くずれて落ちる
沖田が“こちら側”になったと聞いたほとりはにわかには信じられなかった。

そんなまさか。

直感的だった違和感は、元を辿れば沖田の存在そのものだった。何か裏がある。ほとりは確信した。隊士募集のため遠征に同行するのも抵抗を覚えた。行かせるべきではない。屯所に残すべきだ。そう思っていた。

「そうそう、明日の隊士募集の件ですけど列車は夕方発です」

「こんな時期に隊士の募集ねぇ」

「真撰組は人手不足ですから。いい人がたくさん来るといいですね」

だから沖田に列車の出発を伝えたくなかった。

本当に招き入れていいのか、この男を。

近藤の首を討ち取り、伊東が真選組を手中に納め台頭するための舞台に沖田という役者を加える。脚本にはなかったのではないか。ほとりは伊東に、自身が難色を示した原因を伝えた。

「沖田隊長は何か企んでいる可能性があります。土壇場で暗殺を阻止すべく立ち回るかもしれません」

確信も証拠もなかった。だが、伊東は聞く耳を持たない男ではない。信用に足る補佐の言葉を受け入れた上で言う。

「隊内がきな臭くなっていることを彼も分かっている。このタイミングで寝返ったならスパイだと考えるのも妥当だ」

「わかっているのに迎え入れるということですか」

「万が一、暗殺の局面になって彼が離反するというのなら斬るまでだ。密室且つ味方がいない状況なら結果は言うまでもない。想像がつくだろう」

「…はい…彼に勝ち目はないです」

そのはずだ。でも何故かほとりは素直に首を縦に振れなかった。今回ばかりは伊東の考えは正しいのだと思えなかった。長い間、沖田と接してきているほとりの勘が警鐘を鳴らす。杞憂で終わってくれるのだろうか。否、終わらない気がする。手放しにすると良くないことがある。

「だが手は打つ。近藤と沖田は一番遠い車両に配置し3人体制で監視をさせて、列車に搭乗する者には“要注意人物”と周知させよう」

「ありがとうございます。沖田隊長が伊東先生に賛同したとはどうも思えなくて…」

「君は彼と同じ釜の飯を食って来た仲だ。そういう者の直感というのは往々にして当たる。離反や謀反が起きるのは致し方ない。問題はその後の対処だ」

沖田を逃さず斬る。他に手段などありはしないし酌量の余地もない。諾と返事をしつつもほとりの思考はどこか別の方に集中していた。

わたしたちで彼を斬れるのか?返り討ちにされたら?包囲網を突破されたら?局長を奪取して逃げられたら?突き詰めれば湧いて出るこの不安は、どうすれば解消されるのだろう。

「…まだ不満があるようだね」

「いえ、伊東先生の仰る通り多勢に無勢です。沖田隊長は皆が斬るでしょう」

でも、と前置きをする。未だに残る不安を前にほとりは覚悟を決め、伊東を見据えて心の中で誓う。殺させはしない。

「万が一、貴方の身に凶刃が迫るようなことがあればわたしがお護ります。必ず」

杞憂で終わればいい。でも終わらない嫌な予感が足下から音もなく忍び寄って来る。この人を守るためには腕の一つや二つなど安いものだと、ほとりは拳を堅く握り締めた。



手筈通りに事は運び列車は動き出した。ほとりは篠原の隣に座り、街並みを眺めつつ事が始まる時刻を静かに待つ。

「沖田くんはどの辺りに?」

「三つ後ろの車両です。局長から一番遠い車両へ誘導するようにと伊東先生から指示がありましたから。監視もつけてます」

「いやに厳重だな」

「念には念を、ということですよ」

この列車内が戦場になった場合を想定してほとりは何度も考えを巡らせていた。伊東派の隊士と沖田とでは数に圧倒的な差がある。敵は劣勢であるというのに、結果は芳しくないものばかりだった。

「ところで寒河江。君は来ないと思っていたんだが」

「何故です」

「新参者に出る幕はないだろ」

元土方派の寒河江ほとり。伊東派に属する者の内では最も遅く加わった新参者。未だ自分はそのように認識されているのか。この期に及んでもまだ。

ほとりは半ば呆れて笑ってしまう。篠原が自分の存在を快く思っていないことは承知していたがここまで来ると嫌がらせの域だ。

「篠原さん、本当にわたしが目障りなんですね。知ってましたけど。それにしても嫌がらせの仕方がしみったれてますよ」

「なんだと?」

「卑しいって言ってるんです」

思いもよらない悪口を面と向かって吐かれて篠原は睨みつけた。怒っている篠原を見てもほとりは動じるどころかここぞとばかりに畳み掛ける。

「伊東先生が自分に仕事を任せないからって妬むのはよくないですよ。できない人間にさせる仕事なんてたかが知れてると思いません?」

「寒河江、斬られたいのか」

「どうせ斬れないくせに」

ただの威嚇だと分かっているほとりは鼻で笑って篠原を横目で見た。最も優先すべき計画の実行が控えている今、斬るという言葉に実効性はない。図星を突かれてぐうの音も出ずようやく言い返せた篠原は歯軋りした。

