鈍重では困るのだ
修行から帰ってきた行冥は玄関先で立ち竦んだ。あるはずものがなく、ないはずのものがある。把握していた岩柱邸の間取りとは違っていた。
「これは…困った…」
「困ったじゃないだろ。そのまま立ち尽くしているつもりか」
「師匠…」
壁があるから音は反響する。それで物の場所や空間を把握できる。屋敷の中で手間取るようなら外に出て戦えない。相手は鬼狩りを殺そうとする鬼だ。
「自分の勘を頼りにしろ。恐る恐る動くのはなしだ。これだと思ったらその通りに動け」
「しかしぶつかってしまっては…」
「痛いのは仕方ないから慣れろ。家具を壊すのは直せばいいから気にするな。が、二回目はないから用心して動けよ」
誤った判断は命取りになる。早い段階からそれを体に染み込ませるために柊子が考えた案だ。
「用心しながら思い切り動け、などと難しいことを仰る」
「手の内が分からない鬼が相手だぞ。用心せず尻込みしてばかりで首が斬れると思うか?」
子供を守るために必死だったときはどう動いたか。思い切り拳を振り下ろしていたはずだ。一切の容赦も加減もなく、守るために。臆していたら殺される。
行冥は首を横に振った。
「わかればいい。あと、罠は一つだけじゃないからな。常に気配を探れ。休む時間はほとんどないと思えよ」
玄関を上がって直ぐ、行冥の膝丈ほどの置物が鎮座していた。これも柊子が仕掛けた“罠”で行冥の視覚以外の感覚を鋭敏にするためのものだ。
異物の存在を繊細に感じ取らねば屋敷中を物にぶつかりながら歩くことになる。
「些か難易度が高い…」
修行を開始して日が浅いうちは就寝中や入浴中、食事中は気の休まる時間になっていたが今は起きていようが寝ていようが関係ない。
張られた絹糸に足を引っ掛けると頭上からたらいが降ってきて朝からずぶ濡れになるわ、寝ようと布団に入ったら畳が抜けて床下に落ちるわでえらい目にあってばかりいる。
更には寝ていても全集中の呼吸をやれと言いつけられた。日中休みなく続く修行で体は疲れ果てているのにどうこなせと言うのだろうか。
明け方、任務から戻った柊子に「最早自分は手一杯だ」と行冥は力なく訴えた。
「さすがに寝ている時まで全集中の呼吸をするのは難しいのですが…」
「そりゃいきなりできるようにはならないだろ。一分続けるためにまず一秒できるようにしろ。今の君は赤子同然なんだ」
「赤子」
「歩くために掴まり立ちができるようになるのと同じだ。常中をこなすためにはまず一分でも長く続けさせるのが大前提だろ」
“全集中・常中”は鬼を狩る上での基本である。千里の道も一歩からだろ、と言う柊子自身も睡眠中に常中をこなしている。
「何も考えなくてもできるようにするんだよ。こればかりは慣れだ。毎日続けるしかない」
「なんとも気の遠くなるような作業だ…」
「だからこそだよ。習得すれば飛躍的に身体能力が上がる」
できないと零すと、それを耳敏く拾い柊子は程よく口を挟んだ。口調は素っ気ないし無茶苦茶を言う時もあるが、なんだかんだで世話を焼く。
行冥は柊子に対して面倒見がいい人という印象を持った。
「師匠はいつから修行されているのです」
「十七」
「既に六年も修行をされてい」
「おい行冥。呼吸が疎かになってる。話す時でも気を緩めるな。隙だらけだぞ」
「痛ぅ…っ」
会得するための糸口はないかと、会話から読み取ろうとする行冥に向かってビシビシと連続で銅貨が飛んでくる。三枚目はどうにか手で弾いて直撃は免れたが、額に当たった一撃がひどく痛い。
「生活の全てが修行と言っただろ。気を抜くな」
「すみません…」
「分かったら修行場に早く行け」
額を摩りながら肩を落とす。やれと言われたことができていないと行冥は思っているが、柊子は別だった。かなりの速さで順応して成長している、と手応えを感じ始めている。
仕掛けた罠は当たっても痛くないものばかりだったがここ数日は釘やら金槌やらが降って来て危険極まりない。「罠は鬼の攻撃だと思え」と柊子に言われたことを素直に守りそれを避けようと必死だ。
その成果もあってか数日の間に銅貨を弾けるようになったし、仕掛けた罠も徐々に避けられるようになってきている。
「幸先は悪くない、か」
*
「継子の様子はどうだ、常磐」
柱合会議のあと、柊子に声をかけたのは炎柱・煉獄槇寿郎だった。岩柱になって四年が経つ柊子よりも長く槇寿郎は柱として鬼を狩っている。
「体格に恵まれているお陰で順調です。まだまだですが」
「相変わらず手厳しいな。あの修行をこなしているのだろう?」
「まだこなしているとは言えませんよ。どうにかやれてるだけです。岩はほとんど動いていませんから」
槇寿郎は腕を組んで感嘆の声を漏らす。
「ああ…あの岩運びか。聞いたときは壮絶さに耳を疑った」
「私も初見は驚きましたが受け継がれている方法ですし、呼吸会得には最適です」
「やり遂げている常磐が言うと説得力があるな。しかし、少女だった君が今や柱として鬼殺隊を支えている…感慨深いな」
どこか懐かしむような槇寿郎の口調に柊子は苦笑いを浮かべる。
「その節はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした…。槇寿郎さんの手を焼かせてばかりで」
「何を言う。あんな目に遭えば誰だってああなる。それでも君が刀をとり、鬼を狩る選択をしたこと、俺は勇敢だと思う」
「守られてばかり、怯えてばかりの毎日は飽きましたから。泣いて暮らすのはもう懲り懲りです。それに鬼を放っておけば私と同じような人が増えます」
全てを失う元凶となったのは鬼だ。鬼がいなければこんな悲愴な気持ちにならずにいられたのに。ふつふつと湧き上がった怒りに後押しされて柊子は鬼殺隊に入った。
「君は強いな」
「いいえ。ただ…人は悲しみの中で溺れ続けることはできない。それだけです」
終わりのない悲しみや後悔に苛まれるのは限度がある。悔やんでも恨んでも大切なものは返ってこないのだから、辛くても立ち上がらなければいけない。鬼に刃を向けるために。
「私の継子も、直にそれを理解すると思います。それまでは修行でしごいて鍛えてやりますよ」
「容赦がないな。しかし…そうでなければ鬼との戦いでは生き残れまい」
「ええ。その通りです」
鬼は容赦ないし加減もしない。我が物顔で平穏な生活を根こそぎ奪い取っていく。それをどうして許せようか。これ以上奪われるよりも前に討たなければ。脅かされる人々を助けなければ。その一心で日々鬼を狩っているのだ。
槇寿郎と別れた足で柊子は岩柱邸の近くにある修行場へ赴いた。行冥は言いつけ通りに黙々と修行を進めている。遠くからその様子を見て柊子は唸った。
行冥の体格に恵まれている。故に欠点がある。
「遅いんだよな、動きが」
巨躯故の、圧倒的な力を持つがために持ち得ないもの。速度だ。男と女。柱と継子。身体機能。それらを差し引いても素早さなら柊子に軍配が上がる。
一朝一夕ではいかない。速さは後からついてくる。まずは基礎体力の向上だ。
20201118