歩幅を合わせて

仕事をしばらく休む旨を伝えたところ、患者たちから「働きすぎだから一週間と言わず一ヶ月くらい休んでこい」とすら言われてしまい、二週間の暇を取ることになった。仕事を休んで早々に、伊東とほとりは連れ立って武州へ向かった。

「休み明けは忙しくなりそうだなあ……」

「休暇中に仕事の心配をしたら休みの意味がないだろう」

「そうなんですけど、つい癖で」

自覚がなかったわけでははいほとりだったが、根っからの仕事中毒だったことを再確認させられた。一に仕事、二に仕事。寝ても覚めても仕事ばかりの日々がずっと続いていてはそうなっても仕方ない。更にほとりの場合は元来の性質がよりそうさせた。

「遠出なんか久しぶりです」

武州へ向かう列車の窓から見える街並みは、否が応でもあの日を思い出させた。隊士募集と騙い逃げ場のない列車の中で事を起こした。ありありと目の前に浮かぶ。白刃の煌めき。鼻をつく血の匂い。ふと足元にやれば、頽れている隊士がいるような気がして咄嗟に目を閉じた。

しばし二人は沈黙する。いくつもトンネルを抜けていくうちに、窓からの風景は緑が増えていった。風景こそ変わっていたが漂う雰囲気に、ほとりは懐かしさを覚える。列車を降りるとますます、戻ってきたんだな、と実感がわいてきた。

「伊東先生、お寺に向かう前に行きたいところがあるんですがよろしいですか?」

「寺子屋かい」

「はい。一緒に勉強した子たちがどうなったか話を聞きたいので。運営してる人が変わっていなければいいんですが」

見覚えのある道を辿る足取りは軽い。珍しく楽しそうな声色で昔話をしている。近くの川で冷やした西瓜を縁側で食べたこと。雪が降るとかまくらを作り遊んだこと。昨日のことのように思い出せるのは心の底から楽しかったからだ。ロクでもない幼少期の中で唯一明るい思い出、忘れられない大事な記憶だ。話を聞いている伊東の表情も柔らかい。

「君の恩師の授業を受けてみたかったよ」

「すごいですよ。生徒一人一人にマンツーマンで習熟度に合わせて授業進めてましたからね。わたしは先生と伊東先生のやりとりを見てみたかったです」

レベルの高い論議が交わされていたはずだろう、とほとりは思った。思い出話に花を咲かせて歩いていたが、なかなか寺子屋が見えて来ない。まだ五月とはいえ、陽射しが少し暑い。

「駅前からだいぶ歩いたが……まだ着かないか」

「そろそろですよ。少し休憩しましょうか」

「いや大丈夫だ……。寒河江くんは疲れないのか」

「全然です」

「健脚だな……」

「そうですかね? ああ、その角を曲がったところにあるんですよ。もしかしたら一人くらいは教師になってたりするかも……なんて……」

突然黙り込んだほとりは、前方を見つめたまま固まっている。曲がり角を行ったところにはなにもなかった。伊東もその光景に驚いて言葉が出ない。

「これは……」

「更地になってだいぶ経っているようだ」

手入れがされている様子がないことから、長年空き地のままになっていると推測する伊東の隣でほとりは立ち尽くしている。愕然として声も出ない。

「寒河江くん、大丈夫か」

「あ、ええ……はい……」

懐かしい場所に戻れ、膨らみきっていた期待は一気に萎んでしまった。昔のままであって欲しいと願ってしまうのは仕方のないことだ。伊東は周囲を見遣った。人通りも多くない上に、近くにある民家はどれも新しいもので、昔の土地事情を知ってるとは思えない。

「そうか、取り壊されちゃったんですね……」

信じ難い光景を受け入れるために、自分に言い聞かせるようにほとりは呟いた。頭ではどうにもならないことはわかっていた。しかし、心の方はそうはいかなかった。ここに在った寺子屋のその後を、どうにかして知りたい。仲間たちはどこへ行ったのか。どこか別のところで寺子屋は続けられているのだろうか。肩透かしな現実を前に、足が動かせない。引き返して寺へ向かおうかと思ったがどうも後ろ髪を引かれてその場から動けない。
そこに初老の男性が通りかかった。

