分水嶺
かぶき町は四六時中そこかしこでアクシデントやらハプニングやらが発生するがここ数日は妙に静かでのどかだった。

飼い猫が木に登って降りられなくなったので助けて欲しい。

大事な人からいただいた形見を落としたが届いていないか。

昼間から酔っ払いが喧嘩しているので仲裁に来てくれ。

入る通報と言えば些細なものがほどんどで切った張ったの刃傷沙汰とは縁のないものばかり。嵐の前の静けさとでもいうのか、これから何か大事が起こるのではと疑うほどにのほほんとしていた。こんなに時間の流れが緩やかに感じる日が今まであっただろうか。仕事に忙殺される日々の中で不意に訪れた僅かないとまに、土方の脳内の端に追いやられていた事象がひょっこりと顔を覗かせた。

「ああ、そういやあ……」

腰に差した愛刀の柄を摩り、うむ、と独りごちると徐に屯所を出た。心地よい空気に程よく柔らかい秋晴れの空の下、土方は馴染みの鍛冶場に足を伸ばしていた。

「事故で片腕を切除せざるを得なくなったからしばらく鍛冶場は閉じる」

そんな連絡を受けてからもう半年が経っていた。夥しい攘夷志士を斬り捨てて刃こぼれしたときも、激しい鍔迫り合いで刃が欠けたときも駆け込めばいつだってすぐに刀を鍛え直して職人だ。療養の間は伝を頼りに他の刀鍛冶に手入れをしてもらったが相性が合わなかった。職人の割には気難しさがなくこざっぱりとした性格で気さくに話せる数少ない人物だ。面に出さないだけで早く戻ってきてはくれないものかと心から思っていた最も気心の知れた、腕のいい者が仕事を再開するというのだから挨拶くらいはしておかねばならない。

「よう親父。鍛治場をまた開くらしいな。腕はどうだ」

「土方の兄ちゃん。迷惑かけちまって悪かったな。見てくれよ、この腕」

肘から先を失くした、とは聞いていたがどういやって仕事をするつもりなのか。その疑問に対する答えが目の前にあった。

「義手をつけたんだ。耐熱性だから今まで通り仕事ができる」

男の腕についているのはおおよそ腕と呼べる形をしていなかった。義手であることを主張するように無骨な黒い金属が肘から生えて、その金属の先には鍛治道具を掴めそうなかぎがついている。右手で槌を振るい、左の義手で刀身を押さえる。そんなこともできるのだと、男は意気揚々と話している。

正直なところ土方は見た瞬間「なんだコイツは」と思った。

職業柄、様々な市民と関わる。面と向かって税金泥棒だの人の嗜好を貶す癖に自身は糖尿病手前の超甘党の万屋屋なとど怪しい仕事を生業にしている男、隊内で最も腕の立つ部下としょっちゅう喧嘩をしている割にはいざとなると妙に馬が合う仲である戦闘部族の大食い少女や局長が日々勤務を差し置いてストーキングに勤しむキャバ嬢やその弟、再就職と離職を繰り返しホームレスになっている男などなどなど挙げればキリがない。

様々な事情を抱える市民の中、ごく僅かだったが腕を失くした者を数人見たことがあった。事故だったのか怪我だったのか生まれつきなのかは定かではないが、存在しない腕の代わりに動きを補う義手を見たときに土方が抱いた印象は「似せてはいるが作り物の手がついている」というものだった。だが目の前に差し出されたものは違う。極力義手とわからないように左右の腕に差異のないように作られたそれらとは一線を画す設計になっている。

