前途
伊東とほとりは面会室で他愛もない会話をしている。
「傷の調子は順調かい」
「はい。先日抜糸してきました。まだ皮膚が薄くて違和感がありますが、もうすっかりよくなりました」
再会して三ヶ月が経とうとした頃、伊東は長かった入院生活に終止符を打った。退院したあとも三日と空けずほとりは面会に訪れて短い時間を目一杯使って話をするのが日課になりつつある。
「それはよかったが、ちゃんと寝れているのか? クマが少し濃いようだ」
「はあ、実はちょっと立て込んでまして」
「来てくれるのは有り難いが、自分の体調を優先すべきだ。君は昔から仕事熱心がすぎる」
「頼ってくれる人に応えないわけにはいきませんので……」
そう言うほとりはまさしく仕事の合間である。隙間時間に伊東の面会に訪れている。面会のあとも予定があり病院や患者のもとを訪れる予定だ。伝えると、過密なスケジュールに伊東はため息を吐いた。
「少し休みたまえ。効率的に仕事をするために、計画的な休息は必須だ」
「ふふ、前にも同じことを言われました」
「そうだったか?」
「はい。仕方ないので今日は早めに休みます」
「仕方ないとはなんだ。僕は君を気遣って言ってるんだ」
「はい。承知してます。さっきのは冗談ですよ。心配してくれてありがとうございます」
真面目一辺倒な伊東はたまに冗談が通じない時がある。それをわかっていてほとりは少し揶揄うようなことを言う。些細なやりとりで、互いの距離が少しずつ縮まっていくようで嬉しかった。
「伊東先生はどうですか。体の様子は。腕は馴染みましたか」
「ああ。まだ不慣れだが一人でできることが増えてきたよ」
そう言って左腕を動かす様は確かに少したどたどしい。しかし以前に比べれば着実に扱いに慣れていた。
「男子三日会わざれば刮目して見よ、ですね。次会うときはどうなってるのか楽しみです」
「使い方が少し違うような気もするが……」
ゆるやかだが、確実に伊東は回復していた。時間はかかるだろうが必ずよくなってくれる。そのためにはなんでもしよう、とほとりは常々考えていた。それと同時に疑心を抱いた。装具士としてまだ未熟な自分が本当になんでもできるのだろうか、と。伊東のためにできることはないか。あれこれと考えても最終的に出てくる答えはいつも同じだった。
伊東の話に耳を傾けること。かつては仕事の話を通してでしか互いを知る機会がなかった。だが今は違う。互いにどこにも属さない人間として言葉を交わす。会う回数に比例して会話での情報量も増えていった。
ほとりは伊東の過去を知らない。
だから話をする中で、その腕を買われ江戸の北斗一刀流の道場に推挙されたことを知ったほとりは心底伊東を尊敬した。キレのある太刀筋は幼い頃からの努力の賜物である。
「名門道場への推挙となればご家族は喜んだでしょう」
「……」
伊東の表情が曇る。
「僕には兄がいたんだ、双子の兄が」
「そうだったんですか」
「ただ病弱でね。元気に駆け回ってばかりの僕を見た母は、二言目には兄の体に障ると言っていたよ」
伊東に双子の兄がいた。それに驚き興味深そうに聞き入っていたほとりの表情が強張っていく。
「両親にとっては兄の方が大事だった」
「そんな」
二言目には兄・鷹久の体調を気遣う両親を思い出して伊東は目を伏せる。辛い。できれば思い返したくない。心の奥深くにしまい込んでおきたい記憶だ。
「僕は次男だったから……」
言いかけて伊東は驚いた。
「どうして君がそんな顔をするんだ」
「だって……」
鼻声で言い淀むほとりの目元には涙が浮かんでいる。どれだけ寂しかっただろう。どれだけ望んだのだろう。幼かった伊東の気持ちを思えば思うほど胸が苦しくなっていく。できるのであれば、幼い伊東のもとへ今すぐに行って一人ではないと抱きしめてあげたい。そう思うと涙が堰を切って溢れ出した。
「いどうぜんぜい……」
「う、うわ、顔を拭いたまえ。そこにティッシュがある」
ほとりは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている顔をティッシュで覆った。
「わたしは……わたしはたまたま頼れる人と会えたけど」
堪えようとすればするほど涙は溢れていく。伊東にとって己で築き上げたものだけが全てだった。
「伊東先生は、ずっと一人で」
