悔恨
歌舞伎町の外れにある陽当たりだけはいい部屋に引っ越したのは真選組で働き出した頃。夜の仕事をしていた時に住んでいた部屋は寝るためだけに帰っていたようなもので狭く暗かった。

「いい天気だなあ」

その暗い部屋と比べれば少し広い部屋の隅。小さい座卓で朝食をとりながら干した洗濯物を眺めてほとりは呟く。カラリと乾いた空気に透き通るように晴れた空。洗濯日和だ。仕事で忙しく手付かずだった洗濯物が風に吹かれて揺れている。片っ端から洗ったお陰でベランダに干す場所はもうない。

「買い出し行かないと……」

疲れて帰ってきた日はそのまま何も食べず寝ることも珍しくなかったし昼間は屯所で定食を食べるお陰で冷蔵庫の中身はいつも少なめだった。冷蔵庫には申し訳程度の調味料といつ買ってきたのかすら忘れた冷凍野菜しかなかった。これではあまりにも心許ない。

仕事で溜まった疲労は二度寝程度では消えない。精々「寝た」という感覚を覚えるくらいで畳の上に体を横たえたらすぐに寝落ちしてしまいそうになる。天井を見上げて思考がボヤけ始めたのを知覚してほとりは慌てて起き上がった。

「やばいやばい。折角の休みを棒に振っちゃう」

武州にいた頃からほとりに友人らしい友人はいなかった。寺子屋で共に勉強していた仲間も今は散り散りになってどこにいるかもわからない者が大半だし、連絡を取る術もする気もない。歌舞伎町で暮らし始めてから仕事に関わる知人は増えたが交友関係はないに等しいので人に会う予定はない。夕方から剣の稽古で道場の師範や門下生と会いはするが、これは仕事の一環でもあるのでプライベートとは言わないだろう。仕事のない日で真選組のメンツと会わない限り必然的に一人だ。

「…あれどう見ても真撰組だよな…」

歩いていたほとりは目を細めて唸る。キャバクラの前に男が転がっていた。見慣れた制服は幹部クラスのものだ。

「まさかとは思ったけどマジか……」

近寄って見れば転がっていたのは近藤である。陽は既に高く登っているというのに酔っ払いよろしく路上に突っ伏している。一体いつから。仕事がオフの日に職場の人間に会うことはあるだろうが、地面にめり込むように倒れ込んでいる上司に出くわすとは思いもしなかった。ほとりは体を揺すって声をかける。

「近藤さん。近藤さん、こんなところで寝転がってなにしてるんですか」

「んがっ」

だらしない声を上げて目を覚ました近藤はほとりを見て首を傾げた。

「…あれ、ほとり…おはよう」

「おはようじゃないですよ。昨日仕事終わりにキャバクラに直行したんですね」

プライベートに文句つけるつもりはないけどそれはどうなの局長として。せめて私服に着替えて行けなかったのか。ほとりは聞こえないようにひとりごちる。近藤はほとりが訝しい顔をしてみているのに気がつかない。

「今日は非番だろう。こんなところで何を?」

「買い出しに行く途中ですよ。ご飯の作り置きしたいし」

「自炊か!えらいなほとり!」

「節約ですよ」

忙しさにかまけて外食をしていたが財布の中身も心許なくなって来た。削れる余地があるとことは削る、だ。ほとりは金がない厳しさを身をもって知っている。真選組の給料は今まで働いてきたどの職場よりも高い。仕事柄かなりハードだが仕事の内容も職場の人間関係もそれなりに良好だった。だから仕事と家の行き来だけになっても腐ることも病むこともなかった。友人も恋人もいないし娯楽にもあまり興味がないから限りなくゼロに近かった貯金も僅かながら増えていく。とはいえ高い金を払って女のケツを追いかけている上司の懐事情を推察すると少し欲が出てくるというものだ。

「いいなあ。遊び呆けるお金があって。平隊士の給料も上がらないですかね。役職に応じて上乗せして欲しいです」

「何を言う。遊び呆ける余裕があると思うか」

「え?まさか借金?」

ほとりは昔を思い返す。免疫がないのにいきなりキャバクラ遊びは毒がすぎる。可愛い女の子の甘言と接待に現を抜かして収入を丸々注ぎ込んで自己破産した男たちを過去の仕事で見てきた。止めた方がいいだろう。近藤のためだ。

「休みの度にキャバクラ行ってどうするんですか。ケツ毛の話は営業トークなんだから真に受けちゃダメですよ」

「な、ななんのことだ誰がケツ毛だるまだって?」

「近藤さんのケツが毛だるまとは一言も言ってませんけど。隠すの下手くそか。まあこれはみんな知ってます。あなたのケツが毛だるまってこともキャバ嬢にお熱ってことも」

たまたま立ち寄ったキャバクラで近藤は奇跡的な邂逅を果たす。女性にモテないのは自身の身体的特徴であると悩みを打ち明けた。が、その欠点を「男らしくて素敵だ」とフォローするそのキャバ嬢は「自身の彼氏のケツが毛だるまであったとしてもそれごと愛す」と毅然と続けた。全ての不浄を包み込む菩薩として近藤の目に写った瞬間から三十路間近モテない独身男のつきまとい生活が幕を開けた。