「まだリハビリ明けで体は鈍っているし勘も戻ってねえ。半年前と全く変わらず、とは言えないがこうしてまた鉄を打てるのが嬉しくて仕方ねえよ」

再び刀を作れるようになったのを喜ぶ顔は晴れ晴れとしている。腕の形についてあれこれ尋ねるのは無粋だ。土方は言葉を飲み込んだ。

「助かるぜ。ここら辺にはアンタに優る刀鍛冶はいねえからな。また頼む」

「もちろんだ」

「しかし義手ってのはなかなか機能的なもんだな」

「ああ、これは仕事用だ。肘から先は付け替えできるんだよ」

当初は腕らしさも形状のものを求めていたらしいが鍛治仕事の重労働と機能的な面を考慮すると難しいと判断されたそうだ。それを聞いた男は見た目を優先するより鍛治仕事の再開を目指したいと改めて強く考えた。その考えを汲んで作られたのがこの義手だ。刀を打つために必要な要素だけを取り込んだ機能特化型の義手には見た目を繕う必要はない。腕の一部と仕事道具が一体化した職人の腕。無骨で物々しくはあるが、その徹底した「仕事の再現」のための選択には芯の通った信念のようなものを感じた。

「鍛治仕事ができる義手なんか作れないって何人にも断られたが、腕のいい義肢装具士がいてよ。その人が作ってくれた」

「ほう」

「その人が若い女でよ。兄ちゃんよりいくらか若かったぜ」

「女の装具士なんているんだな」

「珍しいよな。事故だか怪我で左目をダメにしたみてえでよ、眼帯をしてたぜ。片目でよくもまぁ細かい作業をやってのけるもんよ」

土方の脳裏にはかつて仲間だった女の顔が浮かんだ。刑期は明け、既に出所しているがその後どうなったかは定かではない。屯所にいる当時の事件を知る者の中で女の行方を知る者はいない。女の関わった事件で多くの隊員を亡くした。甚大な害を被ったことを考えれば、犯した罪の大きさを鑑みれば探そうと考えに至るはずがない。土方はそう考えている。

「左目のない若い女、か…」

刑期を全うしたなら罪を償ったことになるのか。それで死んだ隊士たちは戻ってくるのか。本来なら主犯とともに斬り捨ててあの女も既に亡き者となっているのが道理なのではないか。だがそう考えない者もいる。いや、生得的な人の良さ故にそう考えられないと言った方が適切かも知れない。同じ釜の飯を食べ苦楽を共にし、一つの志の下に集い今日まで歩いてきた深い繋がりのある男の顔を思い浮かべた。

――甘い。甘すぎるぜ近藤さん。

近藤の今までの態度を思い返して呆れた土方だったが人のことを言えない。近藤が他者に対し非情になれないように土方も近藤に対してそんな風に思ってやる謂れなどないだろうと冷たく言い放つことも非情にもなりきれない。

