絆されてしまった絆されてしまった
行冥の驚きようといったら。稽古をつけて以降初めて見る顔だったかもしれない。
「し、師匠、手にしているのは……」
「君の好きなものだな」
私の手の中にいる小さな猫が身じろいだ。
*
朝食の席でも、話題の中心は猫だ。
「遅いのでどうかされたのかと心配していました」
「連絡せずすまなかったな」
任務明けに、岩柱邸への道を歩いていたら草むらから猫がよたよたと歩み出てきた。私の足元で座り込んでじっと目を閉じ動かなくなってしまった。なので仕方なく連れて帰ってきたのだと事の次第を説明すると、ますます驚きの色を強めた。食事の給仕のため近くにいる隠まで目を丸くしている。
「師匠は猫が嫌いだとばかり……」
「ああ、好かなかったよ」
「ならば何故」
そもそもだ。行冥が猫を連れてきたのが全ての始まりだったとも言える。ある日突然、薄汚れた子猫を大事そうに抱えて帰ってきたのだ。一匹くらいなら構わないだろうと許していたら、知らぬ間に二匹、三匹と増えていった。甲斐甲斐しく世話するのを見ていたら「捨てて来い」などと言えるはずもなく(そんな非常識なことを言うつもりは更々ないのだが)、現状を受け入れ認めざるを得ない。気がつけば岩柱邸のあちこちに猫がいるようになってしまった。
「そいつを拾ったのはただの偶然だ」
「偶然……」
「親猫らしき猫は現れなくてな。放っておけずに連れ帰ったんだ」
「そうでしたか」
「普段なら放っておくところだ。あまり元気がなく心配になったのでしばらく様子を見ていたんだが」
そう言うとまた行冥は驚いたように息を飲んだ。まるで私が他者を気遣うのが不思議で不可解だと言わんばかりの反応だ。
「親猫がいれば絶対に拾って来なかったよ。小一時間ほど探したが見当たらなくてな。なにも食べていなかったようだし仕方なく保護したんだ」
「そんなに長い時間探したのですか」
「あ、ああ……まあ、そうだな」
「……」
「なんだその顔は」
「すみません、意外に思いまして」
「失礼な奴だな」
「いいえ名前さん。あなた、悲鳴嶼様の稽古では全く気遣いがないんです。彼のその反応は妥当です」
「うるさいぞ」
隠が即座に行冥の味方をして助け船を出す。気遣いなどしていたら稽古の意味がないだろうに。行冥の膝の上にはついさっき連れてきた猫がいる。たらふく飯を食べて元気になったのか自分の尻尾にじゃれついている。小さく頼りない無邪気な動きというのは予想がつかない。煙管を咥えながらも、その奇妙な行動から目が離せない。
「これで放っておいて何かあったら私のせいになるしな」
「師匠」
「動物は好かん。だが死にかけているのを見過ごすのとはまだ話が別だからな」
「名前師匠」
「なんだ」
「一服するのは、その、煙が猫にはよくありません」
「……そうだったな」
手にしていた煙管を戻し、誤魔化すように茶を飲んだ。障子の紙を破くわ、着物に毛がつくわ、壁は引っ掻き傷だらけになるわ、机の上に居座るせいで仕事が滞るわ、鳴き声がうるさいわで正直いいことがない。行冥が猫を連れ帰ったとき、まさかこんなことになるとは考えもしなかった。挙句、喫煙の場まで配慮しなければならないとは。
「行冥、猫は好きか」
「はい、とても」
「そうか」
弟子が好いているなら仕方あるまい。それに、部屋のあちらこちらを我が物顔で歩き回る猫を追い出すのも心が痛む。徐に猫が私の膝の上で寝転びだした。その猫を抱えたところを見た行冥は静かに大粒の涙を流す。
「どうして泣く」
「師匠が猫を抱いているので……」
なんて涙腺の緩い男だ。腕の中の柔らかく温かいものを見て、猫も存外悪いものではない、と思い直すことにした。
20230504
師匠は、反対してたけど飼い始めたら甘くなるタイプの人。