障壁の向こう
花宮は、昼休みに本を読むというささやかな憩いのひと時をぶち壊すことにも長ける男だ。

「おい悠、来い」

「下の名前で呼ぶな」

人目を憚らず下の名前で呼ばれ反射的に拒絶した声が響いた。咄嗟に手で口を覆ったものの後の祭りだ。語気の強い掛川なんて見たことがない、物珍しいと周囲の奇異な視線に晒され、読みかけの本を手に逃げるように教室を飛び出した

「馴れ馴れしくするなって何度言えば…!」

「名前を呼んだだけで怒鳴るなんて情緒不安定にも程があるぜ」

「元はといえばアンタの所為だ」

「じゃあどう呼べばいい」

「今まで通り掛川でいいでしょ。何が不満なの」

「恋人を装ってるのに苗字で呼ぶのもおかしいだろ、なあ悠」

「言ったそばから呼ぶな!」

いつの間にか時間を共有することが増えた。金輪際話しかけるな。憎悪たっぷりの威嚇も今はまるで意味を成していない。少しばかり長い昼休み、教室の一角や天気の良い日は屋上でたむろするバスケ部の中に紛れ込むようになった私の名前を花宮は気安く呼ぶ。

一線を越えた。強引に組み敷かれて暴かれて、抵抗虚しく私はされるがままだった。踏みにじられたからにはただではおかない。一線を越えて来たことを後悔させてやる。この数日間で、苗字でなく下の名前で呼ぶようになった。それで何かを察したらしい原が妙な提案をした。

「ほー、なるほど。じゃあ俺も下の名前で呼んでくれていいよ」

「何て?」

なるほど、の意味が全くわからない。不機嫌を隠さず表情に出してもどこ吹く風でのらりくらりとふざけ続けている。

「かずくんって上目遣いで。はい。言ってみて」

「俺は弘でお願いします。ちょっと罵る感じで」

「誰が言うか。山崎は便乗するな」

揃いも揃って悪ふざけするもほどほどにして欲しい。馴れ馴れしく距離を詰めてきて好き勝手に振る舞われるのは好かない。ただただ、腹立たしいばかりだ。



バスケ部の面々に見せる以上に険しい表情だった。いや、他人様に見せられたものではない。睨んでくるし暴言は吐くし、近寄るな触るなの一点張り。

―然るべき方法で仕返ししてやる。後悔させてやる、泣いて詫びても許さない、絶対にお前を許さない―

一言一句に怒りが滲むような口上は最高に愉快だった。不撓不屈。何をされても決して負けず挫けず諦めず。声を押し殺して抵抗して歯向かって、吠えて喚いて噛み付いてくる。壊し甲斐があるじゃねえか。これだから手を伸ばすのを止められない。俺の視線に気が付いた悠が憎らしげに目つき鋭くこちらを睨む。

「何。笑ってるの薄気味悪いんだけど」

「別に」

「見つめあってる写真撮ってインスタにアップしていい?」

「原、今すぐそこの窓から飛び降りて」

「え、死んじゃうよ」

「願ったり叶ったりだわ」

手中におさめきるには少し遠く決定打に欠ける。まだ、不完全だ。


改稿:20200506
初出:20120906
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