「その女がやってる診察所ってのは、どこら辺にあるんだ」

「ああ、ここに住所書いてあるぜ。ほれ。隣町の外れだよ。ほとんどが仕事場みたいな質素な造りの一軒家だったなあ」

荷物置きに使っている机から小さな紙を取る。渡された名刺を見た土方は首肯して呟いた。

「灯台下暗しってのはこのことだな」

製作所とその主の名前、住所に電話番号が几帳面に記載されている掌に収まるサイズの紙を胸ポケットにしまった。

「この名刺しばらく借りるぜ」

「構わねえが、帰るのかい。刀を預かるくらいはできるぜ」

「ああ。ちょいと用ができたんでな。また今度顔出す。刀はそん時頼むぜ」

鍛冶場を後にして土方はしばし黙考した後、屯所への道を歩き出した。名刺に書いてある住所にこのまま足を運ぶ方が手間はかからないだろう。だが、いい機会だと思った。

「未練タラタラなのもこれっきりになってくれればいいんだがな」

タバコを咥えながら土方は独りごちた。



執務室で書類と格闘している山崎のもとへ沖田がやってきた。脇に束になっている書類を二つほど抱えている。

「お前が報告してた件だがやっぱり昔の事件と関係ありましたぜ。証拠はこれでさぁ」

一番隊隊長が監察方とともに書類片手に麻薬密売事件の犯人の洗い出しをする。真選組は相も変わらず人手不足である。差し出された書類に目を通して納得いったように頷いた。

「ああ、やっぱり思い違いじゃなかったんですね……」

と同時にその書類の作成者を見て山崎は手を止めた。

寒河江 ほとり

久しぶりに見る名前だ、と思うと同時に腹の傷跡がじくりと痛み出したような気がした。

「六年もあれば事件なんか風化しますぜ」

書類を手にしたまま硬直している山崎の隣で茶を啜りながら沖田は呟く。光陰矢の如しである。新人隊士たちの中には事件を事故と認識したままの者もいる。

「今頃はどうして……いや、考えてもどうしようもないですよね」

主犯格の手助けをした者は既に出所していずこかで暮らしている。わかっているのはそれくらいだ。どうしているのか、と思いを巡らせる者も少ない。過去の出来事と割り切るにはあまりに大きな損害だった。かと言って恨みつらみの数々を述べ続けるには時間が経ちすぎた。亡くなった仲間たちの復讐をと考えた者はおそらくいない。思い返すのも口にするのも憚られる出来事の影響は時間が徐々に癒したが事件の前に戻るようなことは決してない。しこりはずっと残り続けてる。

「近藤さんてばよく書くぜ」

「何をです?」

「葉書」

沖田の口から出た意外な単語に山崎はキョトンとしている。近藤と葉書が結びつかない。

季節の変わり目、近藤は葉書に近況をしたためていた。家の近くの飯屋の酒が美味い、意中のキャバ嬢には相変わらず相手にされない、などなど種になる話題ばかりだ。剣一つで成り上がって来た男にしてはだいぶ荷が重い作業だったが慣れればそれなりに面白さを見出せるものだったし、ほとりと唯一の繋がりでもあった。

もちろん、送る先があればの話である。

「ふとした拍子に思い出すんだと。気がついてやれなかった俺が悪い。もっと何か方法があったはずだ。あいつと、ほとりともっと腹を割って話せていたらこんなことには、ってずっと考えてるみてえで。それで葉書を。さっきも書いてたぜ」

柄じゃねえのによく続くもんだ、と沖田は呆れて肩を竦めた。局長室の座卓の引き出しには送られることのない葉書が仕舞われている。それを知ってるのは土方と沖田くらいだ。山崎は意外な事実に驚きつつも訝しんで沖田に質問をした。

「ん……? 沖田隊長、なんでそんなこと知ってるんですか?」

「施錠してない引き出しに入れとく方が悪いんでぃ」

「えっ、盗み見ってことじゃないですか」

勝手な振る舞いに驚いていると廊下を歩いてきた土方が視界に入った。馴染みの鍛治屋に行ったはずだが戻りが案外早かったことに山崎は不思議に思いつつ背筋を伸ばす。

「副長お疲れ様です」

「おう。総悟、近藤さんはいるか?」

「局長室にこもってますぜ。まだ文筆活動に精を出してるんじゃないですかね」

返事もそこそこに土方は通り過ぎた。沖田と山崎は書類片手に仕事をしつつも気持ちは他所を向いており作業は止まっている。

「百万歩譲って今でも気にかけてるのはいいとして、ほとりだけじゃなくてあのヤローにも情けかけちまって。自分を殺そうとした奴だってのに全く。近藤さんは甘いぜ」

沖田の脳裏には事件当日のことが思い出されていた。片腕を失い出血多量で死にかけている伊東の元へほとりが駆けてきて「わたしはどうなってもいいからこの人を助けて」と今まで聞いたこともないような悲鳴を上げながら助けを求めた。何を今更都合の良いことを。冷ややかで誰もが見放す選択をしてその場に立っているだけだった。それが変わったのは近藤の「救護だ! 怪我人を直ちに手当てしろ!」と鋭い声が響いて空気が一転したからだ。局長命令だと厳しい口調に背中を押されて隊士の大半が動いた。重篤な伊東を優先的に手当てし救急搬送した。事の対応に土方は異を唱えたが頑として近藤は命令を変えなかった。

