嘘の物語を紡ぐ
厳しかった残暑も落ち着き始めてしばらく経つ。10月半ばの教室内は、定期試験に向けて勉強ムード一色だった。英語のノート見せてだの、プリントコピーさせてだの会話が飛び交う。分からないところを放置しておくのは忍びないと、ノートやプリントにハイエナの如く群がる低能な輩を相手に笑顔で対応する。
日頃からきちんと授業を受けていれば試験間近になって慌てることもないだろうに。後先考えずにいるクラスメイト達を見ていると呆れるばかりだ。全く、自分の不始末くらい自分で対処してくれないものか。
「残り10分」
試験官の声が静かな教室に我に返った。既に空欄のない答案用紙を再度見返しながらここ一週間のことを思い出す。案の定、馬鹿で頭のネジが緩い奴らばかりがひっきりなしに声をかけてきてろくに本も読めなった。
本鈴が鳴ると同時に、シャーペンを置く音や溜息が教室のあちらこちらから聞こえる。教諭が生徒の机の隙間を縫うよう歩きながら答案用紙を回収していく。席の列毎に後ろから順に回収させれば効率良いんじゃないの、と思いつつ欠伸を噛み殺す。今日を終えれば残すは2教科。部活も休みだからさっさと帰って適当に勉強しようと席を立った。
「…あ」
視界に入ってきた白くて小さな靄にうんざりする。これだから眼鏡は嫌いだ。すぐ汚れるし何より邪魔だから。たまたま目の調子が芳しくなかったのだが、よりによって試験当日になるから周りからは「勉強しすぎてコンタクト入らなかったんだ」とか「優等生は違うなあ」と言われたわけで。それが心底気に食わない。お前らそれ以上適当なことを言うな、と心中で悪態つきながら適当に相槌をうってうた。
「掛川」
俯いて眼鏡を拭いていると、ふいに誰かに声をかけられる。相手を見たけど視力が悪すぎるせいで視界がぼやける。目の前に立つのが誰なのか全く判別がつかない。ようやく眼鏡をかけて顔を上げると、眼前には目障りで極力接触を避けたいと思っていた男が立っている。
「花宮。…用がないなら消えて」
「殴るぞてめえ。呼んでるぜ」
「誰が」
「いや、名前は知らねえ」
「え?」
花宮の視線の先はドアの外。部活の後輩かと考えたけど、明日まで休みだからその可能性は低い。じゃあ一体誰なのか。訝しく思いながらも誰かを待たせている。仕方なしに、教室を出た。
*
品行方正。清廉恪勤。ここら辺の言葉がよく似合う、箱入り娘のお嬢様とばかり思っていた。とにかく色んな奴と仲が良い。誰とでも楽しそうに話して、悪い噂は一切なくそれでいて成績優秀。絵に描いたような優等生がそのまま歩いているような、完璧で隙のない人間。
でも、よく見りゃただの勘違いだった。遊びが学生の本分にすり替わっている奴にも大人しい奴にも気難しい先公にも、上手くベクトル合わせている。恐ろしいほどに空気を読んで、相手の欲しがる答えをいち早く導き出して、疑う余地もないほど優等生を演じている。
よくもまあ、相手に合わせてホイホイとシフトチェンジ出来るものだ。暇だったし、新しい手慰みが欲しかったのもあったし、声をかけたのはただの興味だった。あれは八方美人で、ちょっとつつけばボロが出ると思っていた。
「だから、何?」
眦を裂きそうなほど怒りを露にしながらも、静かに言う。
「アイツをどうしようと私の勝手でしょ」
万人受けする優しげな瞳は見る影もない。ただ目元を鋭くさせてこっちを睨み上げる。
「あんな屑に時間を割くのは勿体無ないとは思わない?」
昨日のバラエティ番組面白かったね、と友達と話すような口調で、すっぱりと切り捨てた。お前の言っていることは私の中では取るに足らないものだ、と態度で示して言う。
「アンタとは関わりたくない。金輪際、話しかけないで」
ハッキリと突き返された拒絶の言葉。この反応が返ってきたのは予想以上だった。穏やかでルールに従順そうな顔からは想像もつかないほど、腹の中で悪意を渦巻かせている。
ちょっとやそっとじゃねえ、とことんまで楽しめそうなのが目の前に転がっている。喉から手が出るほど欲しい。何をしても手中に収めたい。壊れるまで遊んでやる。誰にも邪魔させねえ。だからよ、てめえは俺の玩具に手を出してるんじゃねえよ。
*
