在りし日
家族と過ごす時間より札付きのワルたちに囲まれている時間の方が長かった。人に言うのも憚られるような悪事を平然とやる。それが日常だった。

「なんでもいい。金目の物は全部盗れ」

仲間四人で空き巣を計画し、武州では少しばかり身入りがよい家を狙って夜半に集まった。錠前破りもお手の物。鍵を開けて暗がりの中を我が物顔で屋敷の中を徘徊した。売ればそれなりになる物を盗み家から出た途端、待ち構えていた自警団と思しき男たちがあっという間にほとりを拘束し、仲間はそれを見て蜘蛛の子を散らすように走り去った。

「もう逃さねえぞ。クソガキめ。ようやく捕まえた」

「くそっ!離せよ!」

「痛えな大人しくしやがれ!こいつ蹴りやがった!」

「大人しくさせろ!」

男たちから逃げようとほとりは必死に体を捩る。まだ逃げる余地はある。目の前に立つ男の鼻っ面に頭突きを見舞ってやり、右腕を掴んでいる恰幅の良い男の股間を蹴り上げる。半身が自由になって走り出そうとした途端に体が重くなって背中を見遣れば、鼻血を流しながらほとりの腰にしがみついてる。これではもう身動きが取れない。男の一人が棍棒を持ち出した。

「やってくれたなクソガキィ…!」

激しい抵抗をおさめるためではなく仕返しのために容赦なく振り抜かれたそれは腹部にめり込んだ。吐瀉物を滴らせながら地面に膝をついて悶絶しているほとりの襟を、男が掴む。

「年貢の納め時だなぁ!」

殺されるかもしれない。空き巣に入って捕まって死ぬとか間抜けすぎるだろ。ほとりが自嘲的にそう思った時。

「いやぁ、すみません。その子は私の生徒でして、きつく言って聞かせますので見逃していただけませんか」

一触即発の場にそぐわない声に驚いたのはほとりだけではなかった。深く頭を下げていたのは見ず知らずの初老の男性だった。眉尻は下を向き、優しげで小柄でいかにも 押しに弱そうな男が自警団の男たちの前に立っている。

「盗んだものも使ったお金も全てお返しいたしますので、どうかお願いします」

もう一度深く頭を下げた男の名は氏家と名乗った。

「他に三人、空き巣を働いたがそいつらもお前の生徒か?」

「さあ…そちらは存じませんねえ」

せっかく現行犯で捕まえたのにみすみす逃すのか、と男たちは声を潜めて話ている。襟足を掴まれて身動きがとれないほとりは成り行きを見守るしかできない。盗み持ち出され散乱する金品を拾い集めて氏家は男たちに差し出した。

「生徒の過ちを正すのは師である私の務めです。近頃妙な輩と連んでいたのはわかってはいたのですが止められず…。こんなことになり申し訳ありません。しかし年端もゆかぬ女子相手になんとまあ…」

乱闘のうちにぶつかったのか、鼻血が出てほとりの顔面は真っ赤に塗れている。傍から見れば大人が子供を暴行しているとも受け取れる状況だった。

「私、足には自信がございます。ちょっと一走りして番所に駆け込んでお役人を呼んでくることもできますが…いかがしましょう?」

血と吐瀉物が混じって異様な臭いを発するこの汚らしい小娘と番所に行くかはたまた見逃すか。後者を選んだものの釈然としないらしく五人の男たちは氏家とほとりを何度も振り返りながら暗がりに消えた。

「大人相手によく立ち回ったねえ。大丈夫?」

馴れ馴れしい態度が気に食わない。差し出された手を叩いてほとりは立ち上がる。じくりと腹部が痛む。

「助けてくれなんて頼んでねえぞ」

「でも捕まらず済んだでしょ?結果オーライだよ。君、名前は?」

「……」

「ん、まあいいや。あとで教えて。服も洗わないと臭いよ。帰る場所ないんでしょ。おいでポチ」

「犬につけるみてえな名前で呼ぶな!」

氏家は武州の片隅で小さな寺子屋を切り盛りしている男だった。行く宛がなかったほとりは嫌々ながらも住まうことになる。ほとりの他には幼い子供が三人と十歳ほどの少年が一人いるだけで寺子屋とは名ばかりだった。