「あなた方、ここいらの人じゃないねえ」

「用事がありまして江戸から来ました」

弾かれたように顔を上げたほとりは男性に詰め寄る。

「この辺りに寺子屋があったと思うんですがご存知ないですか」

「寺子屋?」

「はい。十五年ほど前、ここで男性が一人で切り盛りしていた寺子屋です」

「ああ、そんな時期もあったねえ。子供がたくさんいて賑やかだった。懐かしいもんだ」

急な問いに少し驚いたものの、男性はにこりと笑って答える。古くから武州に住んでいると自己紹介をし、寺子屋のあった場所が更地になったのは開発が進むよりずっと前のことだったと話す。

「小柄な男の人が先生だったのかなあ。その人は病気で亡くなってしまったみたいでなぁ。二年くらいは別の人が運営してたようだけど、建物の痛みが酷くてね。危ないからって取り壊されたよ」

「それで、そのあと通っていた子供たちがどうなったか、先生の消息などは聞いていませんか」

「うーん……風の噂で後任の先生と一緒にどこかに移ったって聞いたけど、どうだろうねえ。でも取り壊す頃にはだいぶ子供の数も少なくなってたんだよ」

ほとりが江戸へ行ってから取り壊されるまで、あまりに期間が短かった。寺子屋に寄り付かなくなった理由はなんだったのか。子供たちは家族のもとへ無事に戻れたのか、それとも他に訳があって来なくなったのか。複雑な家庭事情を抱えてあぶれた子供たちだった。前者であればいいと思うと反面、楽観的に考えるのは難しかった。ほとりは神妙な面持ちでいる。

「力になれなくてすまないね」

「……いいえ。教えてくださってありがとうございます」

「きっと、みんな元気に暮らしてますよ」

初老の男性はそう言い踵を返して歩き出したが、振り返って再びにこりと笑いかけた。

「そこの道を真っ直ぐ行ったすぐのところで茶屋をやってるので、よかったら一休みしてってください」

男性の誘いに乗り、二人は茶屋で一休みすることにした。伊東は冷茶を飲みながらほとりを見遣る。消沈している様子が手に取るようにわかった。

「大丈夫かい」

「ええ……すみません。こんなことになってたとは思いもよらなくて」

「予想しろという方が無理だよ」

「少しでもいいから帰って来ればよかったんです。就職の報告でもしに来ていれば、もしかしたら……」

「寒河江くん……」

ともに釜の飯を食い勉学に励んだ仲間の行方や現状が、ここにくれば必ずわかると思っていた浅はかさを恨んだ。氏家の築いたものは絶対に無くならない。ほとりは心のどこかで、無意識のうちにそう信じて疑わなかった。だから寺子屋がまるで始めからなかったもののように、人の記憶にもほとんど残っていないのが堪えた。

「伊東先生、わたしの恩師についてどこまでご存知ですか」

「寺子屋を営んでいた、としか」

興信所の調査ではほとりの生い立ちについてしか触れられていなかった。氏家についてはほとりから聞くまでは名前も知らず、ただ「寺子屋を営んでいた男」以外の情報はなかった。

「先生……氏家は、若い頃に人を殺して服役していたそうです。出所後、知り合いに借金して回って、ようやくできたのがあの寺子屋だったと聞きました。迎え入れるのはちょっと訳ありな子供が多かったんです。わたしのような、親に大切にされてない子供ばかりでした」

「そうだったのか」

「頼る宛のない子供たちの拠り所を作りたい、と言ってました」

頼りになる場所が必要だった子たちは大丈夫なのか、今どうしているのか、怪しい仕事に就いていないか、不安になりだしたらキリがない。

「拠り所か……」

「先生は、その……帰るつもりはないんですか」

伊東は無言のまま首を振った。家族には会わないつもりでいる、という。きっぱりと否定はしているものの、伊東の横顔はどこか寂しげだった。

「家族とやりとりももう何年もしてない。父親から様子を伺う葉書が来たのが最後だ」

「返事は……」

「出していない」

その頃の伊東には、父親に、しいては母親と兄に頑なに心を閉ざしていた。無視をする以外の選択が浮かばなかった。自分を拒絶していた母親の現在、兄が健在であるかも定かではない。