「ま、甘いのは俺も同じですかねェ。人のこと言えねえや」

己の命と上司への忠誠。圧倒的な力量差の敵を前にして逃げ道があるなら、誰だって迷わず遁走する。天秤にかけても自分の命が重いに決まっている。真選組の隊員なら士道不覚悟で切腹ものだが、あのとき沖田の前にいたのは隊を離反した女だった。あの状況下、ほとりは震えながらも決して逃げず立ちはだかり涙声で「あの人の傍にいようと決めた」と言った。泣くのを我慢している様はまるで子供だった。恐怖に必死で堪えて剣を構えていた姿が目に浮かぶ。ほとりの行動を忠誠の一言で片付けるには些か違和感がある。駄々をこねる子供っぽさと、決して退いてはいけないと覚悟を決めた武士の顔。全くもってちぐはぐだった。

その違和感が沖田にらしくない選択をさせた。峰打ちで腕を挫き刀の切っ先で目を潰すに留めるなどとそれこそ局中法度に触れる。だが、それは誰も知らないし、自分が生きている理由に薄々勘づいているだろうほとりも既に真選組にはいない。

「近藤さんは人のいいところばかり見つけて悪いところは見ようとしないけど、あれはあまりに悪手だったぜ。局中法度の意味がなくなっちまった」

「局中法度第二十一条、敵と内通せし者これを罰する……ですね」

土方が再考して代替となる条文を出したが以前と同じ効力を持っているかは甚だ疑問である。しかし今のところ真選組の隊士が攘夷浪士とのつながりを持つような事案は発生していない。

重く暗い空気になっていると土方がまた部屋の前を横切った。私服の流し着になっている。

「あれれ、土方さんてばニコチン切れでまたお出かけですかい。タバコ吸うためにサボるのはいただけないなあ」

「そんなんじゃねえよ。諸用だ諸用」

「今週号のジャンプ買ってきてもらってええですかい?」

「だからサボりじゃねえよ!」

おちょくる沖田の態度に文句を言いつつ土方は屯所を出ていった。その後ろ姿を見てつまらなそうに口を少しばかり尖らせる。

「近藤さんの愚痴聞くのもいつもアイツだ。ちっ。面白くねえ」

相変わらず副長の地位に腰を据えている土方の存在が目障りなのはあの頃から変わらない。沖田は悪態をついて書類に再び目を通し始めた。

「オイ山崎。仕事手伝ってやってんだから昼飯なんか奢れ」

「えっ勘弁してくださいよ。昨日だって僕のお金で散々お肉食べたじゃないですか」

「この書類を見つけてきたのが誰だか言ってみやがれってんだ」

「ぐ……」

有無を言わせぬ口調に山崎は渋々沖田の主張を受け入れた。



かぶき町の隣町のその端。繁華街として賑わうかぶき町とは打って変わって未だ昔ながらの田園風景の名残りがある辺りに建つ一軒家の前に土方はいた。戸口の横には小さな看板が掲げられている。家と釣り合いを取るように看板も控えめだった。

弥生義肢製作所

木彫りの看板に書かれている名前が名刺と相違ないことを確認し、戸を拳で数回叩く。大きくはない一軒家だが人の気配があるかはわからない。しばらくすると戸の向こうから微かに応える声と、パタパタと家の中を早足で駆ける音がした。戸口を開けた向こうに立っていた女は土方の姿を見たあと顔色を変えて深々と頭を下げた。長かった髪は耳の下辺りで切り揃えられている。

「土方さん、ご無沙汰してます」

顔を上げた女は昔と比べれば幾分か落ち着いた声色で挨拶をした。土方の予想通り、装具士はほとりだった。左目を眼帯で覆い作務衣を着ている。幾らか痩せたように見えた。

「お元気そうでなによりです」

「お前もな」

「その節はご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした」

表情を険しくして頭を下げようとするのを土方は制止させた。それでも「謝って済む話ではないことは承知しています」と謝罪をしようとしている。意固地な奴だと思いながら土方は診療所の中へ足を踏み入れた。聞いた通りこじんまりとして質素だ。戸口を入ってすぐ小さな土間の奥に板の間があり、そこに置かれている机に仕事道具がきれいに陳列されている。作りかけの義足がいくつか並んでいるのも見えた。