翌朝より、男児に文字の書き取り練習をしている氏家に促されるがままやってみたがまともに教育を受けていないためろくに書けなかった。書けもしなければ読めもしない。座学はただ面倒な時間で、嫌気が差して隙を見て逃げ出してばかりいた。文無しの非行少女が町に繰り出せばやることは一つ、万引きなど朝飯前だ。しかし店の品物に手をつける前に氏家に見つかり寺子屋に引き摺られながら帰る。そんなことが何回も続いた。

ならば町ではなく森に隠れるべし。寺子屋の周りにある雑木林を抜けた先にある川辺、どこぞのガキが作って忘れ去られたらしい秘密基地ような藪の中。灯台下暗しだ。近場にいるとは思うまい。裏をかいたつもりでいたのはほとりだけで恐ろしい速さで見つかってばかりいた。この日も廃寺で暇を潰してうつらうつらしていたらいつの間にか目の前に氏家が立っている。

「見つけたよ」

「ぎゃあ!!なんでここがわかった!?」

「武州は僕の庭みたいなもんだからね。非行少女が行きそうな場所なんて手に取るようにわかるよ」

「ふん、ハッタリには乗らねえ」

「この次は河原沿いの藪近くの墓地に隠れるんでしょ。あそこは地元民でも知ってる人多くない場所だからね。君もよく探し出すねえ」

「マジでわかるのかよ気味悪ぃな!」

「墓地にたむろするのは止めなさいよ。縁起悪いでしょ」

どこに隠れていてもほとりを探し出し連れ帰り勉強しようと勧められる日々。あまりのしつこさに折れて勉強部屋にいる時間が増えたが脱走癖は抜けず進捗は牛歩の如く。全く変化がなかった。

「ここが我慢と挑戦のしどころだよ」

ろくに読み書きができないほとりが勉強を放り出しそうなる時ありとあらゆる場面で氏家はよくこう言った。

「わからないからって放り出したらずっとわからないまま。あとちょっと頑張れば理解できるのにどうして辞めちゃうのさ」

氏家とほとりは小さな机を挟んで座っている。壁に寄りかかって鉛筆を手慰みに回している問題児に向き合う師。周りには子供たちがいる。

「我慢も挑戦も誰がするかよアホくせえ」

「あーあー、ほとりちゃんてばわからないとすぐ駄々捏ねちゃって赤ちゃんみたいでちゅねえ。十四歳児のおっきい赤ちゃんでちゅねバブバブ」

二言目にはこれだ。勉強を投げ出したほとりを小馬鹿にし挑発して赤子だとからかうのが常である。

「うるせえなクソジジイ!」

おちょくる氏家に向かって事あるごとにほとりは叫んで反抗した。ニコニコと笑ってばかりの男が気に食わなかった。

「いやいや参ったね。毎朝鏡見る度に思ってるのに生徒にまで言われちゃ堪らないね。ははは」

「ヘラヘラ笑ってんじゃねえよ!死ね!」

「悪口のレパートリーが少ないなあ。語彙力がないねほとり」

「う、うるせえよ!」

煽りも詰りもまるで意に介さない。罵詈雑言は氏家の耳を通ると心地よい歌にでもなるのか、いつも口元を緩ませて優しく微笑んでいるだけだった。

「いいじゃないか。ほとりに迷惑かけてるわけじゃなし、怒ると疲れるから笑ってる方がいいよね」

「四六時中にやにやしてて気色悪ぃんだよ。何が愉快で笑ってんだタコ野郎」

「え?四六時中僕を眺めてるなら勉強してよ。クソジジイって言う割には熱烈だね。ツンデレかな?」

「うぜえキモい死ね!」

逮捕され牢屋にぶち込まれようとどうでもいい。父も母も自分を迎えには来ない。刑期を終えて出所したら更に悪事に手を染め生きていくとほとりは決めていた。自暴自棄で好き勝手な生き方を止められて腹立たしかった。だからあれやこれやと手を回し世話を焼く氏家にひたすら反発した。

「てめぇにわたしの何がわかるんだよ。ほっとけ」

悪ガキと認識され始めた頃に母親の友人から咎められた。馬鹿げたことは止めなさい、どうしてそんなことするんだ、と。その時も同じ言葉をかけてやった。上辺だけ心配する奴らを黙らせる言葉。何もわからない癖に説教垂れんじゃねえ。このジジイも黙るだろ。大人はみんな同じだと鉛筆で畳を叩く。