誰にも認めてもらえず見向きもされなかった男の願い。自分の存在を在るだけでいいのだと言ってもらえなかった男の望み。それは誰かに理解され受け入れられること。
「寂しかったですね……」
他人との関わりが希薄だった理由を知った。黒い制服に身を包んでいた頃の伊東の在り方と過去が繋がっていく。
「ああ、僕は心底寂しかったんだ」
そして誰かに隣にいて欲しかった。幼い頃から伊東が抱えていた願いがようやく、少しづつ叶いつつある。
「寒河江くん」
「はい」
「ありがとう」
「お礼を言うのはわたしの方です」
仕事を教えてくれて、関わってくれて、義手を着けてくれて、そばにいさせてくれて。挙げたら数えきれないほどに、伊東が自分を受け入れてくれたことにほとりは感謝した。
伊東の話を聴く。伊東の顔を見に行く。同時にほとりは自分のことも話すように心がけた。仕事で忙しく面会が難しい時期にはマメに手紙を寄越した。
『庭先に猫がよく来るので確認してみたら、縁の下に住み着いていました。伊東先生は猫がお好きでしたよね。わたしも動物は好きなのでこのまま居候してもらおうかと考えています』
勝手につけた名前を呼ぶと振り返ったり反応も示すし置いた餌に口をつける。その割には手を伸ばしても寄ってこない。かと思えば庭に出ると縁の下から顔を覗かせたりするのだという。警戒しているのかしていないのか、距離感がつかみにくいと記されていた。
「猫は自由気ままな生き物だ。掴みのどころのなさが彼らの魅力だろう」
ほとりからの手紙を読み、伊東は少し笑う。僅かながらも余裕が生まれてきた証拠である。伊東の前に広がる真っ暗だった道がほとりと再会したことで仄かに明るくなったようにも思えた。
*
「義手を作り直したい、ですか」
伊東の口から出た言葉を反芻した。
「いますぐというわけではないんだが、いずれまた、剣の稽古がしたいと思っている」
照れが見え隠れする顔を見て、ほとりは心が跳ねた。俯いて下ばかりを向いていた頃とは違う。顔を上げてやりたいことを見つけ始めている。己の意志で作りたいと申し出てくれたことが何より嬉しい。
「先生のつけている義手は他にもいくつか種類がありまして。最近は絡繰を用いたものもあるんですよ。そちらを希望される場合は、わたしだけでは作れないので絡繰技師とも調整が必要になるんですが」
稽古の時だけ手先を交換できる義手にするのもいい、と言いながら仕事用のカバンを探る。取り出したのは冊子で、実際に義手や義足をつけている様子の写真などが載っていた。それを見せながらほとりは説明を続ける。
「稽古だけじゃなく、できる動作が増えるので日常生活も楽になると思います。わたしが担当した患者さんで同種の義手をつけている方がいるんですが、ご家族の介助なしで生活していますよ」
義手の高い性能から得られるものを語りつつも押しつけるようなことを一切しない。職人としての寒河江 ほとりは、伊東には新鮮に見えた。
「今お話したように、選択肢の幅はだいぶあります。義手の重さや手入れの手間なども考慮していきましょう。使用感の好みもありますから」
腕が未熟だと言う割にはほとり の立ち振る舞いには芯があり自信に満ちている。真選組にいた頃には見ることのなかった姿だ。
ふと伊東は呟いた。
「寒河江くん、君は強いな」
「そうでしょうか」
「しなやかというのかな、とても順応性があるし向上心もある。どこでも生きていけそうだ」
「それは褒められてると受け取っていいんですよね? ちょっと貶されてる気もするんですが」
「かつての仕事と今の仕事、畑違いだっただろう」
地域安全のための見回りに攘夷浪士の取り締まり。真選組の仕事は多岐に渡った。朝から晩まで駆けずり回るような忙しさで、屯所に戻らない日もあった。しかし今の仕事は職人である。
「そうですね、似通った部分は少ないかと」
武州を出たばかりの頃、生活費が底を尽きそうになったほとりは短期バイトで食い繋いでいた。生活のために時給の高い仕事を選ぶ以外に選択肢はなかったし、仕事の内容を選り好みしている余裕もなかった。工場勤務から清掃員、工事現場や催事、ガールズバー。そして真選組。よくもまああちこちを渡り歩いたものだと思った。
「君のそのへこたれない、しなやかさはどこから生ずるんだろうか」
「どこから……」
言われるまで意識などしたことがなかった。しかし、ほとりはすぐに答えを導き出したのか少し笑って背筋を伸ばして話し始めた。
