可愛い人

※継子夢主

疲れた体を引きずるようにして戻った岩柱邸には人の気配がなかった。

「あれ、誰もいない」

玄関口に人がいないだけだろうと、一通りの汚れを落として屋敷に入ったが歩いていても誰ともすれ違わない。岩柱である悲鳴嶼が不在にすることはままあるが、隠の者たちが全員出払ってしまうことは稀だ。途中の廊下で猫が名前の前をそっと音もなく通り過ぎただけで、他にすれ違う者はいない。珍しいなと訝しみつつ、乾いた喉を潤そうとし炊事場に足を向けた。

「それは本当?」

「勿論。私だけが見たんじゃないんです。他の隠も見たことがあるんです」

炊事場近くまで来てようやく人がいることに気がついた。中で二人の隠が話している。

「そんなことが……本当に意外です」

「でしょう?」

「岩柱様に可愛らしいところが」

「ふふ、見た目によらないとはまさしくことのことです」

「悲鳴嶼さんがなんと?」

「あっっ! 継子様!?」

「はわわわわ」

自分ら以外に誰もいないだろうと思っていた隠たちは名前の声にひどく驚き、一人は狼狽しながら弁明し、もう一人は腰を抜かしてろくに口も聞けない。

「あ、あのこれはその、無駄口を叩いて申し訳ありません。すぐ仕事に戻りますのでどうかご容赦を」

「ご、ごめんなさいすみません申し訳ありませんでした」

「そんなに驚かなくても……。無駄口だなんて一言も言ってませんよ」

名前にしてみれば師範である悲鳴嶼が話題の種であったので何気なく声をかけただけだったが、隠たちにとってはそうではない。よもや怒られるのでは、と怯えの色を滲ませる隠に名前は尋ねる。

「今しがた稽古から戻ってきたところなのですが、悲鳴嶼さんはいずこにおられますか」

「ちゅ、柱合会議のため、お館様のお屋敷に向かわれました」

「ちょうど半刻ほど前でございます」

「それならしばらくは戻らないですね」

聞きたいことがあったのに、と残念に思いつつも岩柱の立場ある人間なのだから多忙なのは必然だと思い直す。一休みして腹ごしらえしてまた稽古に励まもうと考えていると、二人の隠はおずおずと名前に声をかける。

「あのう、継子様」

「はい」

「先ほどの会話は、その、聞かなかったことにしていただけませんか」

「はい?」

「いえ、聞かなかったことにするというか、継子様の心の内に留めていただけたら……」

悲鳴嶼の悪口を言おうものなら聞いたそばから咎めるところだが、二人は何やら楽しげに話していた。悪意を一切感じなかったから名前は不思議に感じた。理由を問おうかと考えたが、気まずそうに照れくさそうに、どうかお願いします、と頼み込まれては名前も断れないし断る理由もない。

「ええ、構いません」

名前の返答を聞いたあと、居心地の悪さから隠たちはそそくさと立ち去った。炊事場で一人水を飲みながら名前は延々と考える。二つ返事で承諾したものの、どうも腑に落ちない会話の内容は頭の中にずっと残り続けた。

「……悲鳴嶼さんが可愛い?」

名前は首を傾げた。

悲鳴嶼は名前の命の恩人である。

名前がまだ鬼殺隊の一員ではなかった頃。傷だらけになりながら鬼と闘っていた名前のもとに駆けつけ、瞬く間もなく鬼の首を切り落とした。素人目で見ても、悲鳴嶼は圧倒的に強かった。大きな斧を振りかざす腕は太く、鬼から名前を遮る背中は広い。盲目だということを知って、名前は心底驚き且つ尊敬したものだった。

「はて、可愛いとは?」

悲鳴嶼が任務で鬼を討伐しに行くのを見て不安に思うことはほとんどない。必ず鬼を倒して帰ってくる。そう確信すら覚える強い人間だ。とても頼り甲斐のある方に師事できて身に余る光栄だと思っていた。悲鳴嶼は生真面目な性質であるのは一目瞭然だし、体格は筋骨隆々の立派な成人男性である。名前の知る悲鳴嶼という男の中に「可愛い」という形容詞が当てはまる要素は一つとしてない。

「わからない。隠たちは悲鳴嶼さんのどこを可愛いと思ったんだろう」

しばし頭を抱えたが答えは出ず、稽古に戻ろうと気を取り直して岩柱邸を出た。



いつからなのか名前には判別がつかないが、岩柱邸には猫が数匹住み着いている。母猫の他に子猫が三匹。もう足腰がしっかりしている月齢らしく、飛び跳ねて戯れあっているのをよく見かける。あまり好かれていないのか、はたまた信頼に足ると認識されていないのか名前と猫が触れ合う機会はあまりない。

正直言うと、猫と戯れたい気持ちはある。洗濯物を畳みながらふわふわの毛並みを想像したり喉を鳴らす音を間近で聴けたら、と思うと無性に構いたくなってくる。しかし稽古などで時間があまりない。継子として怠けるわけにはいかない。
次の仕事の段取りを思い出しつつ畳んだ大量の手拭いを手に歩いていると、悲鳴嶼が中庭にいるのが視界に入った。