「なにもわからないかなぁ。また知り合ったばかりで全然ほとりと話せてないし」

拒絶をさらりと受け流した氏家に肩透かしを喰らいほとりは間の抜けた声を漏らした。

「はあ…?」

こういう時大人は「君の事情はわかってる」と抜かしてくるはずだった。非行に走る青少年を先入観と偏見で判断する、今まで見てきた大人とは違う反応を見せる氏家は床に散らばる教本を拾いながら姿勢を正した。

「わかった振りはできるけどそれは本人に失礼だからね」

机に教本を置きながら氏家は続ける。

「あとね、人生どん底まで落ちると這い上がるのにすごく手間がかかる。だから止めたんだよ」

「あっそう。だから?」

「僕は若い頃に人を殺しちゃったから寺子屋始めるのに二十年もかかっちゃったよ」

二十年。自分が生まれるよりもずっと長い間この男は寺子屋を始めるために奔走していたとほとりは驚いたもののおもてに出すと指摘されるので押し黙っていた。

「……寺子屋なんて開いて誰が得するんだよ。集まるガキども全員、親に見放されたゴミクズばっかりじゃねえか」

「君みたいな子供たちの拠り所になりたくてね」

からかう声色はいつの間にか消えている。氏家の営んでいる寺子屋には訳ありの子供ばかりが集まっていた。親の消息が知れない兄妹、父親の虐待から逃れるため一時的に預かっている男児。夜逃げした家族に置いて行かれた少年。子供たちを見ながら氏家は言う。

「自力ではどうにもできない、行き場のない子供たちを一人でも減らしたかったんだよ。悪事に走った末に捕まって、春秋に富む若者が刑務所で時間を無為に過ごすのは失うものがあまりも多いからね」

勉強に飽きたらしい男児が氏家の膝によじ登ってくる。それを抱き寄せてなにを言うでもなく彼は優しく撫でている。

「居場所って大事なんだよ。子供には誰かが手を差し伸べないと」

氏家と出会ったあの日。共に行動していた悪友たちはほとりが捕まった時にトカゲの尻尾切りよろしく一目散に逃げていった。帰る家もなく、戻るべきコミュニティもない。ほとりにとって最後の砦が氏家の寺子屋だった。ここにいる子供たちもみな同じだ。

「君はゴミクズじゃないよほとり」

見遣ればいつものように柔く笑みを浮かべている氏家と目があった。橙色の西陽がその頬を照らしている。君は存在意義のある人間だ。氏家の言葉がほとりの胸にじわりと沁み渡るようだった。しばし見合ったあと、ニコリと破顔して氏家は立ち上がった。

「さあてそろそろ晩ご飯作らないと。カレーでいいよね?」

「一昨日もカレーだったじゃねえか。お前それしか作れねえの?」

「手伝ってくれたら別の料理作れそうだなぁ」

「手伝わねえよ」

寺子屋の子供たちの世話をしながら過ごすうちに馴染むようになった。年下の子供に勉強を教わったり、剣術を教えてやったりするうちに徐々に座学や稽古に励む時間が多くなった。それでもまだ抜け出しては時間を潰してばかりいた。相変わらず人気の少ないところに一人でぼんやりしてばかり。いつものように廃寺でだらけていると氏家が姿を見せ小言を言う。これもお決まりになりつつある。

「タバコはダメだよ。僕の財布からお金抜き取ってなにするかと思ったらこれかい」

「げえ。タバコにまで口出すのかよ。ガキの前で吸ってねえんだからいいだろ」

「おやおや気遣いができるようになったのかい。これは嬉しい変化だ」

「だーかーらーいちいち褒めんじゃねえ気味悪ぃ」

足元に散らばる吸い殻を見遣って氏家は肩を竦める。空箱が一箱、手に持っている箱も半分ほど吸ったあとらしく辺りはだいぶ煙たい。

―熱中できるものかあればいいのだが。

物は試しと氏家はほとりの横に腰掛けた。

「勝負しようよ。買った方は今晩のご飯のお肉総取り。負けた方は片付け担当」

「興味ねえ。肉は食う。片付けはジジイがやる。以上。ほっとけ」

「あれれ、もしかして自信ないのかな?五人の大人相手に渡り合ってたほとりが?あれはマグレだったのかな?弱虫だとバレるのが怖くて逃げてるの?ん?」

「ほぉお?そのクソ生意気な口すぐ黙らせてやる」

「生意気はどっちだろうねえ」

吸っていたタバコを放り投げてほとりは立ち上がりすぐさま寺子屋へ帰った。チビなジジイ相手に遅れをとるはずがないと竹刀を持って意気揚々挑んだのも束の間、上背のあるほとりが汗まみれで氏家の足元に転がっている。