私を呼び出したのは誤解を恐れずに言えば猿だ。三度の飯より女遊びが好きな猿。こういう輩は地頭が良いのでそこそこ成績は残せているらしい。しかしその地頭は肉欲に勝てない場合が往々にしてある。どこそこの有名女子高校で彼女を拵えたと噂されると同時に、二股が露見して身が危ぶまれるので県を跨いで逃げているとも聞こえてくる男である。
「お試し期間ってことでどうかな」
交際しよう、と申し込む言葉は綺麗ではなかった。下卑た下心が透いて見える態度にも嫌気がさす。以前から何度か会話を交わして噂に違わぬ尻軽男であることは知っていたものの、それが私に興味を示すとはどういった風の吹き回しなのか。そこは理解に苦しむ。
「申し出は有り難いけど、私…」
「掛川さん、毎日クラスの人と楽しそうにしてるの見て可愛いなって思ってさ」
アンタとはクラス違うんだけどなあ、と相手の言い分に脳内で反論を繰り出す。やんわりと断るものの馬の耳に念仏だ。いや、そういった次元ではない。頭の中に蛆虫でも飼っているのでは、と勘繰ってしまうほどに会話が成り立たない。
「それに、彼氏いないでしょ?」
「いようがいまいが辞退したいのだけど」
今もし社会人であればその言葉をセクハラの証拠として人権ホットラインに通報し懲戒処分を望むところであるが、私は高校生だ。目の前の猿を退学処分に追い込む方法は、と考えるがどうも嫌悪感が先立ってまともに思考が出来ない。
「遠慮しないでよ。一人なんて寂しいだろうし?」
無駄に自己評価が高い人間というのは現実が見えていない。お前は、自分が私と付き合うにふさわしい人間だとでも思っているのか。腹の奥深くでマグマの如く、怒りが重く熱を持つ。少なくともお前の手を取ってやるつもりは毛頭ないし未来永劫有り得ない。嫌悪感が更に増幅する。
この場から逃げ出すために演技をしようか。優等生という外面を利用してこの猿に迫られた恐怖から、横っ面を引っ叩いて逃げ出してしまおう。これも一つの手段かも知れない。いや、閉鎖された学校では暴力沙汰は確実に保護者の耳に入る。ああ、どうしたものか。
「しつけえな」
第三者の声が自分たちに投げかけられたものだと気がついて、振り返る。花宮だ。機嫌の悪さを隠しもせず棘のある言い方をした。お前は馬鹿なのか猿野郎、と。
「丁寧に断るのは満更でもない証拠とでも思ってるのか。勘違いも甚だしいな」
つかつかとこっちに歩いてきたと思ったら、花宮は私の肩に手を回してぐっと引き寄せた。自然と体が密着する。離れろと拒否するより早く、花宮の口からとんでもない言葉が飛び出した。
「見て分かる通り、俺らこういう関係だから」
こういう関係。予想だにしない言葉の意味を理解するのに時間を要した。その間を肯定と受け取った男は舌打ちを去り際に「つまんねえ」と捨て台詞を吐いて立ち去った。つまんねえのはこっちの方だとぶつけどころのない怒りを腹に抱えたまま、肩に置かれた花宮の手を払い一瞥した。
「どういうつもり」
「何が」
「変な噂たったらどうしてくれるの。迷惑なんだけど」
「虫が寄り付かなくなるとは考えねえのか」
「虫?」
「小蝿って一匹でも目障りだろ。何匹もいたら尚のこと。俺も迷惑してるんだよな」
尻軽女に付きまとわれることがあるのだ、と聞いてもいないのにべらべら喋ったのち花宮は言った。
「害虫駆除はいっぺんにやった方が効率的だろ?」
先ほどのような会話の成立しない輩がいるのは鬱陶しい。それは誰であれ同じだ。極力避けていたいと思っていた人物である花宮も例に漏れない。そして駆除は一度にした方が効率的である。それは認めよう。
「目障りなのは同意する」
「なら利害一致じゃねえか」
「待って」
話の流れでもそれはおかしい。いくら助けられたからって、どうして私がアンタと付き合わないといけないんだ。花宮は、呆然とする私を見て口角を上げて笑った。
「真に受けるな。装えばいいだけだ」
「私が言ったこと忘れた?金輪際話しかけるなって言ったでしょ」
「覚えてるぜ。お前は害虫が寄って来る方がいいのか?」
「いいわけあるか」
必要最低限だ、それ以上は干渉もしないし踏み込みもしない。慣れ合いもなし。付き合っているという名目だけで、中身は伴う必要は一切ない。そう自分に言い聞かせて事態を承諾した。
改稿:20200506
初出:20120906