「後から入ってきた女が仕事を全部持っていって面白くないんでしょうけどそれを理由に人目を盗んで八つ当たりされてもね。ダサいですよ」

「……」

「言い返せないとでも思ってました?可哀想だから黙っててあげたんですよ」

「ペコペコ頭を下げていたのは演技だったのか」

「そうですよ。適当にしおらしくしておけば満足してくれたじゃないですか。子供じみた八つ当たりの度に本気で反省してるわけないでしょ」

そこまで言うと篠原もほとりもしばらく睨み合っていた。一丁前に仕事がこなせるようになってから喧嘩を売れ、と吐き捨てたほとりは溜飲が下がった。しかし篠原は、難癖をつけられ八つ当たりをされても「すみませんでした」と頭を下げてばかりいたほとりが突如として態度を変えたのが腹立たしい。

「背中に気をつけるんだな」

「篠原さんも」

暗殺計画が終わったら、なんなら計画の最中に斬ってやるからな。篠原の負け犬の遠吠えをほとりは聞き流した。間もなく計画実行の時刻だ。



近藤の地獄行きは決まった。列車の中、伊東に付き従う隊士は誰もがそう思っている。

「僕は君ほど清廉な人に会ったことがない。無垢とでもいうのかな」

伊東は近藤に語りかける。

「近藤さん、君は白い布のようなものだ。何ものも受け入れ何色にも染まる」

真選組は白い旗にそれぞれの色で思いを描いた御旗である。伊東はそう考えていた。使う色は人それぞれで、色鮮やかでまとまりがないように見受けられるが実のところ深いところで繋がった連帯感のある組織だった。チンピラでも烏合の衆でもない。

「比べて、僕の色は黒だ。何ものにも染まらないし、全てを塗り潰してしまう」

どこへ行っても黒しか残らない。黒にせざるを得なかった。黒にすることを選んだ。己の存在を知らしめるためにはそうする必要があった。周りを塗り潰し元からあったものを確実に飲み込んでいく。真選組も例に漏れない。

「君たちの御旗は真っ黒になってしまったんだよ」

「俺たちが真っ黒に染まった…?」

近藤が笑い声を上げたのを、伊東は不可解に思った。敵に囲まれ、刀の切っ先が喉元に迫っているというのに。

「さすが伊東先生!面白いことを言う!確かに、俺が白い布だとしたら真っ黒に染まったと言えるかもな」

そして自分は白い旗なんかではない、と快活に言い放ち周りに立つ隊士一人ひとりの顔を見ながら近藤は続ける。

「先生の周りにいる連中は知らんが、奴らは色なんて呼べる代物じゃねえさ。洗っても取れない染み付いた垢だよ」

喧嘩に明け暮れていた武州で出会い気がつけば長い付き合いになり家族同様になる者もいる。屯所の仲間の顔が近藤の脳裏に浮かんでいる。

「学も思想もねえ。理屈より感情で動くような連中だ。伊東先生の手にゃ負えない。奴らは何色にも塗りつぶせないし何ものにも染まらない」

そこまで言ったとき、自分を取り囲む隊士の中に見慣れた顔を見て近藤は少しばかり動揺した。

「ほとり…」

「ごめんなさい近藤さん」

言葉少なにほとりは謝罪した。感情で動くのは自分も同じだ。ほとりは塗り潰されたのではなく自ら伊東の色に染まった。取捨選択の上でここにいる。

「許してとは言いません」

ほとりの言葉と扉が開く音が重なった。全員が顔を向けた先には沖田が立っている。今この状況下で、ここには居て欲しくない人物だ。ほとりは歯噛みした。

「沖田くん、ここで何をしている」

近藤に刀を向ける一同を見て沖田は静かに怒りを露わにした。首謀者の伊東を見遣って吐き捨てる。

「てめーが何やってんだクソヤロー」

ああ、やっぱり。

沖田が寝返ったと聞いて嫌な予感を察知したほとりの直感は間違っていなかった。そのあとが問題だった。伊東は徹底的に沖田を排すべきだったし、ほとりは沖田の度を超えた予測不能さを鑑みなかった伊東に反論すべきだった。

