2人の世界 後
触れる手が熱いのか、それとも私の体が熱を持っているのか。体の中にこもる熱気を発散したらいくらかは楽になるかもしれない。

「ん、」

噛みついて噛みつかれを繰り返しているうちに花宮の手が離れていた。そのことに気が着くのに、時間がかかった。襟元を離れた手はシャツの裾を割って器用にボタンを外しながら侵入してくる。

「っ、あのさ」

「あ?」

「それ、止めて」

「何で」

「くすぐったい」

押し倒した私を今度こそ拘束して、舌や唇で肌をしつこく食む。その度に髪の毛が触れてむず痒かった。あやふやな感触に笑いを堪えるのがしんどい。

「………」

「………」

一瞬、行為を止めた花宮は私の方を見遣った。

「ふーん」

「いや、ふーんじゃなく  いてっ!」

鎖骨を思い切り噛まれた。これは痕が残りそうな気がする。肌のあちこちをそうやって噛んでいく。そしてやっぱり同じようにさらりと髪の毛が肌の上を滑る。もう我慢出来なくて、とうとう吹き出してしまった。

「っ、はははっ 止めて、本当に止めて」

「うるせえな」

「は、だって ふふ 無理。くすぐったい、」

「痛え、髪掴むな」

「じゃあ止めて」

「やだ」

「わ」

ぐるんと体がひっくり返された。そうしたら腕を掴まれてさっきと同じように、舌が肌を滑る。でも今度はさっきみたいに優しいものじゃなかった。やたらと性的な動き。背筋をねちっこく舐められて何かのスイッチが入る。止めろ止めないの問答で喚いていた直後だというのに、それが長時間前にしたやりとりのように感じられて、時間の感覚が曖昧になっていく。ぞわりと、肌が粟立つ。

「やっ」

反り返る背中から項を、ねちっこい動きでしつこく舐める。柔らかいそれが皮膚と触れるだけなのに、変な声が出そうになる。聞かれるのが嫌で手で押さえていたら、下腹部に花宮の指が触れた。やんわりと中を解すような動きに、こっちでも変な声が出そうになる。いつもはそんなことしないのに。

むず痒いような、くすぐったいような何ともいえない感触に体の芯が戦慄いた。変な感覚。ゆるゆるとした動きに、あれこれ考えようとしていた思考の巡りが鈍くなる。衣擦れの音、花宮の体温、顔にかかっている髪の匂い。勝手に研ぎ澄まされていく五感がありとあらゆる情報を私の中に蓄積していく。それなのに、どうしてそれに気がつかなかったのだろう。押し付けられた熱が、入り込んでくる。その質量に息を飲んだ。

「―ぁ、」

「っ 力、抜け」

「…っ!?」

体の筋肉が勝手に収縮した。一気に体の中を何かが駆け巡っていく。私は糸が切れたように肘を折って、ソファに沈み込んだ。覚束ない手つきで体勢をさっきと同じようにしながら、呼吸を整える。唐突な反応に呆然としているのは私自身だ。全身にまとわりつく気だるさ。まさか。そんな。

「入れただけでイくとか。ただの淫乱じゃねえか」

「ち、がう…っ」

「違うなら、その声どうにかしやがれ」

「う、るさ…っ あ、あっ」

ちりちりと焼けている。熱くはなくて、逆にひんやりとして冷たさすら感じる。それなのに、焼けているような。何をそう感じているのかはわからない。ただ、少しずつ正常な意識を保つのが難しくなって、体がいうことを利かなくなっていた。落ちる。滑り落ちてしまう。意識が、どこかにいってしまう。意味もなく怖くなって、腰を掴んでいる花宮の手を必死に握った。

「っ、悠?」

「や、やだ…っ」

ぐずりと中で蠢く感触が、体の感覚を支配した。それだけを享受して、それだけに専念しろと本能が追い立てる。一瞬で思考がパンクして視界が弾けた。

「っ… ああっ!」

「―っ!」

シーツを握り締めてやり過ごす。それでも体が痙攣しているみたいに震えてしまって、全身が脈打つ感覚に眩暈がした。大袈裟に息を吸い込んでも気休めにもならない。怒涛の勢いで押し寄せた快感に翻弄されていると、すぐ背後で切羽詰った声がした。

「あっぶね…、さっきからイき過ぎだろ…っ」

「し、知らない…っ 勝手に 、」

本音だった。花宮の触れるところ全てに過剰に反応してしまって息が詰まって四肢が震える。いつも以上に、敏感になっている。頭の中がぼんやりして、思考が飽和状態で。呼吸が意味を成していない。肺にまで酸素が行き届かないでそのまま出て行ってしまっている。それくらいに切迫していた。苦しい。