「咎めに来たんじゃねえよ」

「それならどうして……」

「かぶき町の鍛治職人に義手をつけてくれただろ。あのオヤジは俺の知り合いでな。長いこと刀を研いでもらってる。他の職人に任せると肌に合わなくてな」

「そうですか」

「で、そいつからお前の話を聞いて来た。深い意味はねえ」

「……そうですか」

そう言ったきり目を逸らしたままだ。埒があかない。土間の隅にある椅子に腰掛けた土方を見てほとりは眉を顰めた。

「……ここに来る前に煙草吸いました?」

「おお」

「どうりで煙たいわけだ……」

「そんなに匂うかよ」

「あの、人に会う前は自重された方がいいんじゃないでしょうか」

「偉そうに言うじゃねえか」

平静を装っていた土方の額に青筋が浮かんだのを見て反省したほとりはすぐさま詫びを入れた。

「ごめんなさい。禁煙した身からするとしんどいんです、臭いが障って……。すごくイライラして頭に血が上るというか……破壊衝動っていうんですかね、むしゃくしゃが止まらなくなるんです」

「お前タバコ吸ってたのか? 初耳だな」

「寺子屋に行く前から吸ってました。お世話になった先生に咎められて辞めるまで、多分一年くらいでしたけど一日二箱は吸ってたと思います。かなりのヘビースモーカーでした」

摂取量の多さに目を剥いた土方をよそにほとりはぼやく。思い返すだけでも辟易するのか拳を握りしめている。

「所構わず吸ってるから土方さんの傍にいるの嫌だったんです」

「テメェの上司に倣ってああいう態度かと思ったぜ、俺は」

「違います。今更言っても信じないでしょうけど、わたしは土方さんのこと嫌いじゃなかったです。……タバコさえなければですけど」

「そうかよ」

再び沈黙が流れた。部下が上司をどう思っていたとか今更知って何になる。重苦しい静けさが続くのに耐えられず土方は口を開いた。

「仕事はどうだ」

「見ての通りです。でも、仕事柄こっちの方がいいんですよ。閑古鳥が鳴いてなんぼです。職人として腕が上がらないのが悩みですが」

怪我、病気、事故に遭い腕や足を無くさない限りここには縁がない。しかし悲しいかな仕事はなくならないし必要とされてしまう。土方の馴染みである刀鍛冶はほとりのお陰で再び仕事ができるようになった。

「腕が上がらねえ、か。オヤジはえらく喜んでたけどな。使い勝手がいい義手のお陰でまた仕事ができるってな」

「それはありがたいですね。でもまだまだです。不具合があれば調整が必要だし改良の余地があれば作り直します」

「手間がかかってんだな」

「はい。快適に生活を送れるように義肢を作るのがわたしの仕事ですから」

会話が途切れる。人気の多くない土地柄か、昼間にもかかわらず辺りは静かで時たま住民が道を通るだけで賑わいはないに等しい。

「表の看板に弥生ってあるがあれはなんだ」

「ああ、わたし三月生まれなので」

「そうだったのか」

「やだな、わたしの履歴書を見てたなら知ってるはずですよ。でも土方さんなら経歴の方を重視して見ますよね」

その者の生まれ月など些末な情報である。ほとりの言う通り土方にとっては部下の誕生日など全く記憶にないし覚える気もさらさら無い。

「下の名前をつけるのもしっくりこないし苗字は硬い印象だし目立つから嫌だったので。だから弥生です」

ほとりが簡潔に理由を話すせいで話はまるで膨らまない。そろそろ話の種がなくなってきた。気不味い空気を変えたのはほとりだった。

「わたしはあなたに対して非礼な態度ばかり取っていました。それ以上にあの事件を引き起こしたこと、心からお詫びします」

深々とこうべを垂れる。顔を上げたほとりの表情は覚悟を決めたように険しく眉間に皺が寄っている。塞がりつつある傷を自ら開こうとするように触れ難いそれを口にする。自責の念に駆られない瞬間はなかった。いつだって引き留めることはできただろう。何故考え直させられなかったのか。何故同調したのか。何故、超えてはいけない一線を超えたのか。ほとりは拳を握りしめたまま語る。

