梅の薫り

「旦那、あれ見て」

梅が咲いてる、と名前は薬売りの着物の裾をついと引っ張り指を指す。

「もう、そんな時期…ですかね」

うぐいすが一鳴きして羽ばたいて行く。梅の枝が揺れた。誰かが手折ったのか、地面に落ちている梅の枝を拾い上げて薬売りは名前に向き合う。仄かに梅の薫りが香った。

「名前と、私が会った」

ああ、と声の代わりに息が口から吐き出された。そうか、ちょうどこの時期に、と名前は思い出す。目を覆っておきたい過去だから、なるべく考えないようにしていた。でも容易に忘れられるものではない。時間は経った。苛まれることは減り平穏になりつつあるようにも感じられたが、傷が癒えることは決してない。

「梅の咲く頃だった、旦那と会ったのは」

薬売りの手にある枝に手を伸ばす。枝を持っていた薬売りの手と名前の指が、触れる。



名前には、母と歳の離れた姉が居た。父親は知らない。姉が生まれてしばらくの後に先立ってしまったからだ。三人で暮らすのが普通だった。親子三人で大地主の家に奉公するのも、また普通になっていた。

奉公先で、母は死んだ。

名前の記憶には、異人の様に色素の薄い髪をし、優しく自分を可愛がってくれたやつれた母の姿だけが残っていた。

姉も母同様、色素の薄い目の色をしていた。姉は母が死んでからというもの、名前に事有る毎にこう言い聞かせた。「自分の身は、自分で護るのよ」と。

姉は日に日に痩せていった。夜中に寝室を抜け出し、朝方帰って来る。そんな生活がかなり長く続いたのを、名前は些か疑問に思いつつも姉に問おうとはしなかった。聞いてはいけない、直感がそうさせたのかも知れなかった。
姉の体調は日に日に悪化していった。よく食べた物を戻していた。それを知った大地主は姉を何処かへ連れて行った。

姉も死んだ。

名前も姉と同じ様に色素の薄い目の色をしていた。

母も姉も自分も異人の様な外見の一部を持ち合わせていて、他の使用人には目もくれない大地主が、自分に対して懇切丁寧に接してくる事に名前は気が付いた。

「自分の身は、自分で護るのよ」

姉の言葉の意味を、名前は唐突に理解した。母も姉も、大地主に殺されたのだ、と。

徐々にやつれていった二人の体。
―何で、母さんと姉さんが。

深夜に寝床を抜け出した姉。
―『名前、誰にも心を開いてはだめよ』

食べた物を戻す姉の後ろ姿。
―『その使用人を連れて行け』

連れて行かれたきり、二度と戻ってこなかった姉。
―病気で死んだのだと、聞かされた。

馴れ馴れしく接する大地主。
―『名前、お前は目の色が綺麗だね』

時間をかけて体を蝕んでいき殺したんだと。
――私に、近寄るな
名前は理解した。



「お前さんが、根源だと」

お前が憎いと、残された子を護るのだと、彼女らは言っている。

突如として現われた薬売りは、モノノケを斬ると言った。薬売りは大地主を指差し、静かに名前を見遣る。

「母さんと姉さんが居るのか」

大地主が根源だと言い己を見る薬売りの目、何より『彼女ら』という言葉に名前は確信が持てた。母と姉がモノノケ、それを斬りに来たという薬売り、『彼女ら』が憎いと思っているのは大地主で。何故、母と姉が斬られるのだと、叫んだ。

「母さんと姉さんを…二度も殺すのか!」

斬るなら大地主を、コイツを斬ってやりたい、と名前は歯噛みした。

「二度、も……ですか…」

「母さんと姉さんは、コイツに殺されたんだ!」

大地主は、使用人の分際で何を吐かすか、と言い捨てた。私が何も知らないと思ったのか、名前の灰色の目がギラリと光った。

「好きなだけ犯しておいて、身重になったから殺したんだろう!」

病気なんて嘘、只の隠蔽だ。倹しい者のささやかな幸福を掻っ攫って生き血を啜る亡者め、恥を知れ。

「私も同じように手籠めにされると思うな!」

残された子の慟哭を聞いて異形のモノノケは、地鳴りのように呻いた。お前を同じ目には合わせまい。ずっと護ろう。身を削り、全ての元凶の者に報いよう。憎しみ、悲しみのままにそう泣いたのだった。

何の罪の無い女と女児、ただが男一人の肉欲の為に命を落とし、二人は残された子を思う余りに、そして男を憎む余りモノノケと化した。



うぐいすが、また鳴いた。

生々しく現実より現実的な血の通った過去の夢想から名前を引き戻したのは、梅の薫りだった。

「そうだったね…旦那と会ったのは、梅の薫るこの時期だった」

名前はそれ以来、モノノケの気配を感じるようになった。普通の人間だというのに。

「最初の頃は、話をするにも距離を取って」

清め祓う。そのために斬った。母さんと姉さんは斬られた。理解は出来ていたけれど、感情がそれに追いつけずにただ目の前の薬売りだと名乗る珍妙な男をひどく毛嫌いした。

「手を近づければ、野良犬のように噛みつこうとした…」

それが今じゃそちらから、と触れ合ってる指先をちょい、と動かす。

「うん、こういう風にするの嫌じゃなくなった」

面と向かって言うのは照れ臭いのか、顔を伏せてそう言った。

「名前」

灰色の目とは対照的な漆黒の髪を撫でる。予想外の行動に弾かれたように顔を上げた名前は暫しの後に破顔する。

「あは、懐かしい感触」

母さんと姉さんによくこうやって頭を撫でて貰ったんだ。二人は、もう、きっと憎しみに駆られることも泣くこともない。静かに眠っている。梅の枝を手に、名前はゆったりと歩を進める。

「次はどこに行きつくんだろうね、旦那」

「さあ、どこですかね」

花が薫るまま、季節が移り行くまま、流れるように二人は隣り合って、いく。


2008年頃に書いたものを、大筋は残したまま細かい部分を改変しました。
20150922
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