「わたし、十四くらいになっても読み書きがほとんどできなかったんです。寺子屋に行くようになって初めて勉強しました。座学は心底つまらなくてサボってばかりいたんですが」
伊東は以前自分が秘密裏に調べたほとりの過去について思い出した。伊東とほとりの幼少期の相違点。頼れる人物の有無だ。
「わからないと投げ出す度に恩師から、ここが我慢と挑戦のしどころだ、と言われました」
「我慢と挑戦……」
「はい。理解できないと匙を投げたら何も変わらない。だから辛い時こそ続けろ、と」
「辛い時こそ……」
「あそこにいた頃、わたしは自分のことをゴミクズだと思っていました」
親に見放されて自暴自棄になって底知れぬ悪の沼に飛び込もうとしていたほとりを真っ当な世界に引き戻したのは他でもない氏家であった。
「ことある事に反発して生意気言ってばかりのわたしをゴミクズではない、と言ってくれた」
そこにいるだけでいいのだと教えられた。ほとりは噛み締めるように呟いた。
「思い当たる節はこれくらいしかありません。親からは何もしてもらえなかったし……氏家先生がいなければもっと酷いことになっていたと思います」
「恩師であり、恩人だったんだな。その人は」
「ええ。親より親らしく接してくれた人でした」
伊東は、ほとりに救いの手が差し伸べられたことを知った時に臓腑の奥深くに澱んだ気持ちが生まれたことを思い出した。どこかで羨ましいと思っていたことに、伊東は遅まきながら気がついた。
「良い人と出会えたんだな……」
きっかけが自分であれ他者であれ人は必ずどこかで躓く。その度に立ち上がって歩き出せればいい。だが僕は、と伊東は呟く。
「僕は、それができていなかった」
「先生?」
「自分の足で立ち上がって歩く、ということが僕はできていなかったようだ」
伊東の心は遠く昔に置き去りのままになっていた。しかし立ち上がれずにいた伊東の隣には、ほとりがいる。
*
顔色が悪い、と思ったのは二週間ぶりの面会の時だった。以前に比べれば朗らかな表情を浮かべることが多くなっていた。その伊東の顔つきが硬い。参謀だった頃の伊東鴨太郎の顔をしている。
「どうかしましたか」
「ああ、少し体調が悪くてね」
声色もどこかよそよそしく棘がある。投げやりな雰囲気を醸すのを心配そうにしているほとりと視線を合わせないように下を向いて、伊東は話し始めた。
「精神的ストレスに起因する体調不良、というのが主治医の見解だ」
伊東は焦っていた。
一朝一夕、わずかな時間の間に劇的に回復したいと先走る気持ちに反して体はなかなか動かない。退院してだいぶ経ち、体力も戻ってきているはずなのに周りの受刑者たちと比べると作業量は少なかった。だから牛の歩みのようにしか改善していかない病状を抱えている自分が嫌で仕方なかった。
義手を用いることで、片手では難儀する作業が簡単にこなせるようになっていた。僅かな達成感が嬉しくて黙々と作業していた伊東だが、それを嗤う輩が出始めた。三人の男たちが作業の合間合間に茶々を入れてくるのである。
「悩みの八割は人間関係、とは的を射ているよ。全く」
揶揄いに反応すると面白がって事態が悪化するのを知っていた伊東は無視を貫いた。それが面白くなかったのか三人の行動はエスカレートしてきている。
目指す理想像と現実の己のと差異に情緒不安定になっていたこと、加えて所内での人間関係に不和が生じていたこと。これが伊東の体調不良を招いていた。
話を聞き終えたほとりは静かに口を開いた。
「なるほど、所内に不届き者がいるんですね」
顔を上げた伊東は面食らった。ほとりが立ち上がって仕切りのガラスに顔を押し付けんばかりに詰め寄っているのである。
「不敬な態度をとる者たちはわたしが成敗しましょう」
「何?」
「嫌味を言われたり、嫌がらせをされているんですね。他になにをされましたか? 先生の私物がなくなったり盗まれたことはありますか? 怪我を負わされたことは?」
ほとりは矢継ぎ早に言った。
「やられたらやり返さないと向こうはつけ上がります。先生が困っているなら今すぐにでも乗り込みましょう」
「やめたまえ。君が言うと冗談に聞こえない」
「どんな風体ですか。年齢は。背丈は。細かに教えてください」
「いや、大丈夫だ。問題ないから、ひとまず落ち着くんだ寒河江くん」
「いいえ、大いに問題があります」
鼻息荒く着物の袖を捲るほとりは主人に仇なす者には容赦しない、と威嚇している犬のようだった。