「師範が昼時に屋敷にいるのは珍しいなあ」

目当ての部屋へは別の廊下を行っても辿り着ける。何の気なしに中庭の方へ足を伸ばす。まじまじと見るのは良心が許さず、なんとなく通りかかって見かけた体を装おうと考えた。何をしているんだろう、と横目でチラリと盗み見る。

地面に寝転がる母猫を撫でている悲鳴嶼の背中を、子猫がよじ登っていく。悲鳴嶼は好きにさせたまま静かに母親を撫で続けている。

珍しく微笑ましい様子に釘つけのまま歩いていると、強かに額を柱の角に打ち付けた。

「痛っっ!」

叫び声に近い呻きと転んだ音に気がついた悲鳴嶼が振り返った。

「名前、どうした。何かあったか」

「い、ひぃ……」

不意の痛みに名前は返事がままならない。悲鳴嶼は音だけで名前がすっ転んだのを察して子猫を背中から下ろし、辺りに手拭いが散乱しているのをものともせず歩いてきて痛みに唸る名前を抱き起こした。

「す、すみません……よそ見しててそこの柱に頭をぶつけました……」

「傷はないか」

「多分、ないと思います……」

「どれ」

ぬ、と悲鳴嶼の大きな手が顔の前に差し出されて優しく障りのないように額の辺りをさする。

「切れている様子はないな」

「湿布でも貼っておきます……イテテ……」

ズキズキと疼く痛みと目の当たりにした光景に混乱しながらも、手伝おうとする悲鳴嶼の申し出と気遣いを辞し、ようやく手拭いを拾い集めてその場を後にした。

ふらりふらりと足取りが覚束ない名前はうわ言のように呟いた。

「え……今のなんだったんだ……?」

背中をよじ登る子猫。子猫の好きにさせている悲鳴嶼。猫が好きだとは知っていたがあんなに懐かれているとは思いもしなかった。えも言われぬ感覚から茫然自失寸前になりながらもノロノロと手拭いをしまう。他の仕事に取り掛かろうと部屋を出たところで鉢合わせた隠は名前の顔を見るなり目を剥いて声を上げた。

「継子様、額はどうなさったんです!」

「ええ……?」

隠にいたく心配されて自分の額は思うより酷い状態らしいことに気がついた。撫でればぶつけたところは大きく膨れ上がり、ヒリヒリしている上に相変わらず疼きが止まらない。

「……柱の角にぶつけました」

「な、なぜ!? ひとまず手当てをしましょう!」

気持ちの整理がつかないまま手当をされ大仰に包帯を巻かれたが名前は気がつかない。自分が見たものを消化しきれず悶々としている。

夕食の時間帯になってもそれは変わらない。いつのもように名前の前には悲鳴嶼が座しているが、人間が膳を前にしていようが何をしていていようが猫たちは自由に振る舞う。特に今日はそれが顕著で、母猫は悲鳴嶼の腿辺りに体を寄せて熟睡しているし、子猫のうち一匹はひどく活発で昼間と同様に悲鳴嶼の体をよじ登る。そんな子猫を大きく分厚い手で優しく包み込んで床に放してあげた。所作に粗雑さがないのはいつもと変わりないが、名前は「はて、こんな風だったかな」と首を傾げた。

おかしい。

名前は違和感を覚えた。悲鳴嶼の所作はいつもと変わらないはずなのに何もかも違って見えてくる。
専用の湯呑みは名前が使うものの倍くらいありそうな大きさで、その湯呑みの底を左手で支えながら右手を添えている。

――この人、湯呑みを両手で持ってたっけ?

懲りもせず悲鳴嶼の体を登る子猫をそっと捕まえて放す。構え構えとじゃれつく子猫の頭をそっと撫でて落ち着かせる。
悲鳴嶼の継子になって岩柱邸で暮らすようになって半年経つが、なぜ気がつかなかったのか。たった今さっき気がついた光景は、思い返せば常に見ていた。もしかしなくても自分の目は節穴なのか、と疑うほどに。所作全てを見逃してはならない気持ちになってくる。

修行や稽古をつけてくれる中で悲鳴嶼を頼もしいとは思えど、こんな感情を持つことはなかった。無意識に湧き上がった気持ちが口をついて出た。

「……可愛い人だなぁ……」

こぼした独り言はその場にいた者全員の耳に届いた。

「……ん?」

「え?」

隠が明らかに動揺しているのを見て名前は自分の口を覆った。

しかし口から出た言葉は戻らない。誤魔化すしかない。誤魔化せるのか。白を切るしかない。しかし何と言えばいいのか、この場の気まずさを中和する言葉が出てこない。悲鳴嶼の足元で寝息を立てている母猫を見遣った。

「……猫、可愛いですよね……」

「ああ、そうだな」

己の失言に気がつき必死に誤魔化そうとしたがもう後の祭りで、もうどうしようもない。ああ、居た堪れない。名前はどうしようもない居心地の悪さからじわりじわりと変な汗をかき、好物を出されたにも関わらず味がわからず仕舞いで食事を終えた。


所謂ギャップ萌えを初体験、しかもそれを本人の前でうっかり吐露してしまううっかりをする名前でした。悲鳴嶼夢というより隠が出張ってますね。ごめんなさい。リクエストありがとうございました!
20240421

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