「なんで、なんでだ…どうしてジジイから一本も取れないんだよ…!?」

「剣術は体格に非らず。大きい方が有利だけどやり方次第で太刀打ちできるからね。寧ろ体格差があるほど心理的な隙を突きやすい」

「ちくしょう…」

「あとほとりは力押しで攻めるから太刀筋が丸分かりなんだよねえ。僕から一本取りたいならもっと基本稽古しないと。乱取りだけしてるようじゃ話にならないよ」

「ぐぬぬ…っ!」

ドがつく正論を展開されてほとりはぐうの音も出せず歯噛みして道場の床に膝をついている。

「五本勝負っつったんだからまだ三本残ってるだろ!次こそ取る!竹刀持てやジジイ!」

「結果がわかってるのに挑んでくるなんてほとりはマゾかい?」

「喧しいわ!さっさとやるぞ!」

腕っ節が強い自負だけはあった。勉強よりは肌にあったため剣術の稽古だけは渋々ながらも自主的に付き合っていたが、それも長続きせず地味な基礎稽古には顔を出さなかった。

「せんせいがんばれー」

「やっつけろー」

「コテンパンにしちゃえー」

「負けろほとり下手くそー」

「うるさいんだよ外野のチビども!野次を飛ばすな!」

「チビっていうなー!」

「うるせー!葉月に康太、福助と松蔵!これで満足かガキども!」

「うーん。子供たちと同レベルで言い合いしてるんじゃたかが知れてるよほとり」

足も手も出ず負かされたのが相当堪えたほとりは氏家から一本取るため稽古に臨むようになった。吹っ掛けられ買った勝負に負け、なにくそと食いついてくる。いい具合に氏家の掌の上で転がされているのにほとりは気がつかない。容赦のない打ち込みで体はあちこち痣だらけになりながらも負けてたまるかと食らい付く日々。自然とタバコの本数は減っていった。

「ジジイ強えな」

「ほとりなら僕くらいにはすぐなれるさ」

「そうかあ?でも免許カイデン…とかいうのは到底できねえだろうな。アンタはどんくらいでカイデンできたんだ?」

「僕は免許皆伝を受けてないよ」

「その腕で?なんで?」

「僕の経歴を知っても稽古してくれる人はいたけど許してもらえなかったんだよ。流派の真髄を殺人者には教えられない、って言われたね」

同じ師範に師事したほかの門下生たちは皆伝を許されたが、氏家は例外だった。厳しい鍛錬をどれほど積んでもどれほど己を律しても消しようのない経歴が邪魔をする。竹刀の手入れをしながら氏家はなんでもないことのように言ったが、その抑揚のなさが本心は真逆を意味しているのをほとりは悟った。

「犯罪なんかに手を染めちゃいけないよ。手を出した分、できることが少なくなる。可能性や道が閉じられてしまう」

「…そんなこと言われても一通りやっちまったけど」

「あはは、そうだね。でもこれから手を出さなければいいよ。改心して生きてればいいことあるさ」

笑って氏家は言った。


「ほとり姉ちゃん、僕のお母さんと会いたい?」

とある日、唐突にそう尋ねられた。聞いてきたのは福助という名の男児で、父親の虐待から逃げるようにして母親が氏家に預けた子供である。

「お?何だ急に」

「あのね、今度ね、僕のこと迎えにきてくれるの」

福助の母親は暴力夫と別れて再婚して迎えに来るらしい、と氏家から聞いていたので事情は知っていた。久方ぶりの母との再開を待ち侘びながらも照れ臭そうに服の裾を握ってもじもじしている様はいじらしい。

