一枚隔てた向こうの鼓動

昼間に降り積もった雪は街灯の近くだけ白く浮き上がり、それ以外は夜の帳が降りたせいで街は灰色だった。未だ雪は今もしんしんと降り続いている。外を出歩く人は疎らでついた足跡も降り頻る雪で覆われつつある。

「朝まで降るかな」

カーテンを引き銃の手入れを入念に行う。デスクにソファにベッド、それに細々とした私物が置いてあるだけでナタリアの部屋は質素だった。必要最低限まで物を削いだという印象が近いだろう。丁寧に使えば5年は保つだろう塗装が剥げつつあるラジオからはジグラッド完成の祝典が催される旨をキャスターが告げている。

デスクの近くにぶら下がっている鳥籠の中の小鳥がピッと甲高く鳴いたのと同時に、部屋の中に自分以外の何かがいる気配に顔を上げた。いつの間にやらロックが部屋の入り口に立っている。雪の降る中、帽子も被らずに来たのか髪から雫となりつつある雪がいくつか塊のまま落ちた。ロックのしっとり濡れた前髪の合間から伏せられた瞳が窺える。突然の訪問者に驚くナタリアと、不意に上がったロックの視線がかち合った。

「どうしたの」

「ナタリア、休ませろ」

仕事を終えてからだいぶ時間が経っていたこともだが、自分の部屋をなんの前触れもなく訪れたロックにも驚いた。休ませろ、の申し入れに断るという選択肢がナタリアにはないことを知った上での口ぶりである。ロックの甚く疲れている様子を見て、手入れをしていた銃をデスクに置き立ち上がった。

「…何か飲む?リキュールとコーヒーくらいしかないけど」

「いい」

何も要らん、と言葉少なに首を横に振ったロックはソファに大仰な身振りで仰向けに倒れ込んだ。冷えたコーヒーをシンクに流して替わりに少量のリキュールをカップに注ぎソファに腰を下ろしたナタリアは銃の手入れを再開した。

「リーダーは大変だね。明日も早いんでしょ」

「ロボット警備の報告に時間がかかっただけだ。父上はお忙しいからな」

口を開けばレッド公の名前が息をするように出てくる。苛烈なまでに機械を追い、害をなすならば容赦なく破壊する。ロックの行動原理には必ずレッド公がいる。父上を尊敬している。父上をたぶらかすロボットが憎い。父上、父上。血の繋がりのない男を父上と崇めるには彼にとって何にも変えがたい出来事があったのだろう。ナタリアは知る由もないが。

「ジグラッドも完成した。祝典の警備はより一層強化する必要があるからその指示も仰ぎたかった」

「ゾーン毎の強化は?」

ZONE1に下層階級のロボットが出てくる前に摘発するいう措置は既に取られているし強化はされるが抜け道があるのか予想より意味を成さないことがある。叩けば他から這い出るためモグラ叩きをしているような気分にもなる。ロックはナタリアの質問に仕草だけでそう答えた。

「裏で動いているレジスタンスを叩くのが早い。元から断たねばな」

「検挙したリーダー格の男、訊問しても何も言わなかった。並みじゃないね」

数日前に行われた訊問の様子をナタリアは思い返しつつ呟いた。烏合の衆の結束力にも、現体制に不満を持って行動しているその志の高さにも、敵ながら感嘆せずにいられなかった。その報告はロックにもされていて、レジスタンスを潰すのは難しく時間と手間と人員とを割く必要があると周知の事実になっていた。先の見えないレジスタンスとの攻防。攻略法をあれこれ慮りながらナタリアはリキュールを口に含んだ。ロックは天井を睨み付けながら歯噛みする。

「この程度で手をこまねくなど名折れも甚だしいな。レジスタンスが出入りしそうな区画のピックアップとそこへの人員配備、武装…やることが山のようだ」

「ゾーン毎に出入りした人のIDデータを調べよう。データを追跡すればいくつか引っかかる可能性がある。祝典には間に合わないけどわたしがレジスタンスに潜入するって手もあるけどどうかな」

偽装IDを複数個使い各ゾーンを区分けするゲートを行き来しているレジスタンスを炙り出す。彼らが人間である限りは往来するだけで履歴は残る。ゲートに残されるその膨大な履歴と行動をマッピングしてパターン化すると1つ以上のIDを使って出入りしているデータ群が割り出せる。時間と手間を要するがやる価値は非常にある。潜入については答えずID追跡の提案にロックは諾と答える。

「ああ、そうだな、明日…やろう…」

力のない返答になっていった声に違和感を覚えて振り返ると脱力してソファに身を預けているマルドゥク党の若きリーダーの姿があった。

「…ロック?」

薄く開いた唇からはレッド公に酔心している言葉でも機械を恨む呪詛の言葉でもないただの寝息が漏れている。

「寝たの?」

余程疲れていたのか揺すっても目蓋は閉じられ眠り続けている。残ったリキュールを飲み干して無防備なロックに覆い被さるとナタリアは彼の胸に顔を押し当てた。心音を耳と肌で感じ始めれば、ラジオから流れていた懐かしい曲も耳を素通りするだけになっていく。

「…温かい」

意味もなく人肌が恋しくなったのは何故だかわからないが、ロックが朝まで一度も起きずにいてくれたらいいと目蓋を閉じた。心臓が脈打ち全身に血液を送り出している音を聞き、ロックの体温を一身に感じながら微睡むのはこの上ない細やかな幸福だった。硬く冷たい政治や仕事の話ではなく、血の通った肉の温かさを感じる意志の疎通をしたいのだとナタリアは望んでいる。叶わぬと理解していても、どうしても願ってしまう。心音が、体温がもっと近くにあって欲しい、と。


20200419
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