話題とは裏腹に、爽やかな風が通り抜ける。

「そういえば、なぜ武州に?」

「彼らの故郷だと聞いていたからね。一度来てみたかったんだ。彼らが生まれ育った辺りを見てみたかった」

「ああ……そうでしたね」

「本当は、僕が服役している間に墓参りに行ってみてはどうかと言おうかと思ったことがあったんだが」

意外な言葉にほとりは顔を上げた。

「仕事で忙しいようだったし、何より僕に会いに来てくれるのが支えだったから、なかなか言い出せずにこんなに経ってしまった」

「先生」

「自分勝手ですまない」

「わたし、支えになれてたんですね」

来訪を拒否せずにいたのは、伊東がほとりを必要としていたからだ。日々を虚無に過ごしていた頃の伊東が立ち上がり歩き出すにはほとりという杖が欠かせなかった。
「わたしはここに先生と一緒に来れてよかったです」

「それは良かった」

物事には自機がある。伊東を残して一人で墓参りに来るより、かつての仲間の故郷を独りで訪れるより、武州を訪れるには今が一番好ましかったのだと、二人は言葉にするまでもなく感じ取った。


茶屋を辞したあと寺へ向かうと、住職は来訪を快く迎えてくれた。納骨をした日以来の恩師との再会に、ほとりは墓石に向い深々と頭を下げる。

「氏家先生。ご無沙汰しています。来るのが遅くなってすみません」

ところどころ蜘蛛の巣が張り、雑草も生え放題だった。手入れのされていない様子は、来訪者がずっといなかったことを示していた。荒れた墓を目の当たりにしてほとりは悲しげに呟いた。

「本当に誰も来てなかったんだ……。でもそれも今日までです。来月、再来月、その次もちゃんと来ますから」

墓石の周りを掃除した後、水を汲みに行ったほとりの姿が見えなくなるのを確認して、伊東は墓跡に向かい一度頭を下げた。

「江戸に来る前に寒河江くんがあなたに師事していたと聞きました。彼女を救ってくださりありがとうございます」

伊東は静かに話し始めた。

「彼女は、寒河江くんは道を外した僕のもとに現れて背中を押してくれました。何年経ってもそれは変わらなかった。結果として僕は彼女に救われた。ただの部下としてしか見ていなかった僕はとんだ見当違いをしていました。あなたの生徒は素晴らしい人物です」

左手を摩りながらなおも続ける。

「この腕のお陰で滞りなく生活できるようになりました。感謝してもしきれません。彼女がいなければ僕はずっと寝てばかりの生活を続けていたでしょう」

顔も知らぬ、書類上で知った人物の眠る場所。口伝てにしか聞く手立てがない、氏家のひととなり。それでも蓄積されていた氏家の情報から、伊東はいつからか仄かに、叶わないと分かりつつも会いたいと思うようになっていた。

「あなたのような先生に会えていたら僕の人生はもう少しより良いものに変わっていたはずだ……きっと」

もしあの時、と遡れない過去を考えてもどうしようもない。わかっていても考えてしまう。しかしそれを振り払うように、伊東は顔を上げる。

「これから僕が何をなすべきなのか考えていかないと。彼女に、寒河江くんに、なにかできればいいんですが……。いいえ、生涯を通じて恩返しをしなければいけないですね」

伊東とほとりはまた来ることを墓前に約束して、寺を後にした。


武州から戻ってきた数日後、唐突に伊東は言った。

「家を改築しよう」

突拍子のない申し出にほとりは驚くばかりである。

「どうしたんです、いきなり」

「非行に走っていた少女が一人の男のお陰で更生した、という話を知っているかね」

「……もしかしなくてもわたしのことですよね?」

いつも理路整然としている割には珍しく、本題が見えてこないことにほとりは困惑した。伊東は構わず話を続けている。

「恐らく君はあの寺子屋で考えることを学んだ。困った時、迷った時、どうすれば解決できるか。君は、成績とはまた違った考える方法を氏家先生に教わった」

今まで従事していた仕事からはかけ離れた仕事に就き、ゼロから始めたほとりが仕事を続けていられるのは何故か。患者たちの信頼を得て実績を築いたからだ。信頼関係が築けなければ仕事はできない。考えることを諦めず人と向き合い続けた結果だ。そして、その根底には氏家の教えがある。

