涙に咽ぶ
※調査兵団夢主
こいつは日常的に感情を押さえ込んでいる。その反動か夜半、ナマエはよく魘されてる。劈くような金切り声とともに手足を振り回す。結果として手当たり次第に近くにあるものに暴行を振るう。お陰であちこち痣だらけだ。こいつも俺も。
「私が」
強張る指は凍りつくかのように冷たい。
「もう少し早く着いていれば」
涙と汗が混じって頬を流れていく。
「許して」
寝言とは思えぬ後悔に塗れた懺悔の言葉。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返したあと
糸が切れた人形さながら、動きを止める。静寂が耳に痛い。が、その静寂を切り裂いたのは動きを止めたナマエだった。腹の底からの唸り声を上げ、許しを乞う声色とは打って変わった憤怒に満ちた声で言う。
「ふざけるな、ぶっ殺してやる」
氷の指先が牙を剥く。シーツを引き千切らんときつく強く握り込んだ。
「惨たらしく殺してやる」
飄々とも腑抜けたとも言えるナマエが怒りをこんなに露わにするのを見たのは初めてだ。女の声らしからぬ低い声で唸り続けるナマエの肩を掴んで揺さぶった。
「起きろ、ナマエ。起きるんだ」
「―っ!!」
幻と現の境をたゆたっている精神状態のナマエがこちらを見ている。が、果たして目の前にいる俺を俺として認識しているかどうか、危ういものがあった。名乗れ、と言われても答えられないだろう。酩酊しているかのようだった。
「悪い夢を見たな」
「……」
「昔の仲間を思い出したか」
返事はない。
「手は、足は痛むか?」
「…、…」
「大丈夫そうだな」
「……」
ゆっくりと体を起こしたナマエは徐々に理解した。手足に残る許容出来る範囲の痛み、汗に濡れた肌の感触。寝ている間の記憶などなくとも察しはついたのだろう。
「一体何に怯えている」
「……」
「巨人に食われることか」
「……」
「死んだ者たちへの罪悪感か。救えなかった、仲間への」
「いいえ」
頭を抱え部屋の何もないところを見つめたナマエは首を横に振った。
「死んだ者は何も語りません」
硬直した唇が動くことはないし、開いたままの瞳で何かを認識しているわけではない。あの光景を見て地獄だと言うのは生きている人間だけ。ものを見て何かを思うことは、生きている証拠で恐怖に慄くことさえも、生きている証である。ナマエはぽつりぽつりとそう続けた。
「成績優秀でもなく、実技に秀でているわけでもない。可もなく不可もなく、どこまでもアベレージで目立った特徴も目を見張るような才能を持ってるわけでもない。没個性的な私が生きていられるのは、この性質故です」
ナマエは書類でも読み上げているかのように落ち着き払った、いや、感情をどこか奥深くに押し隠したまま言った。俯瞰主義こそお前の生きる術だったな。
「なのに、度々夢に見るんです」
見たくないものすらも情報として視認するし、聞きたくないものすらもそばだてる。目を背けることもせず、耳を塞ぎもしないで全てを受け入れて俯瞰することで生きる術となっているそれは、逆にナマエを苦しめる。
「最期に目が合った同期の顔が、目に焼きついて離れないんです」
あまりにも理不尽な惨状、足掻けば足掻くほど雁字搦めになってしまった戦場、嫌というのも諦めるほどに人が死んだ。地獄だ。
「苦痛と恐怖に慄いた悲鳴が、耳にこびり付いて四六時中泣き止まないんです」
地獄を目の当たりにそれを抑え込むことが出来るのは自我が、理性が働く間だけだ。深層心理が深く働きかける夜半、抑制されていた感情が爆発する。
「私は、兵士失格です」
何食わぬ顔をしていても結局は巨人の存在に恐れ慄き、自分が生き残ることしか考えない。己が犠牲になる可能性をひたすら潰し続けて、クズが一人生き残って何になるんだろうか。ナマエは声を掠れさせながら嗚咽を漏らす。
「弱い兵士です。いえ、兵士と名乗るのも憚られる。私が真っ先に死ぬべきだったんです」
「ナマエ、もういい」
「兵長」
生きている事実に安堵する反面、自分の命が何百もの兵士の命の上で成り立っているかと考えると、おぞましくなるという。
「皆を、見捨てたんです。まだ、助けられたかも知れないのに」
生き残るべきだった兵士の命の数と、自分を天秤にかけて、釣り合うだけの存在意義があるのか。
「死ぬべきは自分だったと言った癖に、思ってる癖に、結局私は生きることにしがみ付いているんです。死ぬのが怖い。あんな、巨人に食われて死ぬなんて、嫌なんです」
「死ぬのが怖くない奴なんているか」
「へいちょう」
「お前は、間違っちゃいない」
ナマエは俺のシャツを掴んだまま頭を垂れて、夜明けまで泣き続けた。
20130526