「人を笑う者は多少痛い目を見ないと理解しません。自分のやっていることがどれだけ害を及ぼすことなのか、人にどれだけ嫌な思いをさせるか」
眉を吊り上げて低く唸る。般若のような顔つきになっていく。
「そいつらは懸命に勤めている人を笑うんです。ロクな思考を持ち合わせていない証拠です。言ってもわかるはずがないんです。勧告もどこ吹く風、警告されてからが勝負だと考えていておかしくありせん。手は早いうちにうつべきです。先生に代わってわたしがやります」
「寒河江くん、わかった。君が心配してくれるのはよくわかった。だが暴力はだめだ。事態が拗れるし、理由はどうであれ手を出した方の立場が悪くなるのは君も知っているだろう。落ち着くんだ」
後日聞いた話ではあるが、あの無愛想な主治医には既に事情を知っていて、然るべき措置を取れるように他の部署に働きかけているという。義手装着を勝手に押し進めた主治医の印象は悪い。信頼していいのかと問うほとりに「少なくとも、以前よりは僕の話を聞いてくれるようにはなった」と伊東は答えた。何かあってからでは遅いと気を揉んだがその後、看守の監視が厳しくなったこともあり件の輩たちとトラブルになることはなかった。
月日が流れるのは早い。瞬きをする度に季節が移ろうようだった。仕事の合間に顔を合わせる回数、交わした手紙も膨大な量になっていった。
ある年の四月、よく晴れた日に伊東は出所した。出迎えたのはほとりただ一人であった。数年ぶりに外を歩く伊東の歩みは緩やかだった。一歩ずつ踏み締める伊東の隣を、ほとりもゆっくりと歩く。
「もうすっかり葉桜になってしまったな」
「そうですね。でも家の近くはまだ満開なんですよ。庭からよく見えるので外出しなくても花見ができます」
「それはいい」
弥生義肢製作所の近くには桜並木がある。ほとりの言った通りまだ満開の盛りで風が吹くと花びらが空に舞い上がった。なんのことはない春の景色の一つだが、伊東の目にはその桜吹雪がいたく風流に映った。
その桜を眺めながら小さな縁側で二人で並んで昼食をとった。縁の下に居着いてしまった猫が二匹、庭の隅で日向ぼっこをしている。
「……僕が、こんなに真っ当で普通の生活をしていいのだろうか」
「どうしたんです急に」
長閑な景色を見遣って低い声で呟いた。伊東は重たい過去を引きずって生きていかねばならない。刑期は終えた。だからと言って過ちは消えない。あのまま出所せずにずっと罰を受け続けている方が分相応で、世のためになる。伊東は鬱々と言う。
「僕は仲間を裏切った。暗殺を企てた。部下を唆した。そんな外道の僕が、」
足を踏み入れようとする新しい生活は眩しかった。暗い世界に戻って息を殺しながら残りの人生を消費し、ひっそり死に絶えるのが似合っている。それが伊東の言い分だった。
「僕は必要とされてない人間だ。だからあのまま」
「先生」
ほとりは伊東の言葉を遮った。
自分は不幸であるべきだ。伊東の心にはこの考えが巣食っている。真選組を混乱に陥れた罪は消えない。だから、これ以上なにかを望んではいけない。人以下の扱いを受けて死ななければ贖えない。伊東鴨太郎という存在を嫌悪している伊東の手を握り、ほとりは強く言い切る。
「先生。二度とそんなこと言わないでください」
「寒河江くん……」
「確かに、わたしたちはしてはならないことをしました。だからと言って人並みの生活を送っていけないわけではないはずです。わたしたちができるのは」
伊東の手をもう一度強く握り直した。
「自分の行いを決して忘れず、道を外さずに生きていくことではないでしょうか」
人のためになることをする。それがほとりにとっての「道を外さず生きていく」ことだ。伊東の義手を作るために就いた職で、既に大勢の人間の手助けをしている。
「わたしは伊東先生のそばを決して離れません。伊東先生が健やかな時も病める時も隣にいます。一人で立っているのが辛いなら支えになります。立ち止まる時も、進む時もずっと一緒です」
物心ついた頃から脆い足場で倒れないよう必死に踏ん張りながら立っていた伊東は、ようやく安心できる場所を見つけた。ほとりの手を握り返して涙ながらにようやく呟いた。
「本当に、君は強いな……」
「いいえ。先生がいるからここまで来れたんです」
ほとりの声は震えている。
