脱・生ける屍
セクハラパワハラモラハラが日常茶飯事の職場で精神が完全に摩耗して冷静な判断ができなかった。お客さんや営業担当の無理難題に答え業務をこなす日々。昼夜問わず電話が鳴り響く。仕事しながら食事をし、食事をしながら仕事をする。生活の中心が仕事であり、プライベートの時間も全て仕事に費やすことを強いられていた。上司の説教や先輩の無茶振りに後輩の尻拭い。定時からが本番です? 終電間に合わないのが普通? 家は仮眠するために帰る? 異常な環境でこんなに追い込まれるたらまともに思考か働くわけがない。毎日毎日神経と体力を擦り減らして仕事をして、一本ずつ我慢の糸が弾け切れて、とうとう最後の一本が切れた。
「死ねば仕事しなくて済むじゃん」
その考えに取り憑かれた私は会社を後にした。デスクを離れる前に上司がめちゃめちゃ文句言ってたけど無視をした。ふらりふらりと死地を求めて街を彷徨う。
電車に飛び込むのは家族にも通勤してる人にも迷惑かかるからやめよう。飛び降り自殺は失敗することも多々あるらしい。却下。首吊りは縄を準備するのと場所を選ぶ手間がかかる。却下。頸動脈を切るのは痛いだろうし後始末をする人に申し訳ないので却下。こう……痛くない方法ってないかな……。
「そうだ。睡眠薬いっぱい飲めばいいじゃん」
薬局で買えるかな。ないならハシゴして買えばいっか。死に対する貪欲なまでの欲求がふつりふつりと湧いて出てくる。娯楽を受け付けなくなり、食事を摂るのも億劫になり、ただ息をして時間になったら地獄へ赴くために電車を乗り継ぐだけの肉だった私が生き生きとしている。死ぬために生き生きしているなんて矛盾もいいところだけどこの地獄みたいな状態から逃げられるならそれでいい。
「ん」
ポケットに入れていたスマホが震えた。着信。相手は上司だ。立て続けに三回電話が来たけど全部無視してやった。
「もう放っておいてよ」
死ぬ間際まで上司に叱られてないといけないのかあ。なんなら死ぬ前に折り返しして文句の一つでも言ってやろうか。まあどうせあの声を聞いたら萎縮して「すみません」しか言えなくなるんだけど。携帯をポケットに仕舞い込んで顔を上げたらすぐそばに看板があった。
"佐賀事変ライブ!"
"チェキ会もあるよ!"
可愛い文字で書かれたそんなキャッチが目に留まった。どんなグループのライブだろう。東京の方に事変って単語がつくバンドがいたっけなぁ、ともう一度看板を見る。
「フランシュシュ……」
可愛らしい名前のグループだ。その文字をじっと眺めて気がついたら当日券を買っていた。あれ、なにしてんだろ私。死ぬんじゃなかったのかよ。ま、ライブ終わったら薬買えばいいや。最期に楽しむくらい許して欲しい。娯楽に触れようと思ったのはいつ以来だろう。ドラマを追うことを諦め本を読む気力は削がれアニメを見る余裕もなくなり、気がつけば寝ることが唯一の娯楽と言えるまでに堕ちていたように思う。
「ライブずっと楽しみだったんだあ」
「3号ちゃんがばい可愛かあ」
「ヨミガエレ聴くと今日も頑張るかってなりよる」
「わかる〜」
雑談で盛り上がる周りの人の声がする。楽しむと言ったけどメンバーはおろか曲も知らないグループのライブにいていいんだろうか。私、場違いじゃないかな。挙動不審になりかけてたら、薄暗かったライブハウス全体の灯りがパッと消えた。と同時に周りから歓声が湧いてステージにスポットライトが当たった。
「あ」
すらりと長身の女性がセンターにいる。一人だけ服が違う。着物ドレスというか、和洋折衷って言えばいいのか、綺麗な衣装を着ている。深い赤が目を引く。見惚れていたら三味線の音が鳴った。雰囲気が変わる、なんてもんじゃなかったと思う。世界が一変した。ライブハウスにいるはずなのに風が吹いて匂いがした。佐賀の町で暮らした人の景色が見える。その景色の中にいる人を、この人は待っている。いつから待ってるんだろう。決して会えないとわかっているのに。気がついたらボロボロ泣きながら曲を聞いていた。フランシュシュのこともこの女性のこともこの曲にまつわる話も知らない。それなのにどうしようもなく胸が締め付けられて涙が止まらない。