「そりゃ良かったな。でも家は遠くなるんだろ。あまりここには来れないんじゃねえの?」

「剣のおけいこをしに来ていいようにお願いしてみる。そしたらまた教えてくれる?」

「もちろんだ。竹刀の振り方忘れんなよ」

「うん。ゆーびきりげんまん…」

嘘ついたら針千本飲ます。互いの指を絡ませ声を揃え唱える。拙い約束だ。残り少ない時間をいつもと変わらず稽古と座学に費やしながらもほとりと福助は仲良く過ごした。

「氏家さんから伺いました。ずっと面倒を見てくれていたそうですね。ありがとうございました。あの子も懐いてまるで姉弟のようだわ」

二日も経たずに寺子屋を訪れた母親からの賛辞に頭を下げた。一緒に遊んでやっただけなのにそんなに感謝されていいものかわからず困惑したが、嫌な気分にはならない。母親と息子の再会。その光景はどこか羨ましく見えた。

「やだ。姉ちゃんと一緒がいい」

別れ際、福助は珍しく駄々をこねた。しばらく会えないから一緒に来て、と頑なにほとりのそばから離れなかった。仕方なく親子三人に混じってほとりは駅舎まで同行した。

「ばいばい姉ちゃん。約束忘れないでね」

「お前こそ忘れるなよ。ちゃんと練習しとけよな」

列車に乗る親子三人を見送ったあと、雨が降り出した。福助の家族にとってはせっかくの門出の日だというのに。曇天の空はますます薄暗くなっていく。

「全く。空気を読まねえ天気だな」

すぐに土砂降りになった雨の中、ほとりは一人傘を差して歩いていた。不意に顔を上げた先、民家がある。懐かしさと嫌な記憶がないまぜになってほとりは力なくこぼすように呟いた。

「……家」

わたしの家。帰らなくなって久しい家には明かりが点いている。あの灯りの中に父は一人でいるのだろうか。母はいるのだりうか。温かい家族というのはどんなものだろう。優しい母親とは、受け入れてくれる父親とは、家族とはどんなものだろうか。

わたしはどうして一人でいるんだろう。

傘に打ちつける雨音は一層激しくなっていく。激しい雨にぬかるんだ道で夥しい量の泥が足元を汚している。惨めな気分になった。嫉妬したわけではない。ただ、愛してもらえなかった事実が後ろめたい。

わたしも抱きしめて欲しかった。

重たい足を引き摺るように帰路に着く。引き戸を開けると氏家が出迎えた。玄関先で手拭いを持って立っている。

「お帰り、ほとり。ひどい雨だったね。大丈夫かい」

優しい言葉が耳に滑り込んできた。いつもと変わらない声なのに今日は殊更に温かく柔らかく、ささくれた気持ちを包み込む。

「先生」

大粒の涙がこぼれた。遠くで雷が鳴る。開けっぱなしの戸。雨音が大きく聞こえ、吹き込む風は湿った匂いがする。

「おいおいどうした。何かあったのか」

ほとりは頭を振った。何でもないよ。そう言いたいのに言葉が出てこない。

「ただいま、先生」

ただいまと言える場所がここにある。ほとりは傘を落として氏家にしがみついて大声で泣いた。


「僕はね、あのままほとりを牢屋に入れてしまったら人殺しの道に進んじゃうと思ったんだよ。だから引き止めたんだ」

「なんでそう思ったの」

「雰囲気かなあ。若い癖に何もかも諦めてていつ死んだって構わないって気合いが凄かったんだよ」

刑期を終えて出所したらもっと悪事に手を染める。牢屋に放り込まれる前から漠然と考えていたほとりだったが、今まで以上の悪事となれば麻薬取引や暴力組織などに所属して人を殺すしか残っていなかったやも知れない。

「そうだね。投げやりだったよ。生きることにも死ぬことにも。明るい将来なんかないと思ってたし」

呟くほとりの手には評論本がある。寝る間も惜しんで勉強に没頭したほとりは難しい論文も読めるほどになっていた。

「いやいや、まるで別人のようだね。勉強熱心になってくれて嬉しい限りさ」

「先生のお陰で考え方が変わったからね」

畳の部屋の隅で黙々と勉学に勤しむほとりを見て抑えの効かない子供達も徐々にけじめがつくようになった。徐々に増えた子供の面倒を買って出たのはほとりだ。勉強がわからないと尋ねてくる後輩たちに丁寧に手解きをし、竹刀が上手く振れないとヘソを曲げる子供の稽古に付き添ってやったこともあった。他者への教授は自身を成長させる。文武ともに力をつけていく姿を見て氏家は顔を綻ばせた。

