2人の世界 前
※花宮の過去捏造あり。苦手な方はご注意下さい。

「あら、そう」

返ってくる反応なんて、こんなものだった。

「忙しいの。後で聞くわ」

そう言って言葉を交わしたことが一度でもあったか。俺の存在は瑣末なものだった。優秀では手が掛かからずこれ幸いと相手にされず、かといって手を焼かせても“そういう年齢だから”とお咎めなし。非常に淡白で、子供に対して無関心な親だった。だから愛情なんざ知らない。我が子の成長を通じて得るようなものは何もない。そう言われているようにも感じた。母親の情熱は全て仕事に注がれた。

「おめでとう。また模試で1位だったな」

周りからどんなに高評価を受けようと、如何に羨望の眼差しを注がれようと、決して満たされることはなかった。常に胸の中心に穴が空いていた。バスケに打ち込んでいる時だってそれは変わらなかった。四六時中、飢餓感に苛まれていた。

渇望した。

何を?

何でも良い。この虚無感を埋めてくれるなら。何でも。

そんなもの誰がくれるっていうんだ?

自問自答した。けれども、答えは出るはずもなく。助けを求めるにしても、何をして欲しいのかすら分からない。解決する術も発する言葉もあやふやで、誰かに縋ろうと腕を伸ばしてはみたものの、結局その腕は空を切るだけだった。空洞が徐々に大きくなっていく感覚に押し潰されそうだった。出所のわからない恐怖に抗おうとした。

「試合終了!」

負かした相手が泣き崩れる姿を見ていると、気持ちの均衡が保てた。努力してきた連中が惨めに負ける姿を見ていると払拭出来た。安堵した。でもそれもはじめのうちだけだった。勿論こっちが負けることだってあった。だから相手を確実に潰す方法を考えた。

「汚い手を使いやがって」

汚い?何を言ってやがる。こういうのは、結果を出してこそ。お前たちは「負けたがベストを尽くした」「俺たちは頑張ったんだ」と互いに傷を舐め合うのか?気色悪いな。

いい子ちゃんばっかで虫唾が走る。

スポーツマンシップ?

チームメイトとの信頼?

心底うざってえ。

下らねえんだよ、そんなもん。

全部、なにもかも、ぶち壊したくなる。



“掛川悠”

定期試験や模試の度、大仰に貼り出される順位表に載っている名前が意味もなく目についた。はじめのうちは、10位以内をキープしていること以外は何も知らなかった。

「悠、また上位に入ってるじゃん」

背後から聞こえた名前に振り返った。掛川悠を見たのがその時が初めてだった。友人と話しているらしい黒髪の女子を見遣った。万人受けする優しげな表情、箱入り娘のお嬢様のような出で立ち。友人の賞賛の言葉を浴びつつも、粛々として謙虚に見えた。

「部活も忙しいのにすごくない?」

「全然。大したことないよ」

「ここまで成績良いなら受験も楽勝だよねえ。うらやましい」

表情が曇った。ついさっきまで楽しげに談笑していた友人の背中に冷たい視線を飛ばしている。蔑むような、馬鹿にするような、欝々とした目付き。それが垣間見えたのはほんの僅かで、瞬きの間に柔和な雰囲気に戻っていた。普段なら気にも留めないようなことが気になった。ふと視線を上げた先には、何故か掛川がいる。そんなことが何度かあった。進級して同じクラスになったら、益々目に留まるようになっていた。

「うるさいな。見逃してやるだけ有り難く思いなよ」

暑苦しい日の朝だった。電車内のトラブルに掛川が巻き込まれているのを見た。詰め寄る加害者男性の顔面を正確に捉えた突きを繰り出した後、突き飛ばすようにして電車を降りたその一部始終を。お高く止まっている掛川の予想だにしない一面だった。揺さぶってみるか。取り澄ました顔が青ざめる画面が目に浮かぶようだ。ちょっかいを出すだけだ。そう、何の気なしのただの暇潰し。

「アンタとは関わりたくない」

動揺もせず切り捨てる様を見て、興味深い奴だと思った。

「話しかけないで」

鋭く睨む姿を見て、対抗心が生まれた。壊れるまで弄んでやろうと思った。

「触るな」

弱みを見せて来た時、こんな素晴らしい契機を逃す手はない。惨い方法で虐げてやろうと思った。

「は、なみ や っ」

誰にも受け入れられることはなかった。それなのに。逸脱した行為を、どういうわけかあっさりと受け入れた。何度も。

「私が何を聞きたいか分かる?」

触れられたくない、自分の奥深くに仕舞い込んでいたそれに触れてきた。心底鬱陶しかった。

「単に知りたい。答えがどうであれ、否定しないしする気もない。ただ、返事が欲しいだけ」

その純粋な言葉に、気を許した。途端に口から出た“あとで教えてやる”の一言。それなのに怖かった。全部を話してしまったら、居なくなってしまう気がした。それを勘付かれるのも癪だった。いつものように有無を言わさぬ命令口調で、手放す気はないと言い放った。