拭うことも忘れて見入っていたら凛と通る声で歌うその女性と目が合った。合ってないかもしれない。私の勘違いだったのかもしれない。ただ観客を見回しただけで私を見据えたわけではないかもしれない。でも目が合った瞬間、体に電気が走って感覚が蘇って死んでた感情が一気に湧きたった。曲も佳境に入って掛け合いが切羽詰まっていく。迫って来る勢いに気圧されて音を浴びながらステージを見ていることしかできなかった。
「お客さん、たくさん入ってたんだ……」
歓声が聞こえる。熱気で暑かったとようやく気がついてスーツを脱いだ。冷や汗以外なんて久しぶりだ。笑顔が眩しい。通る歌声が気持ちいい。その後も彼女たちはステージで堂々且つ華やかに可愛らしく歌と踊りを披露した。ライブ終わり、私は流されるがままフラフラとした足取りで気がついたらチェキ会の列に並んだいた。メンバーはそれぞれポラロイドカメラに向かってお客さん一人一人と並んでポーズを決めている。私が見惚れていたのは5号、という名前らしい。
「なんで号?」
その5号さん、近くで見てもどえらい別嬪さんで色っぽかった。でも色気があるだけじゃなくて内側から滲み出る、酸いも甘いも知り尽くして包み込むような深みのある優しさも讃えているみたいだった。前に並んでる人たちの隙間からこそこそ盗み見てたけどとうとう私の番が来た。
「今日は来てくれてありがとうござんした」
5号さんはにこりと笑った。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。これって5号さんのために作られた喩えだったんじゃないだろうか。あまりの美しさに頭がクラクラと酩酊してきた。返す言葉が浮かばない。促されるまま5号さんの隣に立ってカメラに向かってポーズをとった。えっと、写真を撮ってくれたのは1号さんかな。この子も可愛いなあ。まだ絵が浮かんでない写真を受け取った5号さんはペンを持って私の顔を見てまた微笑んだ。
「お名前は?」
「え、あ、苗字です、苗字名前」
「あい。名前さんでありんすね」
さらりさらり。達筆な文字で私の名前が書かれていく。渡された写真に写ってた私は目の下のクマがひどい。ロクな食事を摂ってないせいで貧相になってる体にくたびれたスーツを着てるからみっともないたらありゃしない。死相出てるな私。死人みたいな私の隣に写る5号さんは加工もしてないのにキラキラした雰囲気を纏っている。もちろん写真も実物も美しい。綺麗すぎて心臓がバクバクしてどうにかなりそうだ。顔を上げた私の目を見据えて5号さんはにこりと笑って言った。
「是非また来ておくれやす。今度は元気な顔を見せてくださんし」
5号さんの言葉が頭の中で響く。枯れてた熱いもの、生命力が胎の底から湧き上がって指先まで力が通っていくようで、途端に周りが明るくなっていく。灰色だった景色が色を帯びて、膜が張ってぼんやりとしか聞こえなかった音が一つ一つが粒立ってクリアになっていく。また来て。今度は元気な顔を見せて。5号さんの言葉の意味をようやく理解した。
「はい。また、絶対に来ます」
写真を受け取った私を見た5号さんはにっこりと笑って見送ってくれた。ライブハウスを後にして真っ直ぐ会社に戻ったら鬼のような剣幕で私を呼びつけて怒鳴る上司に今日限りで退職する旨を伝え私物を持ってそのまま家に帰った。
「今度は元気な顔を見せてくださんし」
しっとりと艶やかで優しい声が耳の奥に残ってる。私の目を見てにっこり笑って言ってくれた。死ぬなんて馬鹿らしい。生きよう。生きて、また5号さんたちに会いに行こう。
20211017