「ふふふ」

「なに?」

「クソジジイって呼ばなくなったよね」

「からかうつもりなら呼ぶから」

「熱心さに倣って子供達が真似をする。いい手本になってるよ。勉強も剣の稽古も立派になったもんだ。あのクソガキのほとりがねえ」

「うるさいクソジジイ」

こそばゆい褒め言葉。賞賛を素直に受け取れない。ほとりは唇を尖らせて氏家を罵る。
「ところで知り合いからほとりが興味ありそうな本が届いたんだけど読むかい?」

「うん。あとで取りに行く」

「ほとり姉ちゃんここ教えて」

そうせがんでくる子供に相槌を打ちながら返事をした。勉強って面白いんだ。楽しいんだ。初めての感覚にほとりは毎日飽きもせずに学んだ。人に教える難しさと教え子の上達を見た時の達成感は今までにない快感だった。

「これからもここで子供たちに勉強を教えてやれるかな」

うっすらと願った矢先。ほとりが十六歳になった年に氏家が倒れた。癌だった。日に日に弱っていく氏家は寺子屋の運営は遠方の知り合いを呼び寄せて任せる運びになり、それに伴い十五を越えた者たちは自分で進路を決めざるを得なくなった。

「そう長くないでしょう。覚悟をした方がよろしいかと」

往診に来た医者から氏家は峠が近いと診断される。教え子たちは代わる代わる寝込んでいる氏家の側へ行き思いを伝えた。湿っぽい雰囲気が寺子屋を包んで息苦しかった。

「先生、江戸に行くよ。ここよりかは働き口があると思う。わたしの悪事を知ってる人もいないし」

「そうかい…。ほとりならできるよ。体には気をつけるんだよ」

「超がつくほど健康優良児だよ、わたしは」

「いやいや…毎日タバコばっか吸ってたんだから早いうちにガタがくるよ…気をつけなさいよ、ほんとに」

氏家は布団の中で青白い顔にいつものように柔らかく笑いながらほとりを見遣っている。自分が一番辛いだろうに。なんで他人のことばかり気にかけるんだ。ほとりは遣る瀬なくて俯いた。

「床に臥してる人間が後進の心配なんかするなよ…自分のことだけ考えてろよ」

「余命幾許もないクソジジイの命なんざ他人様に使ってナンボさ…。心残りがあるとすれば、もっとみんなに勉強を教えてやりたかったねえ…」

「そうだよ、全然教わってない。もっとアンタに手解きして欲しいんだよ、まだ何も、」

矢継ぎ早に願いの言葉を紡ぐほとりを遮るように氏家は手を握る。竹刀で容赦なくねじ伏せていたあの手は病魔のせいでだいぶ小さくなっていた。

「ほとりには、もう十分すぎるほど教えたさ。これから君は、君自身の物差しを持って生きていけばいい。人生は長いんだ。きっと良い師に会える。その人に師事して学びなさい」

ほとりは今日までの毎日を思い返して泣いた。

もっと真面目に向き合うんだった。抜け出して暇を潰していたあの時間が戻ってきたら寝る間も惜しんで勉強するし稽古もする。もっと、もっとできたはずだ、と。

「君はいい子だったよ、ほとり。僕の生徒でいるなんて勿体なかったくらいにね」

間も無く氏家は亡くなる。享年六十五。後任の教師と寺子屋の生徒たちのみで葬式はしめやかに営まれた。四十九日を待たずほとりは上京する。工事現場の日雇い、催事の設営など短期の仕事に従事しながら生活をしていた。上京してすぐに真っ当な職に就けるわけもなく、食っていくためにガールズバーで働くようになった。若い女であれば経歴は問わないと面接はあってないようなものですぐさま働き出せた。

薄暗く煙たい店の中が突如と慌ただしく緊迫した事態に陥ったのは働き始めて三ヶ月経ったある日のことだった。

「御用改めである!」

乗り込んで来たのは真選組だ。店長とマネージャーの女に麻薬所持・売買の疑いがあり摘発された。結果、店長の私物入れの底に、麻薬の入った小袋がびっしり詰め込まれていたことが分かった。だが副店長以下、従業員の取り調べは続いている。勾留されている従業員を順番に真選組の隊員が聴取する。ほとりの前に座るのは顎髭をたくわえた短髪の男。近藤勲と寒河江ほとりの邂逅の瞬間だった。