「花宮」

氷のように冷たい手を握って思った。悠以外には有り得ない、と。



花宮はぽつりぽつりと話した。何の前置きもなく唐突に、いつものようにカップにコーヒーを注ぎながら。私とは正反対だと思った。過干渉ではなく、行き過ぎた放任。存在を主張しても反応が返ってこない。認められない。いないも同然のように扱われて、幼心の彼はどんなに辛かっただろうか。

「まるで豆腐にかすがい。今思えば一緒に暮らせたことが不思議なくらいだ」

何をしたって消えることのない辛さは心を蝕む。渇望するものを得られない苦しみを埋めるために、歪な手段を取らざるを得なかった。傍から見れば異常だとしても、そうすることでしか花宮は矜持を保てなかった。

「勝ち進んだところで、腹の内は変わらなかった」

程度の差であれ私も同じだった。故意か事故かの言及を抜きにしても、人に拳を叩きつけることで快感に近いものを得たのだから。思考を巡らせていると、抑揚のない花宮の声が響いた。

「子を気にするのは親の性分。あれは半分、自分の願望だったな」

強引に暴かれる前、花宮は言っていた。それと同時に「押しつけるのはただのエゴだ」とも。仮に花宮の母親の無関心が愛情故だったとしても、それは受け取る側に委ねられる。私がそうだった。愛情だと言って押し付けられたあれは、母親のエゴだった。息苦しくて、粘着質で不快極まりない。

人のためとのたまいながら実のところ、自分の都合の良いように仕立て上げたかっただけ。気に食わなければ痛罵し、思い通りに操れるようにと教育してきたつもりなのだろう。

「肯定も否定も何もない。向こうにしれみれば、ただ在るだけの生き物だったのかもな」

何が愛情だ。知るか、そんなもの。何度、自分の存在を否定してきたか。その苦しみを、親たちは知ろうともしない。

「………」

「下らねえ」

自嘲気味に呟く花宮は顔を上げずに言う。教えてやると言ったのはそっちだし何を落ち込んでいるんだ。今更気を遣って言葉をかけてやることもない。

「花宮。アンタの歪んだ理由がよく分かった」

「ふん」

棘のない返答に物足りなさを覚えながら、少しばかりぬるくなったコーヒーを飲んだ。

「下らないものに振り回されて頭を抱える。私たちの性分だよ」

他人の悩みなんて、問題にするだけの価値がない、取るに足らないもの。自分事でないのなら、どんな悲劇も不幸も同情や感動の材料になるだけ。その取るに足らないものの中で、足掻いている。花宮にとってのそれが私で、私にとってのそれが花宮だ。

「下らなくて、それで良いんじゃない」

弾かれたように視線を上げた花宮は前触れもなく動いて私に手を伸ばした。

「―っ!」

私の胸倉を掴んで、ソファの背もたれに押し付けるようにして迫った。気に障ることでも言ったかと思慮したが、下らないと先に口にしたのは花宮だ。私じゃない。背中にソファ、眼前には花宮。逃げ場はなく身動きが取れないのに、居心地の悪さはない。

「しばらくこうしてろ」

体温が近いが、顔は見えない。有無を言わせぬ口調だけが心持ちを表していた。

「はぁ?」

「良いから、このままでいろ」

痛めつけるわけでも首を絞めるわけでもない。判断がつかない花宮の行動に閉口した。まるで子供がわがままのように道理がない。口答えする代わりに、襟を掴む花宮の手に、自分のそれを重ねる。

「ねえ、手が邪魔なんだけど」

離せと言ったところで解放されるわけがないのは承知の上だ。とはいえ、威嚇には弱すぎで拘束には優しすぎるそれに暴力で応える気にはなれない。仰いで表情を窺った。

「は、酷い顔」

滅多にお目にかかれない顔を見て、意図せず笑った。私を小馬鹿にした顔、あざけ笑う表情、屈服させて満足げな瞳。どれにも似ない、名状し難い表情に口が緩んだままになる。愉快だ。

「そんな顔をするんだね、花宮」

「うるせえ」

がぶり、と音が聞こえそうな乱暴さで唇に噛みつかれた。痛みはない。柔らかい温度が触れた。これは許容、ないしは受け入れと言えるかも知れない。気を遣う必要がないから、本性を曝け出せる。理由はそれだけだ。仕返しに、触れている花宮の唇に優しく噛み付いた。


改稿:20200506
初出:20121211
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