「わたしは伊東先生を諫めることもできました。でもしなかったんです。悔いています。止めるべきだったと、どうして止めなかったのかと……。不甲斐なく思います」

近藤に伊東の生存を知らされてから、どんなに後指を指されても軽蔑されても生きていたいとほとりは思っていた。どこかで生きている伊東を思いひたすらに勉強をし、開業に漕ぎ着けた。体の一部を失くした人を助けたいと銘打って製作所を営んでいるが胸の内に思い浮かべるのはただ一人。腕を失くした伊東の姿が最後の記憶。ほとり自身も怪我を負い朦朧とする意識の中でどうにか見た姿だ。その朧げな記憶に縋り腕を磨いている。それも罪深いのだと自覚していながらも止められず一心不乱に義肢を作り続けて今に至る。その胸の内をここで初めて、己を真選組の仇敵と認識している土方に吐露した。

「出所後に腹を切るつもりでしたが、彼が……伊東先生が生きていると知って、この選択をした私を斬りに来たのかと思いました。あれだけの事態を引き起こしたのだから罰は受けるべきだと」

伊東に与して真選組の乗っ取りを企んだ女。近藤が引き取った恩を仇で返した犬畜生にも劣る女。刑期を終え出所しかぶき町の近くでのうのうと生きている忌まわしい女。土方にはほとりの背後に死んだ隊士たちの亡骸が転がっているのが見えた。裏切らなければみな生きていた連中だ。数多もの隊士の命を踏み躙っておきながら生きている。土方は女を一瞥し刀を床に叩きつけるように立てる。鞘の重々しい音が響いた。

「今すぐ斬ると言ったら?」

「拒否する権利などわたしにはありません。受け入れます。斬ってください」

ほとりは膝を突いて首を差し出した。髪が流れてうなじが晒される。切腹に用いる短刀を投げてやればすぐさま掻っ切ってもおかしくないほどの潔さだ。淀みない動きを横目で見つつ土方は息を吐く。

「言っといてなんだがよ、そのために来たんじゃねえんだよ。立て」

「……すみません」

「まずはこれだ」

差し出されたものを手に取って首を傾げた。全く身に覚えがないものだったからだ。葉書だというのはすぐにわかったがどうしてそれを渡されるのか想像がつかなかったようだが、宛名に自分の名前があるのを見て信じられないものを見るようにまじまじとその文字を目で追った。葉書を裏返すと近藤の無骨な文字が並んでいる。ほとりを思いやる言葉、思いが溢れてくるようだった。

「この六年で近藤さんが書き続けたもんだ。お前の居所を知らなかったからな。送れずに持ってたんだとよ」

「こんなにたくさん……」

「悩んでたぜ。二度と会うことはない、みてえな態度とったのを後悔してるって延々とな。酒が入るといつも聞かされるハメになる」

「近藤さんが最後の機会って言ったのに……。優しいなあ、本当に……わたしなんかに……」

恐る恐るゆっくりと葉書を読んでいるほとりを横目に土方は近藤の立ち振る舞いを思い返していた。深酒になると近藤は決まって「トシよぅ、聞いてくれえ」と言った上で半泣きになりながらほとりの話をする。一通り聞き終えてもその後に続くのはこれも土方にとっては忌々しき伊東への気遣いと心配の言葉。素面の時は微塵も見せないのに酒が入れば入るほど普段口にしない分ボロボロとこぼれ落ちるように出てくる。人前で酒を飲みはするが舐める程度になったのはこれが原因だ。