「沖田くん!伊東先生になんて口を利く…」

非礼を撤回させる言葉は最後まで紡がれなかった。鋭い一閃、沖田に袈裟斬りにされた篠原が倒れ込む。

「その人から手を離せって言ってんだァ!!」

帯刀していただけの隊士もみな一斉に抜刀し構える。一触即発の雰囲気に列車の中が膠着状態になり誰も動かない。

「…監視をつけてたはずです」

「みんなおねんねしてるぜ。席を立っただけで殺気だってつっかかってきて迷惑千万でさあ」

ほとりの問いに“斬った”とは言わなかったが後続車両の状態は想像するにた易い。緊張が張り詰める中ただ一人、伊東は全く平素のまま冷静でいる。

「僕に近づき、動向を探るためのスパイか。やはり君は土方派…」

「そんなんじゃねーよ。土方の野郎が消えて空いた座はアンタのものじゃねえ。俺の眼中にあるのは副長の座だけだ」

邪魔な奴は誰だろうと叩き潰す。沖田は刀の切っ先を伊東に向けて冷ややかに笑いながら言った。

「次に消えるのはテメーだよ伊東先生。俺の大将は近藤さんただ一人だ」

「くく…思った以上の性悪だな。土方を消すために利用した僕も用済みになれば消すか」

存在価値のないものを切り捨てるのは合理的だ。所有する意味がない。

「僕も同意見だ」

座席の隙間に身を潜めていた隊士が斬りかかる直前、爆音と共に列車が大きく揺れる。爆発と同時に沖田は数人の隊士を斬り、混乱に乗じて追跡を逃れるように近藤と車両の中を走っていく。煙に霞んで二人の後ろ姿はすぐ見えなくなった。

「爆弾なんていつの間に仕掛けたんだ!?」

「くそっ!動ける奴、追え!」

行手を阻もうとした隊士は軒並み腕や足を斬られて床に蹲っていた。指が切り落とされては刀は握れないし、腱を切られて歩くのもままならない。重傷ではないが戦うには難しい傷ばかりだ。一瞬で戦力を削いだ沖田の技が忌々しい。

「爆発した箇所からの出火が激しいです!」

「その車両を切り離せ!列車を止めるな!走り続ける限り奴らは袋のネズミだ!」

近藤と沖田がこのまま逃げれば先頭車両に行き着く。列車が停まれば計画は瓦解する。それだけは阻止しなければ。一刻を争う車内、近藤たちを追うべく先陣を切っていた隊士数人が急に立ち止まった。

「戻って来た…」

「え?」

沖田は、近藤を残した車両への行手を遮るように立ちはだかっている。たった一人で何ができる。ほとりを除いた全員、皆一様にそう考えていた。

局長を庇いながら戦うなら仕留められたかもしれないのに。わざわざ戻って来た。不味い。

「沖田くん。君はもっと利口な男だと思っていた。我々全員を一人で片付けるつもりか?討ち死にして悲壮美に浸ろうというのかね」

「悪ぃね伊東さん。そんなつもりはこれっぽっちもねえ」

伊東派の隊士の顔を確認しながら沖田は刀を抜いた。冷ややかな音が耳に障る。鞘を握るほとりの手と背筋がヒヤリとした。

「真選組局中法度第二十一条。敵と内通せし者これを罰する…。てめーら全員俺が粛清する」

「今この場において主流派は僕だ。君は反乱分子の何者でもない。土方の作った局中法度など何の意味も成さない」

伊東の言葉には説得力がある。嘲笑に満ちた声で近藤も沖田も、死んだ土方の後をすぐに追うのだということを告げる。

「奴を粛清しろ。僕は近藤を追う」

その場を去る伊東の指示に従い距離を縮める。仲間は二十人以上いる。後ろにも控えている。戦力差は歴然だ。この状況をひっくり返すなんて無茶だ。不可能だ。なのに、嫌な想像が現実のものになっていくようでほとりは震えながら刀を構える。

「真選組一番隊隊長として最後の教えを授けてやらァ。圧倒的な実力差を覆すには数に頼るのが一番だ。仲間たちは呼吸を合わせ、同時に一斉に斬りかかれ」

沖田の言葉に合わせるように仲間は斬りかかった。痛ましい肉と骨を断つ音と悲鳴、それと同時に血の匂いがした。瞬きの間に、目の前にいた仲間たちは無残な姿で倒れている。

ここで止めなければ。わたしがここで、何としてでも食い止めなければ。

ほとりは狭い空間で繰り広げられる剣劇の隙間を縫いながら考えていた。

どうする。仲間を盾にして近寄って急所を狙う?いや間合いに入る前に弾かれる。沖田隊長相手に一人で何ができる?