「僕は、ここで寺子屋をやりたいと考えている」

意を決して、伊東は打ち明けた。いつも以上に真面目で思い詰めたような顔つきだ。

「これは一個人としての意見だが、寺子屋は学問を教える場所だけでないと思うんだ」

「というと?」

「生き方を教える場でもある、ということだ。惑い、迷っている子たちに道を示すのも大人の役目のはずだ」

「生き方……」

「僕は、それを学ぶ機会が得られなかった」

伊東は氏家の墓参りをしたあと思案に暮れていた。伊東とほとりの相違点。頼れる人物、恩師の有無。生きる術や生きるため考え抜く力を与えられたほとりは、伊東にないものを持っている。

「僕は前科者だ」

伊東はほとりの顔を見遣る。ほとりは数え切れないほどの患者たちの義肢を作り、今も仕事がひっきりなしに舞い込んでいる。片や自分はどうだ、と省みても誇れるものが何一つない。何も築けていない。

「それならわたしも同じです」

「同じではないよ」

きっぱりと否定する伊東の表情は、言葉に反してどこか真っ直ぐとしている。

「君はもう歩き出している。でも僕はまだ立ち止まったまま、動き出せていないんだ。だからこれが最初の一歩だ」

静かに拳を握る。

「僕が前科者である以上、後進たちの立派な見本とは言い難い。でも、だからこそ道を外さないように教えることはできるはずだ。先に生まれたから“先生”でもあるはずだからね」

道を外した者の言うことなど誰が聞こうか。自分の口から出る言葉にさえ、伊東は疑いをかけている。しかし何もせずにいるのは容易い。殻に閉じ篭もるのは心地が良い。

「僕には、もう何もない」

組織をまとめていた頃を思う。もっと自分にできたことがあったはずだ。今でも真選組を束ねる立場にあったのであれば、もっとなにかできたはずだ。伊東は後悔を隠さずに言う。

「困っている子供を、一人ずつでもいいから助けてあげよう。子供たちの拠り所になろう。子供たちに寂しい思いをさせないためにも、僕らは冷たい雨から守る屋根になってやらないといけない」

伊東は更に続けた。

「迷ったが、何もやらずに君の仕事の手伝いをしているだけではいけない気がしてね。僕にできることは多くない。だからこそ、できることをきちんとやりたいんだ」
「そうですね、やりましょう」

ほとりの迷いのない返答に、伊東は目を丸くしている。

「己の誤りや過ちをただす姿勢を忘れなければ、きっと理解してくれる者いるはずです」

伊東に何を言われても肯定的に受け止める。ほとりはそう決めていた。

「それに、嬉しいです。伊東先生も同じことを考えていたんですね」

「え?」

「わたしも寺子屋を始められたらいいなと思ってたんです」

精神面でも肉体面でも、伊東の状態は非常に良好だった。義肢製作に関わる雑用も以前より増えていたが、それがない時は家事をこなし本を読み過ごしている。仕事の手伝いはありがたかった。しかし伊東の頭脳明晰さを知っていたほとりは、雑務をさせているのは勿体無い、と常々考えていた。

「それに、ほら、わたし刺されたでしょう」

塞がっている傷を摩りながらほとりは言う。

ほとりを刺したのは十歳の少年だった。少年の家は貧しく機能不全家庭で、アルコール中毒の母親に暴力を振るわれる日々。事件当日も母親にしこたま引っ叩かれ、逃げるように歌舞伎町に繰り出した。家賃を払うため、飯にありつくため少年は日常的に万引きやスリを繰り返していた。