「悠、」

名前を呼ばれている。それは理解出来たけど反応が出来ない。失神したものだと思ったのか、花宮は頬を叩きながら私に話しかけた。

「…おい悠、意識あるなら聞け」

「っは  な、なに」

「呼べ」

「な、にを」

言わないとわからねえのか。不満げに眉を顰める様子を見て、ああなるほど、と合点がいった。

「は、なみや」

「そっちじゃねえ」

舌打ちをしながらそれを抜いて、体を引っ繰り返して、面と向かう体勢になったらまた勝手に入り込んでくる。体が反応したけど、その勝手な動きで少し冷静さが戻ってきた。私は都合の良い人形じゃないと言うと、萎えるから黙っていろと花宮は私の唇に噛み付いた。薄闇の部屋の中、視線がかち合う。呼べって、何をいきなり。困惑しているせいで、その場しのぎにもならない言葉が口から出た。

「… なんだっけ… 下の なまえ」

「とぼけるな」

知っている。知っているけど。私の思考を気取られるのが嫌で、視線を逸らしながら言ってやった。

「誰が、呼ぶか っての…」

「てめ」

「ん、あ」

「ならイかせねえからな」

辛いのはお前だぞ、と言う花宮は汗で額に張り付いた私の長い髪の毛を払った。

「………、」

「おい」

「“花宮”じゃ、駄目なの?」

「いい加減にしろ」

苛立たしいようで、更に眉間にぐぐっと深い皺が出来た。急かさないでよ、馬鹿。今更どんな顔して呼べば良いのか、よくわからない。花宮は、相変わらず不機嫌そうな顔で私を見下ろしている。面と向かって言えるとでも思っているのか。恥ずかしくて仕方なくて、それでも腹を括った。

花宮にしがみ付いて本当に、正真正銘、蚊の鳴くような消え入りそうな声で「真」と呼んだ。名前を発した瞬間、こいつ誰だっけと、目の前の花宮を「花宮」と認識出来なくなった。でもそれはほんの少しの間で、腹部に走った鈍い衝撃と快感にその思考と違和感は全て吹っ飛んだ。

「い、あっ!」

「煽って、どうすんだ」

全てがない交ぜになっていく。投げかけられる言葉も自然に発してしまう嬌声も、いつの間にか握っていた手の感触も溶けて一つになっていく。平衡感覚がない。ぐるりぐるりと視界が回る。見ているものがぼやけて白黒になっていく。記憶はそこで途切れていた。



境遇、対人関係、環境などの生活要因が完全に一致する人はいない。100人いれば100通りのパターンがあるだろう。交友関係が浅く広い人もいれば狭く深い人もいる。家族が不仲な人もいれば仲睦まじく一家団欒を楽しむ人もいる。今の生活を幸せという人もいれば不満で仕方ないという人もいるだろう。もちろんどの分類にも属さない人は一定数いる。

いくつも重なり影響しあう環境下で形成された人格は、直すことも矯正することも難しく一朝一夕ではいかない。思考や性格、観念や動機など物理的であれ精神的であれ、それらの十分不十分に関わらず、それら全てをひっくるめて、“貴方”は“貴方”たり得るのだ。

全く小難しい話だ。良いところも悪いところに関係なく一つにしたもの。それが人間という一個体。それが花宮真であり、掛川悠である。本で読んだのか、誰かに聞かされたのかは忘れてしまった。そして名前は“貴方”に与えられた特有の記号であり、その在り方表す言葉だ。故に人から名前を呼ばれるということは大きな意味を持つのだ。そんな話も聞いたような気がする。

息苦しくて、目が覚めた。背後から覆いかぶさるように抱きすくめられた状態で深く寝入っていたらしい。どうりで苦しいわけだ。起き上がる途中、腕の違和感で動きを止めた。後ろから回された右手が、私の左手首をしっかり掴んで離さない。せめて下着だけでも着たいと思ったのに。寝ているはずなのに、ビクともしない。

まさか起きているなんてことないよな、と振り返る。私を拘束している主は静かに寝息を立てていた。こうやって、寝顔を見るのは初めてだった。瞼はしっかり閉じられて、規則的に肩が上下に動く。深い寝息。熟睡しているみたいだった。人の気も知らないで呑気な奴。

「動けないじゃない、馬鹿」

掠れる声でそう呟いて、シーツに潜り込んだ。


改稿:20200506
初出:20121211
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