「急がなくていいんです、先生。ゆっくりでも、立ち止まってもいいんです。少しずつ進んでいけばいいんです」
*
新しい生活が肌に馴染むのは思ったより早く、伊東のやれることは徐々に増えていった。家事にかかる時間が減ったこともあり、ほとりの仕事の雑務も手伝うようになっていった。が、日を重ねる毎に伊東は閉口した。ほとりの働きぶりが異常なのである。
夜明けとともに起床し、夜明け近くまで仕事をしていることもある。平日と休日の区切りも曖昧で朝から晩まで動き回っている。行儀が悪いからと注意したが、時間がないのを理由に食事をしながら仕事をするのも日常茶飯事。作業台に突っ伏すように寝落ちしているのを見つけたのも数知れない。一ヶ月が経つ頃、伊東は痺れを切らしたように尋ねた。
「寒河江くん。この仕事を始めてから月に何日休んでいるか教えてくれないか」
夕食のサバの味噌煮を口に運ぶ手を止めてほとりはしばし考え込んだ。
「えー……と、週一で休みはあるので月に四日は休めてはいるか思います」
「嘘はいけない」
この一ヶ月、伊東はほとりの実働時間を気にしていた。起きている間は仕事、食事と風呂と手が空いた時間だけが休み、と言っていいほどだった。休みらしい休みはほとんどなかった。その休みも勉強に費やすのが常で体を休めるという意味での休みには一切当て嵌まらない。というのも、伊東が服役している間も仕事に勤しんでおり、歌舞伎町近辺に留まらず全国から依頼が入るようになった。舞い込む仕事の量と一人の装具士がこなせる量を考えれば、休む間などなかった。
「言っただろう、休養は計画的にとれ、と」
「は、はぁ……」
「このままではいずれ体を壊す。休むんだ」
「そうしたいのは山々なんですが……」
若いうちは無理がきくがその反動はやがて訪れる。ほとりの身を案じる故に強い物言いをしたことを詫びながら、伊東は申し訳なさそうに言う。
「すまない、僕が言えた立場ではないが……」
伊東もいずれ職に就きたいと考えていた。
医療刑務所で不本意ながら付き合いの長かった無愛想な主治医は、雇用契約期間の延長を申し出ずに退職した。市井の人々を診るため歌舞伎町からほど近い一画に開院したのだという。現在も、伊東のカウンセリングを行なっているのはこの男である。
働きたいのだと申し出た際、言い方こそ厳しくはなかったものの「所詮は前科者が就ける職は限られているし選り好みなどできない。更に前科者の病状へ配慮を求めるなど至難の業だろうよ」と諭された。それ以降、伊東は就職したい気持ちを仕舞い込んだまま黙々と主夫業に勤しんでいる。
「いいえ。気を遣わせてしまいすみません。患者さんや取引先に相談してみます。実は最近ちょっと貧血気味で……」
「完全に過労だよ、それは」
ひとまず休みを取る言質をとれたのを、伊東は安堵した。体調不良の兆しがあるのであれば可及的速やかにする必要がある。
「まず睡眠と食事をしっかり摂るんだ。家事は全て僕がやる。君は休んでくれ」
「それじゃまるで病人みたいです」
「当然だ。病人一歩手前なんだから。休むのが仕事だ」
「家事分担の意味がないですよ。それに寝てばかりいるのは逆効果だそうです。ご馳走様でした」
「お粗末さまです」
伊東の料理はほとりの舌に合った。時間捻出のため流し込むだけだったがここ一ヶ月の間、食事をとるのが待ち遠しく感じるほどだ。
空になった食器を洗いながら、不意に伊東が尋ねた。
「そういえば、武州には帰らないのかい」
思いもよらない問いにほとりは少し考えて表情を曇らせた。皿を拭きながら口を開いた。
「両親が今どうなっているか、まだ武州で暮らしているのかすら知らないんです」
親の記憶は希薄だが顔と名前は覚えていた。捜そうとすれば見つけることは可能だろうが、ほとりはそれをしなかった。
「実を言うと、興味がないと言いますか……今更顔を合わせたところで言ってやりたいこともないし……」
「言葉が足りなかった。そうではなくてだな」
「え?」
「江戸に来たきり一度も帰ってないなら、恩師の墓参りをしてないんじゃないか」
はた、とほとりは手を止めた。
「確かに……そうです」
ほとりは氏家の四十九日を待たずに江戸に来ている。それっきり武州には足を向けていない。今までどうして思い至らなかったのか。ほとりは申し訳なく思っていると、伊東が申し出た。
「君が差し支えなければ、僕も一緒に行って構わないだろうか」
20230415