってこっちを見下ろしてくる。うわ、顔を見られた。

「ぎゃんぎゃん喚きながらも反応するわけだ」

「だから、うるさいって… ひっ」

「悠」

「や、っあ 、っ」

にゅるんと入り込んでくる指の感触に言葉が尻すぼみになって、代わりに出た声は艶を含んだものだった。好き勝手に動かされるのに合わせたように出る鳴き声は浴室に反響する。これも恥ずかしい。手で押さえられないから、唇を噛み締める。それでもやけに甘ったるい声が出てしまう。でも、言葉となって出るよりはずっと良い。意味を成さない言葉ばかりだとしても、だ。

「―ん、っ」

「抵抗だけは一丁前にするんだな」

「…っ ふ」

「少しは素直になれ」

声を押し殺している唇を舌で抉じ開けられながら乱暴に髪を掴まれて、そのまま貪るようにして唇を食まれる。髪が引っ張られるのに全く痛くなくて、背筋に走った電気みたいな何かに腰を戦慄かせた。拘束の解かれて行き場のなくなった腕は花宮の背中に回すしかなかった。花宮の肌が、浴槽に張られているお湯よりもずっと熱い。

「は、っ あ…」

「足開け」

「い ―っ」

「、悠っ」

「やっ 花、みや」

変な感じがした。体内に収まっているそれの熱が異様に高い気がする。ハッキリと記憶しているわけじゃないけど、出入りする感覚がいつもよりも生々しい。抱き合うような体勢だから花宮の声が、耳元で木霊する。溜め息に混じって呻き声みたいなものが聞こえる。耳朶にかかる息も熱い。

体に触れているもの全てが体温以上の熱をもっていて、まるでサウナみたいだ。上を向いても顔を背けても熱くて息がし辛い。それなのに律動はいつも以上に激しくて、気がついたらあんなに我慢していた声が漏れていた。ああ、もう駄目。

「ひあ、  んっ う…っ」

「っ ―」

「や、だ  あっ…!」

纏わりつく熱気に感覚が曖昧になって、気を抜いたら体勢を崩してしまいそうになる。必死に花宮にしがみ付いて快感をやり過ごしたかった。でもお構いなしに動かれてはどうしようもなくて。気を遣る寸前に体が落ちるような錯覚を覚えて、それが怖くて何でも良いから掴まりたいと思った。ぎちり、と指先が何かを引っ掻いていた。



少しのぼせたからか、終始の記憶がない。

「え、何これ」

「お前が引っかいたんだろうが」

花宮の背中に走る三本の赤い筋を見て、さあっと血の気が引いた。

「嘘だ」

「んな訳があるか。なんで嘘つく必要がある」

花宮のことだ、この後に何かしらの制裁があってもおかしくない。抵抗したいところだけど、ここまで派手に傷をつけておいて果たして出来るものかと頭を抱えた。

「悠、ちょっと後ろ向いてろ」

そう言って生乾きの髪の毛を邪魔そうに払った次の瞬間、ぬめった感触と硬いものが押し付けられる痛みが項に走る。花宮が、私の首に噛みついた。

「いっ!」

「これであいこにしてやる」

「血、出たらどうしてくれんの」

「俺よりは軽傷だろ」

良いからさっさと背中をどうにかしろ、と手当てを催促されて渋々やったのは数分後の話だ。




【出典】ご指摘頂きましたので、出典を明記致しました。
小川未明:眠い町
芥川龍之介:蜘蛛の糸
エドガー・アラン・ポー:モルグ街の殺人
島崎藤村:破戒
司馬遼太郎:十一番目の志士
道尾秀介:箱詰めの文字
宮本輝:星々の悲しみ
ディヴィッド・ベニオフ:卵をめぐる祖父の戦争
太宰治:駆け込み訴え
森見登美彦:太陽の塔
村上春樹:風の歌を聴け
夏目漱石:我輩は猫である


改稿:20200506
修正:20130211
初出:20121101
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