仮初でも貴方が誰であれ構わない
※広川の親戚夢主
乾いた土が水を吸収するかの如く。彼の上達ぶりには目を見張るものがある。
「剛志さんの口車に乗せられてまだ一週間ですが」
無表情でピアノに向かう男性を眺めながら呟く。滑らかな指の動きが止まって、感情の篭っていない瞳が私を捉える。一見すると怒っているのか不機嫌なのかと思うけど、そういう顔の作り方をしている人だとわかれば大して気にもならない。
「この短期間に物凄い上達ぶりですね、後藤さん」
「要領を得ないが、上達に関する賛辞はありがたく受け取ろう」
学校とアルバイト先を行き来するだけの生活に少し刺激が加わった。刺激と言っても接している人たちがとても静か―良く言えば穏やか、悪く言えば馴れ合わない―だからストレスはほぼないに等しいのだけど。
「口車の件についてはお気になさらず」
こちらの話ですと言うと後藤さんは再びピアノを弾き始める。一週間前のことを思い返しながら後藤さんの奏でる音に耳を傾けた。
*
「確かにピアノ習ってましたけど、それはずっと昔の話ですよ」
ピアノを弾くのが好きで好きで仕方なくて将来はピアニストかピアノの先生になるんだ、なんて言ったことがあったけど人より幾分か小さい手では無理だろうと先生に言われたし、世の中そんなに甘くないことを知ってからはただの趣味に成り下がってしまった。
『構わないよ。それに昔の話と言っても、君の部屋にトロフィーいくつもあったじゃないか。腕は確かだろう?』
白と黒の鍵盤を叩いて音を奏でるのが心地良い。部屋に並ぶトロフィーは、その一心で打ち込んだ結果だった。でも結果が形になっていたのははじめのうちだけで成長すればするほど周囲に埋もれていった。ピアニストもピアノの先生も、なれるのはごく一部の選ばれた人でわたしのような平凡な一般市民には逆立ちしてもなれはしない。世界の理がひっくり返らない限りありはしない夢物語だ。
「ああ、あの…腕は確かってそんな大それたもんじゃないです。というかよくそんなこと覚えてますね剛志さん」
電話の相手は親戚の広川剛志。私の父の兄で、職業は政治家。家族ぐるみで会うのは数年に一回のペースだけど私は昔からお世話になっている。時々こうして私宛に電話が鳴る。
『知人にピアノを習いたいという人がいるんだ。でも事情があって君にしか頼めなくてね』
「はあ、事情ですか」
私にしか頼めないとは一体どういうことなんだろうか。剛志さんを警戒しているわけではないけど、ちょっと面倒ごとの気配がする。出来るなら巻き込まれたくない。厄介なのはごめんだ。シンプルなのが一番なんだ。ややこしいのは、好きじゃない。そんな心中を察したのか、剛志さんは不安を解消しようと言葉を継ぐ。
『名前の性格上、厄介ごとに巻き込まれるのは御免だと考えるのは分かっているつもりだよ。でも面倒だと感じるのは初めのうちだけさ』
「はあ…」
私は小難しいことは好かない。でもその癖に嵌るとかなり集中して取り組むから成果が出る。ピアノもそうだし、今大学で専攻しているスポーツ科学だってそう。体の構造、筋肉の発達、他諸々。学び始める前はとっつき難かったけど、今は勉強が楽しい。子供の頃から親よりも剛志さんと馬が合っている所為もあって、私の精神的な拠り所は剛志さんだったりする。大学進学の際に真っ先に相談したのも彼だ。
『どうしようか。名前が心底嫌なら、この話はなかったことにすればいいんだけど』
彼からの依頼は甘美なものだった。諦めていた夢を、少しばかり体験できる。しかしその甘い誘惑に飛びつけるほどわたしは余裕があるわけではない。大学の講義にアルバイト、勉強。一日のスケジュールの中に剛志さんからの依頼に割ける時間はどれほどあるだろうかと考えた。難しい。アルバイトを減らすか、勉強を削るか。どちらも手放せない。
「あの、剛志さん。相談して頂けてとても嬉しいです。でも色々立て込んでてお手伝いする時間が取れるかどうか怪しくて…」
『時間がないのかな?』
「あ、いえ、時間もですが…その…お金もあまりないので」
『勿論謝礼は払うよ』
「は?謝礼?」
『ほらさっき言っただろう、事情があるって』
やけに濁すなぁ。はっきり言って欲しいような気がするけど、長幼の序。年上の人に向かってそんなこと言えるはずがない。でも、これはもしかして好きなことをしてお金を貰えるチャンスかもしれない。身内という間柄、聞きにくいこともワンクッション置けば尋ねることができる。
「あの…下世話だとは重々承知してるんですが気になることが…」
『なんだい』
「謝礼ってどれくらいですか」
『時給にして1000円』
「やります」
アルバイトの時給より高いそれを聞いて、更に彼を信頼していることもあって二つ返事をした。ほんの僅かでも諦めた夢の続きを見られると思うと、“事情”なんて些細なことだった。
*
「名前、そろそろ時間だよ」
たどたどしいショパンの“幻想即興曲”が部屋の外まで聞こえる。防音が施された部屋のドアが開いていた。部屋の中には名前と後藤さんが二人だけ。熱中している姪っ子に声をかけると驚いて時計を見る。時計の針は8時半を指していた。
「え、嘘。もうこんな時間?」
「家に連絡は」
「してないです。ここに寄るのは伝えてありますが」
名前は慌てて楽譜を仕舞い荷物をまとめて「また来ますね」と言いながら部屋を出て階段を駆け足で降りていった。後藤さんは徐にピアノの弾き始める。ショパンの“幻想即興曲”。拙さを一切感じない、お手本のようなメロディラインだ。
「体の使い方もだいぶ分かってきた。ピアノはそろそろ必要なくなるな」
「そのようだ」
「全身を使って動いて慣らすべきだな」
「色々質問してみるといい。彼女、専攻はスポーツ科学だから」
「そうか」
感情の伴わない視線がこちらを捉える。
「しかしよく似ている」
「そうかね」
「感情の起伏が面に出ないところが特にな。教えるときも淡々としていた。我々が最も人間らしく振る舞えたら彼女のようになるだろう」
少々割高の報酬を提示すると依頼を承諾した姪っ子は居心地が悪くないのかしょっちゅう顔を出すようになった。
「後藤さん。もう少し観察眼を磨くといい。諦めはしたものの名前はピアニストになるのが夢だった。楽しくないわけがない。表情に出てないだけで心底嬉しいはずだ」
存外に楽しんでいるようで、田村玲子は美人だとか草野は近寄り難いだとか三木さんは表情がわざとらしくて苦手だとか感想を述べることもある。
「基本水準より高めの時給にしているけど、もっと稼げるアルバイトもある。それでもここに入り浸るのはそういう理由だよ」
「そうか」
興味をそそられないようで後藤さんは言葉少なに返事をする。以前と比べて、名前は格段に活き活きしている。人の形をして人を食い散らかす生き物と慣れ合った結果だと考えるのは早計ではない。“事情がある”。その意味するところに気がついても素知らぬフリをして後藤さんにピアノを教え続けているからだ。濃紺色の夜空の下を走って帰る名前の姿が窓から見えた。
20200729