「そのうち返事を書いてやれ」

「書いていいんでしょうか。わたしなんかが」

「葉書の宛先はお前だぞ。近藤さんが喜ぶのはどういう時かわかるだろ。テメェで判断すりゃいい」

「……はい。そうですね」

季節の花々の挿絵が入った葉書。らしくない。似合わない。どんな顔をして買ったのだろうか。憎んで当然の人間を思い遣りその上、届くか定かではないのに書き連ねられた文章。不器用なりに誠心誠意込めた感情が乗った言葉。書かれた単語ひとつひとつ、文字すらも愛おしい。

「恩を仇で返した人間にこんなに優しくしてくれる人、世界中どこを探したって近藤さん以外にいません。ずっと、こんな……」

できるなら今すぐ駆けていってあの大きな体に抱きついて謝りたい。勝手なことを、恩知らずな行いをしてごめんなさい。止めなくてごめんなさい。伝えたい言葉が溢れてくるがそれを伝える資格など今の自分にはありはしない。ほとりは掠れる声で名前を呼んだ。

「こんどうさん……」

次第に鼻声になって嗚咽を漏らし始めたほとりの頬を涙が伝っては手の甲に落ちていく。正座を崩さず頭を下げたままほとりはぐずぐすと鼻を啜る。しばしの間、俯いていたが葉書を大事そうに手に持ちほとりは姿勢を正して向き直った。赤く腫れた目で土方を見ている。

「葉書を届けるためにわざわざ来られたわけじゃないですよね。何か他に用があったんじゃないですか?」

葉書を大事に抱えながらも腑に落ちないらしく不安げな表情をしているほとりは土方をじっと見遣っている。葉書を渡しに来ただけだ。そう答えることもできただろうが、もうとっくに決めたことだった。聡い奴だったなと土方はまだ仲間だった頃のほとりの立ち振る舞いを思い返しながら立ち上がった。

「知り合いに腕をなくした奴がいてよ。診てやって欲しいんだが俺から頼んでもいいか」

「はい、お受けできます。来ていただくのが難しいようならわたしが先方に伺います。場所はどちらですか?」

「住所はここに書いてある」

土方は懐から二つ折りになった紙を取り出して差し出した。ほとりは両手でそれを受け取って開いた。

「病院……」

「詳しくはそこに行って主治医に聞け。じゃあな。達者で暮らせよ」

聡いのだからそこに書いてある情報から全てを悟るだろう。土方は一方的に話を切り上げでさっさと製作所を出て行った。申し訳程度に舗装された道を歩いていると声がした。

「土方さんっ!」

振り返るとほとりが数メートル後方で立ち尽くしている。裸足のまま外まで追いかけてきてかつての上司の姿を見つめて数瞬の後、深く頭を下げた。大きな仕事のミスもなく、煙を嫌がっていたとはいえ舐め腐った態度を貫き喧嘩を売ってきても挑発してきて結果的に謹慎を言い付けられても頭を下げたことなどただの一度もなかった。そのほとりが深々と頭を下げている。そして新たに涙を滲ませた目で土方を見据えた。唇を戦慄かせ震える声で言った。

「教えてくださってありがとうございます。このご恩は決して忘れません。あと、タバコも吸わないでくれて……すみません、生意気ばかりで」

「おう」

じゃあなと背を向けながら後ろ手に手を振った。

達者で暮らせよなど、皮肉を言ったものだ。どんなに己の行いを食いて改心しようが贖罪には値しない。この女は死ぬまでずっと罪を背負って生きてゆくべきだ。往生するその間際まで、この行いを悔いてゆくべきだ。それがこの女に課された罰だ。そしてアイツも、と土方は一人の男の顔を思い浮かべた。

振り返らず去っていった土方の後ろ姿が見えなくなってようやくほとりは手の内にある紙に視線を戻した。書かれている文字を一つ一つしっかり視認してその文章の意味するところを改めて理解した。

「わたしが、彼の腕を」

土方から渡された紙には思い焦がれた人物の名前が書かれていた。


20220924

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