「従業員の女の子たちは麻薬取引には絡んでないよ、お巡りさん」

「知ってるよ。それでも全員調べる必要があるのさ」

ほとりは近藤も持っていた書類に目をやった。勤めていた同僚たちの名前に学歴や職歴などが仔細に記されている。恐らく履歴書を元にして作られたものだろう。ほとりは推測した。

「もしかして故郷に帰されるの?」

「十八歳以下の子はそうなるなあ…。ああ、君、十七歳だな」

「武州には帰れない」

「へえ、俺も武州の生まれなんだよ」

帰れない、には反応を示さない。はぐらかされると直感で悟る。語気を強め、身を乗り出して捲し立てた。

「あんな場所に帰されるなら死んだ方がマシだ」

ほとりの鬼気迫る表情に近藤は目をすがめる。

「親から逃げて江戸に来た。武州でお世話になった方はもう亡くなって、戻っても居場所がない。だから強制送還だけはしないで欲しい」

この男が話を信じるか否かはどちらでもいい。兎にも角にも、武州に戻らずにいる道があるはずだ。

覚悟を決めたようなほとりの態度に、手元の書類を見遣って近藤は笑いかける。

「寒河江ほとり、か…。お前さん、俺らと一緒に働く気はあるか?」

「近藤さん、被疑者相手に何を…」

近くにいた黒い制服をまとう青年が咎めたがそれを制してほとりに言う。

「仕事柄、忙しいし場合によって攘夷浪士がいる場所に突入することもある。危険だし厳しいし時には家に帰れない。キツい仕事の条件が揃ってるお陰で慢性的な人手不足でさ。どうだい、君にその意志があるなら」

一緒に働かないか。

唐突な誘いに驚いて拍子抜けしているほとりを他所に近藤は顎を引っ掻きながら言いにくそうに続けた。苦笑いしている。

「こんなことを言うと嫌がるかもしれないが、若くて可愛い女の子が入ると士気が上がるんだよ不思議と。悪い奴はいない。みんな歓迎するさ」

「…わたしみたいな人間でもなれるの?」

「なれるさ」

「お巡りさんが思ってる以上にクソガキだよ、わたしは」

「俺だってクソガキだったさ」

武州へ帰らなくて済む手段が目の前にぶら下がっている。絶好のチャンスだと思った。この誘いを無視する理由もないし、選り好みできる状態でもない。

「働く。働かせてください」

辛い仕事だろうが今よりはマシだ。武州に帰されるよりはずっとずっと可能性がある。加えてこの男の器の大きさを感じたほとりは誘いに乗ろうと決めた。二つ返事をしてからは忙しかった。警察庁の知り合いに近藤が掛け合い、斡旋してもらった仕事に従事しながら試験勉強と疎かにしていた剣の稽古に打ち込んだ。

「今日より真選組に加わることになりました寒河江ほとりです。よろしくお願いします」

厳しい選抜試験を合格し、晴れて真撰組に入隊した。初対面の隊士たちに挨拶をして回れば忙しいながらもみな一様に歓迎してくれた。

「わたしを採用していいことありました?」

不意に近藤に宴会の席で近藤に尋ねたことがあった。酒が入るこの場は本音を聞けるいい機会だ。

「ほとりはなあ、本当に働き者だよなあ。真選組にいてくれてありがとうなあ」

存分に酔っている近藤はだらしなくニコニコと笑って褒めた。しこたま呑み酩酊して舌の回らない緩い口調で話す。ほとりはザルだ。酔ったフリをして話を進める。

「いてくれて、って…近藤さんがわたしを誘ってくれたじゃないですか。元不良のクソガキですよお?雇って後悔してませんかあ?」

「本当だぞお。そりゃたまに口は悪いし手が出ることもあるけどさあ?あれはほとりが許せないと思うからやるんで、やらせる方が悪いんだ。それくらいわかるぞ。だはははは!」