後に判明したことだが、事件当日、母親の機嫌が殊更に悪かった。手ぶらで帰ったら殺されてしまう、と切羽詰まっていた少年は一人の女を見つけた。茶屋の軒先で茶を飲んでいたほとりを見た少年は「片目の女が相手なら財布くらいは簡単に盗める」と思い付いたのだという。そして、傍にいた男が去るのを見計らい死角から近寄り脇腹目がけて体当たりをし、刺傷事件になった。

「事情聴取をしてわかったことらしいんですが、実はその少年、読み書きも計算もできない状態だったそうです」

寺子屋に通いたいという願いは母親に受け入れられることなく、辛い日々に少年は二進も三進もいかなくなったことも事件の要因だった。その少年は保護観察期間を終え、現在は職に就いている。

「同じような事件を起こさないためにも、寺子屋を開く必要があると思ってたんです」
「そうだったのか」

目の届く範囲で、手の届く範囲で。できることは多くない。だから一つ一つ拾い上げていこうと二人は決めた。

「改築して教室を作るにしても」

二人は家の間取りを思い出す。台所と居間、風呂に厠以外にはほとりの私室兼仕事の作業場と、伊東の私室。共有部屋と言いつつ物置同然になっている部屋が一つ。それぞれ三畳半しかない。

「使えるのは物置になってる部屋しかないですよね」

「ああ。だから庭を少し狭くしてしまおうかと。そうすれば六畳くらいの部屋になると思うんだ」

「なるほど。庭を使う手がありましたか」

「居着いた猫たちは一旦保護しよう。追い出すのは可哀想だし」

「そうしましょう。資金ですが少しわたしの貯金を崩せば、足しになりますかね」

「いや、君にばかり頼っていられない」

「先生、貯金あるんですか……?」

「う……その……いま手元にあるのは雀の涙程度のものなんだが……」

驚くほとりの視線を受け、気まずそうにしつつも伊東はきっぱりと宣言した。強い意志が漲るような声だ。

「すぐ職に就くのは難しいとは思うが、だからといって何もしないのはよくない。必ず僕も働く」

伊東の前向きな姿勢が何より嬉しい。

「それに君の恩師なら、ここが我慢の挑戦のしどころだ、と言うだろうからね」

「先生……」

伊東の口から恩師の教えの言葉が出てきて、ほとりは嬉しいような切ないような気持ちに抑えが効かなかった。大粒の涙がこぼれ落ちていく。

「え、ちょっ……、寒河江くん、どうしたんだ」

「う、ぅえ……ずみまぜん……」

「泣かないでくれ、どうして君はそういきなり……!」

「ご、ごめんなざ……」

自分以外の誰かにも、氏家の教えが届いていた。氏家の教えが、口伝てでも自分以外の誰かにも届いていた。届いた先で受け止めてもらえた。それが嬉しくて涙が止まらない。慌てふためく伊東の様子を前に、ほとりは悲しいのではないと言いたかった。しゃくり上げて言葉にならない。

「頼りないかもしれないが、懸命にやるよ」

ありがとうの代わりに、ほとりは涙に濡れて不恰好な顔で笑った。



伊東とほとりがともに暮らし始めて、そろそろ二年が経とうとしていた。

弥生義肢製作所を訪れた者は「賑やかだった」と言う。製作所に併設された寺子屋から子供の元気な声が絶えず聞こえてくるからだ。家を改築してすぐに子供を迎え入れることになり、現在は三人の子供が寺子屋にいる。

「鴨先生、ここ教えてください」

「ぼくもわからないからかもせんせい、おしえて」

「わかった。一人ずつ話を聞こう」

伊東は非常に丁寧な授業をした。時間と手間を惜しまず勉強を教えるその様子に触発されたのか、子供たちも自発的に勉強をするようになっていった。ほとりは仕事の合間を縫いつつ、勉強を教えている。義足を作り終えて一息入れようとしたところ、生徒に声をかけられた。

「今日はどっか出かけたりする?」

「ううん。今日は問診がないからずっといるよ」

ほとりはどんなに忙しくても氏家の月命日の墓参りを欠かさなくなった。毎月のある日に一人、あるいは伊東と連れ立ち武州へ赴くことを子供たちは知っている。出かけないことに安心したのか、生徒がほとりの作務衣の裾を引っ張った。

