駒の運用
※真選組夢主
低気圧の所為で頭が重く痛い。雨が降りそうな雲行きを忌々しげに見上げ、書類を手に執務室を出た。結わえるのすら億劫で、鎖骨に届くほどの長さの髪は朝から下ろされたままだった。
作成を頼まれた書類を紙封筒に入れ小脇に抱え廊下を歩いていると、前方から歩いてくる人物が一人。声をかけてきたのは監察方の山崎退だ。やあ、と気軽に手を振られたのでほとりはつられて振り返す。
「お疲れ。…ほとりちゃん体調悪いの?」
「え、ああ、ジミーさんお疲れ様です」
「いや山崎ね」
「今朝から頭痛が酷いんです。すみません。顔に出てます?」
「出てないけど俯いてたから」
大丈夫?と様子を窺ってくる山崎の観察眼は鋭い。さすが監察方といったところである。密偵が務まるのだからこれくらいは呼吸をするのと同じくらい当然のことだろう。が、その観察眼で見抜いた不調はただの頭痛だ。
気象性のものだから薬を飲んだところで効き目がないとほとりは諦めて疼痛を受け入れていた。普段結んでいる髪が下りていることもあってかやや消沈しているようにも見えるのだろうか。適当に挨拶をして立ち去る最中、背後で山崎の声がした。
「あー、降ってきちゃったね」
霧雨だったのはほんの僅かで、瞬くうちに雨脚が強くなった。瓦を打つ雨音はリズミカルで足音と重なる。執務室の襖の前に膝をついて、体の不調を一時でも抑えるために一旦深呼吸してから少し声を潜めて声をかけた。
「伊東先生、わたしです。今よろしいですか?」
「寒河江くんか。ああ、構わないよ」
返答を待って、一瞬周りに視線を遣ってから執務室に入った。デスク前に座っている伊東の近くに腰を下ろしたほとりは紙封筒を差し出す。
「先日頼まれた書類をお持ちしました」
書類を手渡すと同時に伊東の掌へ7センチほどある棒状のものを滑り込ませた。互いに顔色を変えない。傍から見れば分厚く重い紙封筒を渡しただけだ。
「麻薬取引のブラックリスト及び主犯格の潜伏先候補、並びに麻薬売買組織の洗い出し一覧です。個人も含まれています」
書類は実際仕事で使うものだが、フェイクに近い。本命は、伊東の掌に収まったUSBメモリに収められているデータだ。近々行われる一斉捜査の際に検挙されると思しき攘夷浪士のリスト。名前、顔写真、素性、犯行履歴等の情報が網羅されたものである。
「いくらか雑なところもありますが、お急ぎかと思いまして」
伊東はほとりを横目に書類を捲り大雑把に眺めた。麻薬取引主犯格の顔写真がコマ送りに出ては消えていく。
「麻薬取引は年々巧妙になって取り締まりの目を掻い潜っている。正確な情報と緻密な計画を以て当たるべきだ。この書類は非常に役立つだろう」
伊東はいつだって正論だ。理路整然と述べるその姿は少しの綻びもなく完璧だ。ほとりにはそう見える。USBデータについては全く言及せず、伊東はほとりを見遣った。
「仕事が早くて助かるが、顔色が優れないようだ」
「天候が良くないので…申し訳ありません」
その所為で頭が痛い、と伊東から顔を隠すようにこめかみに手を添えた。なるべく平時と変わらぬ素振りを努めていたが、隠しきれずにいたらしい。恥ずかしく思った。
「近藤さんには伝えておこう。今日はもうあがるといい」
意外な言葉をかけられ驚いたほとりは控えめに食い下がる。執務室のデスクの上には手付かずの書類と仕掛かり案件が山積みになっているのを思い出す。一件でも多く片付けてしまいたい。
「ですがまだ仕事が…」
「至急の案件でも?」
「いえ、持ち越しても問題はないのですが」
歯切れの悪いほとりの様子からただ単に今日中に終わらせたいものがある、と察しがついた。伊東は眼鏡のブリッジを神経質に押し上げながら、呆れ顔で言う。
「効率をあげるためには休養も必要だ。休みたまえ」
呆れながらも高圧的であるように感じられて気圧されるまま、ほとりは謝辞を述べ早々に執務室から出た。明日は早くに出勤して仕事を進めよう。そんな計画を立てながら帰宅し、床に就いた。気が張り詰めていたのか、疲れが溜まっていたのか。ほとりはあっという間に寝入った。
*
自分より後進の新参者が良く扱われるのは、やや居心地が悪い。
「篠原くん、寒河江くんにも声をかけておいてくれ。先ほどの事項、もれなく連携を」
近日中に再度、攘夷浪士との会合があるため連れ立つように、とその旨を伝えねばならない。今、寒河江は土方派の連中と市中見廻りに行っている。伊東派の中でも特に伊東先生に近しい者たちが秘密裏に集まる会議で彼女の名前が出るようになって、だいぶ経つ。
「わかりました」
伊東先生は彼女を、寒河江を目にかけていると思った。真撰組に入隊して直ぐに彼女を参謀補佐に任命した。事務方兼参謀補佐。それが彼女の肩書きだ。少なく見積もってもよく働く女だ。日中は市中見廻りに加え公務をこなし、合間を縫い裏方仕事を片付ける。目立たない、仕事を黙々とこなす一介の隊士に何故そこまで。
北斗一刀流免許皆伝。着任も間もなく真撰組の参謀になった頭のきれるこの人がそこまで入れ込む理由が、寒河江には見当たらない。僕はずっとそう思っている。実は、昔から二人は認識があったのではないだろうか。
「寒河江とは、どちらで知り合ったのですか?」
僕の言葉を勘繰りと受け取ったのか伊東先生は軽蔑したような目線をこちらに寄越した。
「それが何だ?任せた仕事と何の関係がある?」
「い、いえ。彼女をよく連れていくので、理由があるのかと思いまして」
「無駄口を叩く暇があるのかね?篠原くん、君は仕事をすればいい」
たまに伊東先生が怖くなる。深さの知れぬ、負の感情で以って判断されているような、全く信頼されていないとすら感じる。言い訳は事態の悪化を招くだけだ。絶対零度の態度を前に、即座に謝罪した。
「も、申し訳ありませんでした」
参謀補佐には間違いなく伝えます。頭を下げ直ちにその場を離れた。なんて恐ろしい。肝が冷えたと同時に己の軽薄な行動に腹が立った。ふらふらとどちらの派閥にもいい顔をしている寒河江のせいで、僕は伊東先生の地雷を踏み抜いてしまったのだ。
語弊がある。そう認識はできていたが、一度着火した怒りを前にその理性は力を持たない。夕刻、見廻りから戻った寒河江に伊東先生からの言伝を伝えると、承知したと頷いた。
「篠原さん、わざわざありがとうございます」
そしてどこか嬉しそうに笑う。それは上辺の対応としてなのか、心の底から湧き上がる感情なのか。その笑顔にも、また腹が立った。
「寒河江。君は心底、伊東先生に気に入られているな」
「確かによくしていただいていますが、気に入られているなんてことは…」
言伝の内容とは全く関わりのない言葉に首を傾げながら謙遜する。仕事はできる癖に、こういうところには考えが及ばずとんと疎い。寒河江は、とぼけているわけではない。そういう性質なのだ。嫌味の一つや二つ、言わせてもらっても構うまい。
「伊東先生の派閥では新参者の君に、声をかけるように僕に言いつけたんだ」
「それは…」
「君ほどではないかも知れないが、僕だって仕事があるんだ。君の役職は参謀補佐だろう?会議の予定くらい合わせろ」
「…今後は気をつけます。言伝の件は、お手数おかけしました」
八つ当たりと分かっている癖に、黙って聞き入れる。僕の言い分は、到底納得などできないだろうにそれをおくびにも出さない。その懐の深さ、言うなれば器だろうか。無性に腹立たしい。困ったように眉を寄せて曖昧に笑うだけの寒河江が、伊東先生に気に入られている事実が、全てが癪に障るのだ。
*
少しばかり粗があると申し出た割には、USBメモリには申し分ないほどに完成されたデータが入っていた。寒河江の作った書類は押し並べて質が良い。初見で使えるかも知れないと看破した己の洞察力に違いはなかったのだ。
「さすがだ。素晴らしい出来だよ寒河江くん」
目の前に本人がいたら投げかけていただろう言葉が思わずこぼれた。控えめに笑みを浮かべて謙遜する様が浮かぶ。それと同時に、要らぬ邪推をした篠原の顔も思い出された。生憎と僕は他人にかまけている暇などない。使えるものは最大限利用するだけだ。
寒河江は伸び代がある。ならば伸ばして活用するのが自明の理。成果を出した者が優遇されて何の問題があるというのだ。年功序列や所属年数などで立場が決まる前時代的な組織なぞ、僕には相応しくない。
「部下は駒だよ。そして有能な駒は使うに値する。言われたことを、少しばかりの瑕疵もなく成し遂げることもできない人間が、僕に口答えするな」
怒りに任せ出てきたひとり言は執務室の闇にとけた。
「それにしても」
目をかけている、か。篠原は寒河江を贔屓していると感じているのだろう。思いも寄らない指摘ではなかった。実際、彼女は使い勝手が良いし成果も出し真面目に内部情報を流してくれる。ならば贔屓してやる。報酬をくれてやらねば、駒は動かないのだから。
20200524