何が面白かったのか近藤は唐突にひとしきり笑ってほとりの頭を豪快に撫で回す。髪が激しく乱れた。

「こんなにいい子と働けて俺たちは幸せ者だよなあ!」

「そうだなあ!」

「うわー!重たい!酒臭い!」

周りにいた隊士たちが近藤に倣いドシドシとほとりの背中を叩いたりのし掛かってきた。大きな男たちにもみくちゃにされてあげる悲鳴も間もなく笑い声に変わった。

有難い言葉だった。それでも皆はほとりにはないものを持っている。愛された実感、存在を無条件に肯定された上に成り立つ自己肯定感があった。寺子屋にいた子供たちとは確実に違う確固たるものを持っていた。仲間だ。家族のようなものだ。そう言われ嬉しい反面、否定したい気持ちも湧いた。あなたたちとわたしは決定的に違うんだ、と。

「いい観察眼だよ、寒河江くん」

伊東は、ほとりの行動原理を言い当てた。見抜かれたのが解せなかったが直にほとりは理解する。この人は、伊東鴨太郎は愛を享受できなかった人間だ。同類だと直感で悟った。武州で不良として生きていた頃のわたしと同じだと。だから何もかも捨ててでも伊東のそばにいると腹を括ったのだった。道を誤ってると自覚しながらもその後をついて歩いてしまった。



ほとりは深く息を吐いて天井を見上げている。江戸に来てから色々あったなあ、と感慨深く思った。親に見放され生きるため、鬱憤を晴らすため悪事に手を染め捕まる寸前で助けられ、その先で知恵を授かり、授かったところで恩師を亡くし、職を求めて江戸に来た。水商売紛いの仕事に就いて日々を食い繋いでいた。そこで出会った近藤の伝で真選組に加わる。

ああ、楽しい時間だったなあ。

真選組で過ごした日々を思い返してほとりはまた深く息を吐いた。

「沖田さんとは馬鹿ばっかりして、悪ガキだった頃を思い出してました。人様をからかって笑って、ちょっかい出した人には悪かったけどとても楽しかったんですよ。沖田さんとは遊び仲間として出会いたかったです」

落とし穴を掘り土方を陥れようとしたこと。昔の自分の性分を曝け出しても咎められもせず笑っていられるのが楽しかった。

「事務の引き継ぎで山崎さんにはお世話になりました。よく言えば朴訥、悪く言えば地味ではありますが飾らない人柄がとても心地よい人でした。彼の奥さんになる人は幸せでしょうね」

疑問点を質問しても嫌な顔一つせず答えてくれた山崎の笑顔が瞼の裏に浮かぶ。バトミントンを愛するあまり業務中に精を出し、土方から制裁を受けていたのも今となっては愛おしい。

「土方さんは口ではうるさかったけど真選組の手綱を握ってるだけあって広く深く物事を捉えていらっしゃった。偏食と煙草の吸い過ぎは毒だからほどほどにしないと体壊します。早くいい人見つかればいいんですけど。家庭を持てば自覚も芽生えるでしょう」

目の敵にしていた副長の土方も思い返すまでもなく有能な人材だった。真選組の中でも戦術面で抜きん出ていて、討ち入りの計画などまるで練り上げられ洗練されてはいるものの喧嘩そのもの。攘夷派一斉摘発の対策として作戦を立案したのも彼だった。目の回るような忙しさの中で作成した書類の内容を記憶していた。少ない労力で最大限の効果を発揮する。そんな作戦ばかりだった。

喧嘩慣れしているんだろうな。この人は武州でどう過ごしていたんだろう。

作戦の概要を聞く度にそうほとりは考えた。

「近藤さん、こんなわたしに手を差しのべてくれてありがとう」

ガールズバーで麻薬摘発のあった夜。近藤と出会わなければ真選組の一員になることはなかった。恩を仇で返した者へ情けをかける近藤勲の懐の深さをひしひしと身を以て感じた。器の大きさ。知ってはいたのにきちんと理解したのはこんなことになってからだ。ほとりは後悔した。

「さようなら。ご迷惑ばかりかけてすみませんでした」

近藤を見送り独房に戻ったほとりは鏡を見る。左顔面に走る刀傷をなぞった。

罪人に出来ることなど限られている。肩を落としてばかりではだめだ。前を向かないと。

ほとりは雑に束ねていた髪を結え直す。

「ここが我慢と挑戦のしどころ…か。氏家先生、使い方間違ってますね、これ」

改心して生きていけという言葉を反故にして教え子は罪人になりました。でももう二度と道を間違いません。

「伊東先生は、生きてる」

背筋を伸ばしてほとりは涙を拭った。


20220125

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