「じゃあ、ここ教えて」

「人に物を頼む態度じゃないな。伊東先生にはいつも丁寧にお願いするのにわたしにはできないか?」

「……ほとりセンセイお願いしますー」

「棒読みが気になるけど仕方ないな。どこがわからないの」

生意気な態度に呆れながら教室の隅に腰を下ろした。

「あれ? ここはこの前に伊東先生に細かく教わってたでしょ」

「何度聞いてもわかんねえんだもん」

「わかんねえんだもん、じゃないのよ。で、教本は読んだ?」

「読んだけどわかんねえ。だから教えろ」

「なんだその態度は。さっきより酷いだろうが」

「いででで」

二言目には生意気を言う男児の頬を抓ると渋々謝った。教本を広げ解けない問題に難儀している割に生徒の表情は楽しそうで、ほとりを見上げている。

「ほとりには何でも聞けるから気が楽だぜ」

「お前は減らず口をどうしにかしな。別に何回聞いてもいいんだよ。伊東先生はいつも教えてくれるでしょ?」

「……鴨先生が時間かけて教えてくれてのにわかんねえのが嫌なんだよ」

生徒の顔からは悔しさが滲んでいた。自分の不甲斐なさから足踏みして伊東に声をかけられず、助けを求めたのだとわかると途端に愛おしくなってくる。ほとりは小さな頭をぐりぐりと撫で回して笑った。

「お前はいい子だなあ」

「うわ、いきなりなんだよ」

「伊東先生でもわたしでもわかるまで好きなだけ質問しなよ。お前の腹に落ちるまでしっかり付き合うからね」

「本当は鴨先生がいいけどほとりで妥協してやるよ」

「このクソガキ……」

座学が終わり、子供たちが自由に遊んだり本を読む様子を伊東とほとりは静かに眺めている。

「みんな熱心に打ち込んで、上達ぶりには目を見張るものがあるよ。子供の吸収力というのはとてつもないな」

「伊東先生の教え方がいいんですよ」

昨日できなかったことがあっという間にできるようになっていく。その過程を見るのはとても誇らしかった。

「伊東先生の方がわかりやすいって文句言われちゃいましたよ。先生には敵いません」

「僕は生徒たちと本音を言い合ってる君が羨ましく思うよ」

「教えてたらわかりにくいから嫌だ、とか言われますけど?」

「でも言われた分はしっかり懲らしめてるだろう」

「そりゃ、きちんと上下関係を保たないといけませんから」

「ははは。君のその小気味いい対応が子供には人気があるようだ」

「そうですかあ? 先生って呼ばれたことないんですよ、わたし。さん付けならまだ許せるけどちゃん付けされる挙句に呼び捨てですよ?」

「懐かれているじゃないか」

「ナメられてるとも言えますよ」

一見すれば粗雑に見えるほとりの対応も、伊東から見れば立派な指導だ。自分にはできない対応だ、と伊東は口にはしないがいつも感心している。

「ま、わたしがナメられるのは構いません。子供は生意気でナンボですし」

「ナメられてはいないよ。僕が保証する」

黙々と仕事をしているのを見て「ほとりちゃんお仕事頑張りすぎてないかな」とか「ちゃんとご飯食べてるのかなほとりさん」などとこっそり聞いてくるのを伊東は知っている。子供は好まない人の心配などしないだろう。

「寺子屋、はじめて良かったですね」

「ああ」

「みんな嬉しそうに言ってくるんですよ。伊東先生の教え方が優しい、授業が好きって。それ聞いてたらわたしも嬉しくなりました」

「そうか、みんなそんなことを言ってくれたのか」

ほとりの言葉に、伊東は微笑んだ。

「あたたかいな」

「今日は天気いいですもんね」

「それだけではないさ」

このありふれた優しい毎日がずっと続けばどれほどいいか、どれほど幸せか。ほとりと再会してからの年月を振り返れば、優しい木漏れ日のような毎日が連なっていたことに伊東は気がついた。

「寒河江くん」

「はい」

「一緒にいてくれてありがとう」

「そばを離れない、と約束しましたから」

穏やかな陽射しの中で二人はそっと手を取り合った。


20230427
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