「ぐあっ!」

一人、また一人斬られていく。逃げ場のない列車の中、ただ一人で立ち回る沖田の方が圧倒的不利のはずなのに実際は逆だった。猛獣の入った檻に草食動物を放り込んで容赦なく殺されるのを見ているようだった。伊東に従っていた他の隊士たちはみな斬られ、床に伏せっている。鉄の臭いが濃い列車の中は異様に静かだ。ほとりは沖田と対峙している。

「よう」

「……沖田さん」

返り血のついた顔。殺意だけが灯った冷ややかな目がほとりを射抜く。

「なあほとり。伊東派についたってことは、覚悟はできてんだろうな」

怖気がした。稽古中でも、市中見廻りでも、警備の最中でも、攘夷浪士が立て籠る建物に突入するときでも、ほとりの生涯のうちでこんなに怖かったことがただの一度でもあっただろうか。これが真撰組一番隊隊長。全く隙がない。

「わたしは、あの人に…伊東先生に恩があります」

「近藤さんにはないのか?拾われたことを忘れたわけじゃあるまい」

「もちろん忘れていません。近藤さんにも恩があります。でも、伊東先生には人生を変えてもらいました」

沖田は意味がわからないとばかりに顔を顰めた。

「近藤さんはわたしを拾って真撰組に加えてくれた。でも、わたしの心の内を知っていたのは伊東先生だけでした」

『組織は生き物だ。権利や立場、人間関係のパワーバランスを察知してどこに重きを置けば秩序が保てるか。その方法を君は本能的に知っていて実行している』

歓迎の席で言われた言葉が脳内で反響する。初対面で全てを言い当てた伊東は、ほとりを知っていた。隠せないと悟ると同時に、何故こうも見透かされているのだろうと思った。

生きていく上での心構えを誰かに話したことはなかったし、履歴書から読み取れる情報はない。出会う前に見た書類だけで伊東はほとりの性質を見抜いた。

「あの人はずっと一人で、誰とも馴れ合わず孤独の中にいる」

翻って、ほとりは伊東の性質を理解するまで時間を要した。伊東は自分のことを語らない。口から出るのは合理的な思考から抽出された情報ばかり。

だが仕事を通じ長い時間をかけて話すうちにほとりは、伊東が飢えているのだとわかった。
与えられるべきものを与えられずに育ってきた彼は、縋るものも寄る辺もなく孤独の中で自立するしか選択肢がなかった。突き放されて距離を取られて、彼には誰かが手を差し伸べることは一度もなかった。

「誰にも頼れない辛さは、わたしもよく知ってます」

認めさせようと、認めてもらおうと必死になっている子供の気持ちを持っているようだった。伊東の言葉と行動の端々から感じ取った。寂しさに打ちひしがれ自己顕示欲が凝り固まった心を抱えたまま成長したのが伊東鴨太郎だ。

「だから、わたしが」

歪曲した感情を持つか持たないか。伊東と自分の違いは、恐らくそこだと薄ぼんやりと思っていた。違いこそすれど、理解はできる。同じ痛みを持っている。

「わたしくらいは彼を気にかけて傍にいたっていいはずです」

「脈絡がなくて意味がわからねえぜ。恐怖でおかしくなっちまったかぃ」

ほとりは今まで築いた信頼を無に帰すのも厭わず伊東に付き従った。独り善がりと言われてもいい。意味がわからなくても構わない。伊東を知りたいと思った。少しでも近くにいようとした。

「あの人の傍にいようと決めたんです」

ほとりは刀の柄を握り直す。感覚が覚束ない。

「覚悟なら、伊東先生についていくと決めた時からできてます。腹は括っています」

「そうかい」

顔が整った人の無表情は恐ろしく冷たい。沖田は刀を構えた。袂を分かつと分かっていながらほとりはこの道を進んだ。覚悟はできていても、沖田と向き合って立っているこの瞬間、後悔している。

「長いこと一緒に働いて来たよしみだ。遺言くらいは聞いてやる。最後に言い遺すことはあるかぃ」

一人だ。伊東の傍に居られないことを後悔している。そう気がついて、ほとりは戦慄きながら答えた。

「ありません」

喉が引き攣って声が震える。一人で死んでいくことを想像して涙が溢れた。腕の一本や二本で済むなどと考えていた己の浅慮さを悔いた。これでは相討ちだって難しい。刀を交えて生き残れる未来が描けない。

「あなたに斬られるのは当然の報いです。ただ、伊東先生の近くにいられないことだけが心残りです。死ぬなら、彼の傍らが良かった」

「そうかい」

一閃、鋼色が迸る。左半身に激痛が走って視界が赤黒く染まった。


20201027
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -