細雪ささめゆきの降る日
身を切るような冷たい空気のせいであっと言う間に指先の感覚が消えていく。吐く息は白く、マフラーの隙間から入ってくる風が痛い。曇天の空を見上げながら肩を竦めた。

「寒……」

予想はしていたし覚悟もしていたけど思わず呟いてしまうほどの気温の低さだった。

上司の無理難題に振り回されて疲れ切った体には非常に堪える。一歩歩く毎に寒さが体の芯まで届いてくるみたいだ。さっさと帰るに越したことはないけど、体の芯まで疲れてる上に冷えてしまってはしんどい。

凍える寒さから逃げるようにカフェに逃げ込むと一転、気持ちが緩むほどの暖かさに包まれて疲れが少しばかり和らいだ。そこまではよかった。

「あ」

「よう」

嫌というほど見た顔があった。別に待ち合わせをしたわけでも連絡を取ったわけでもない。本当に単なる偶然だ。向こうも仕事終わりで少し疲れているようだった。私を見つけてちょっと目を剥いたあと平素と変わらない顔に戻る。

「…お疲れ」

「お前もな」

「もう一つ先の駅で降りるんだったわ…」

「そしたら会わずに済んだってか。どうせ家帰りゃ同じだろ。この寒さでも悪態つけるだけの体力があって羨ましいぜ」

「あるように見える?」

「見える」

憎まれ口を叩くだけが精一杯、全部寒さのせいだ。大きめのサイズのコーヒーを頼んで花宮の隣に座る。日が暮れているのに街並みも空も灰色がかっている気がする。そんな光景を二人してぼんやり見つつコーヒーを口にした。

「冷えるな」

「明日積もるんでしょ…この寒さで…きつ…」

「どうせどの線も遅延ばっかだろうよ」

「はぁ…」

寒さと人混みに耐えてようやく出社してから目まぐるしく仕事をこなす様子が想像できて花宮も私もがっくりと肩を落とす。いっそ休みを取れたら楽なのに。

「”遅延を見越して早く来い”とか言う上司いないの?」

「この間異動になった」

「ああそう」

「面倒な上司で大変なこったな」

「近いから雪だろうが槍だろうがいつもと同じに来るんだよあんにゃろう…」

業務より仕事に対する姿勢ばかりの小言が多くて評価基準がおかしい上司のせいで雰囲気がギスギスして仕方ない。

「その上司、何年目だ」

「今年で三年目」

「そんだけ居ればいい加減いなくなるだろ。残り三ヶ月我慢しろ」

「わかっちゃいるけどだいぶ我慢の限界だし異動しない可能性も無きにしも非ずで胃が痛い」

陶器のコップ片手に項垂れる私の隣で花宮は他人事よろしく「精々頑張れよ」と笑った。まあ、当たり前だ、他人事なのは。少なくとも私が抱えている類の悩みは多くないらしい。憶測の息を出ないけれども。時たま聞こえてくる愚痴も仕事のヘマが多い部下の文句が多い。

同僚や部下と上司の話になると専ら愚痴大会になる。突けば出てくる出てくる、対人関係での嫌味ったらしい言動にプライベートに踏み入るような無神経な会話から仕事面での手の抜きよう、挙げ出したらキリがない。上司に対する恨み辛みで一体感が生まれてしまうほどだ。

「今まで仕事できてたのが不思議でしゃーないわ、あの上司」

「一定の割合でそういう奴はいるもんだ」

前の部署でもその前でも、私のように頭を抱えて胃を痛めていた部下がいたのかと思うと同情する。とは言っても今一番に害を被っているのは私なんだけど。腹の内に溜まっていたモヤモヤを吐き出せていくらか気が楽になった気がする。けど顔を上げてみれば隣にいるのが花宮なのは、なんというか、話をした手前言いにくいが百歩譲っても癪だ。

「はあ…アンタになんで愚痴をこぼさないといけないんだか」

「聞いてもらえてよかったな。優しい同居人に感謝しろよ悠」

「恩着せがましく言わないで。別の方向で腹が立ってくる」

「ふはっ。やっぱ元気有り余ってんじゃねえか」

「どこがよ」

神経をすり減らしてやり場のない怒りを抱えたまま怒りの元凶と顔を合わせる毎日で元気が有り余ってる方がおかしい。残り少ないコーヒーを飲み干して席を立つ。羽織ったコートのポケットに入っていた携帯に表示されている日付に目が止まった。

…あれ、今日ってこいつの…。

間違いではないけど改めて問うのは憚られる。店を出ながら後ろ姿を見ていると、不意に花宮が呟いた。

「…予報より早いな」

「あ、本当だ…どうりでさっきより冷えるわけだわ」

暗い灰色の空から白く細かい雪がひらひら舞い落ちてきていた。この寒さじゃそのうちぼた雪になるんだろう。ひたひたと地面に降る雪の音が聞こえてくるようだった。ほんの少しの間、雪をぼんやり見上げていたけど寒さには勝てなかった。

「さっさと帰るか」

「ん」

数歩先を歩く花宮の背中を見て思った。花宮は頓着していないだろうし私もするつもりもない。でも少しくらいは譲歩した方がいいのかも知れない。

「…花宮、なんか買って帰る?」

「は?なんかって…何か必要なのか」

「………いや別に」

不平不満や憎まれ口を叩くだけよりかはいいだろうと気を遣ったのが裏目に出た。慣れないことをするからだ。肩透かしを食らって居た堪れなくなってマフラーに顔を埋めた。電車に乗ってもしばらく無言、下車しても黙ったまま家に向かって歩いた。雪の降る量はちょっとずつ増えている。

「ふ」

隣を黙って歩いていた花宮が何故か小さく笑っている。なにが面白いんだ。訝しげに見上げる。

「珍しいこともあるもんだな。おい悠、寒さで頭をやられたか」

私を見下ろす花宮の顔には揶揄いの色がありありと浮かんでいた。くそ、気がついたか。それにしてもムカつくなその表情かお。数分前の自分の行動を反省しつつ後悔しながら憎たらしい男を睨みつける。

「愚痴を聞いてくれた分いまのは勘定しないけど二回目はないから」

「次言ったらどうなるんだよ」

「実力行使。言わなきゃ解らない?」

「珍しいことを珍しいって言って悪いことがあるか?いい加減大人になろうぜ」

「忠告してるのに無視するアンタも大人になった方がいい」

鍵を玄関の棚の上に投げて私の腕を掴む花宮の手は冷たい。壁に押さえつけられた手は微塵も動かせる気配がなかった。

「やってみよろ実力行使」

「アンタがそのつもりなら受けて立つけど」

「ああそうかよ」

ずい、と体を近くに寄せて来た花宮を見上げて、私のそれと意味するところが違うのだとそこで初めて気がついた。言葉の綾とか、そういうのじゃない。分かってて無視してる。至近距離に立つ花宮は更ににじり寄って来る。なんでだか熱い、と感じた。

「ちょ、っと待って、そうじゃなくて」

「受けて立つんだろ。逃げるなよ」

言質を取られたというにはだいぶ乱暴だ。意味するものが全く別物なんだから。それなのに抵抗虚しく、熱いんだか冷たいんだか判別がつかない花宮の体温に飲まれてしまった。


20210112 happy birthday.
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