「って沖田さんから聞きましたよ」

「ぬう、総悟の奴め」

「捕まったらシャレにならないんでストーカー行為はやめてください」

「ははは!何言ってる!誰がストーカーだって?俺はお妙さんに愛を伝えているだけだ!」

「だめだ完全にストーカーする奴の思考回路だ。どうしよう。事件起こす前に内々に始末しないと」

組織の長が懲戒処分に課されれば最悪真選組が解体される可能性もあるのではないか。なんといっても日頃の行いがよろしいとは言えない。再就職するには骨が折れる。

「お妙さんって人のケツ毛に対するそれ、完全に社交辞令じゃないですか。本気にした近藤さんは本当に真人間バカだな…」

「お妙さんは俺の悩みを丸っと受け止めてくれたんだ。社交辞令であってもだ、ああいう言葉がすぐに出てくる人ってのは根っから優しいのさ」

「そういうもんですかねえ」

「お前だってそうだろ、ほとり。休日なのに俺を見かけて声をかけてくれたじゃないか」

「え、それは真選組の制服だったからですよ。所属してる組織の人間が倒れてて無視してられないでしょ。近藤さんだってすぐに分かったし」

「見て見ぬふりする奴だっているさ。それでも手を貸してくれたほとりは俺らの仲間さ」

仲間ですか。何も知らないからそんな呑気なことを言えるんだ。私が何を考えて行動しているかなんて知りもしないで。本当に、お人好しにも限度がある。

胸の奥がちくりと痛むのをほとりは無視して笑う。

「くすぐったい言葉ですね、それ」

「そうか?買い出しの途中に足止めして悪かったな。詫びと言っちゃなんだが荷物持つの手伝うぞ」

「いいんですか?それは助かります。米10キロ買おっと」

「一人で消費するの難しくないか!?」

無茶振りにも嬉しそうな近藤の横顔を見ているほとりの背後から声をかけられた。

「なあほとり。覚悟はできてんだろうな」

振り返ればそこは暗い車両の中。冷たい声の主は沖田だ。ほとりはすぐに聞き分けた。声に滲む殺気を感じ取って肌がビリビリとひりついて痛い。刀を握る手は震えている。

「覚悟なら伊東先生についていくと決めた時からできてます」

近藤を列車に乗せて、沖田を離れた車両に配置して、伊東を警護しようとしていた。計画は実行された。多勢に無勢で沖田たちの劣勢であるはずだった。それなのに斬りかかる隊士たちを斬り伏せ、沖田と近藤は列車を脱出した。ここでほとりは弾かれたように思い出す。

私は伊東先生の傍にいなければならないのに。

「伊東先生!」

沖田たちを追って列車から降りた向こう側に土方派の隊士たちが伊東を囲むように立っていた。その中央で伊東が息も絶え絶えになっているのを黙って見ている。その隊士たちの間を割って入って駆け寄ったほとりは叫んだ。

「先生!伊東先生ってば!ダメです!絶対に死んじゃダメ!!」

伊東は声を張り上げているほとりを見遣ってボソボソと何か呟いた。

「寒河江。仕事はどうした」

腕の中の敬愛する人が自分を呆れたような目で見ている。血の気が失せた。

「投げ出したのか」

投げ出すつもりも、傍を離れるつもりもこれっぽっちもなかった。ほとりは何があっても伊東の隣にいたかった。

違う、違います。

ほとりの弁明は言葉にならず伊東の耳には届かない。

「僕の見込み違いだったか」

伊東に見放される。期待を裏切ってしまったことを後悔する。でも、あの状況でどうすればよかったのだろう。ほとりは混乱してなにもできない。

「君にはがっかりしたよ。二度と顔を見せるな」



体全体に衝撃が走ってほとりは飛び起きた。

「はあ……っ!」

息が詰まる。流れ出る汗が頬を伝っていく。視界に光がチラついてほとりは頭を抱えた。夢見が悪いのは心身ともに疲弊しているからだろう。自覚はある。

あの日の光景を繰り返し夢に見る。沖田に斬られてから意識を取り戻すまでの間に何があったのか、断片的にしか分からない。斬られて地面に倒れていた伊東を抱き上げて、助けてくれと喉が千切れるほど叫んだ。出血の止まらない伊東の傷口を隊服で固く縛って手当てしている間にほとりも意識を失って、気がついたら病院のベッドの上にいた。

意識を取り戻してから二日経ってほとりはようやく自分の状態を受け入れられるようになってきた。全身打撲に右足の捻挫、左腕前腕の骨折。そして左顔面を覆う包帯。

記憶違いがなければ沖田さんに顔を斬られた。

刀で潰された左目はもう陽の光を捉えることはない。極端に狭くなった視野を占めるのは開けられた窓から吹き込む風で靡くカーテンだけ。清々しい陽の光が眩しい。止まらない汗が不快で拭おうと手を上げると何かに引っ張られた。

ああ、そうだ。

ほとりは思い出した。右手は手錠でベッドの柵に繋がれている。ほとりは真選組を混乱に陥れた反乱分子。この扱いは妥当だろう。命があるだけ、あの場で粛清されなかっただけ運がいい。

伊東は今どうしているのか、ほとりにはわからなかった。看護師に聞いたところでわかる者などいないし、いたとしても答えられるはずもない。真選組の誰かに問おうにもほとりの元に訪れる者はいない。

当たり前だ。私は離反者だ。

そんな人間を真選組の隊員が見舞うはずがない。鼻つまみにされて当然だ。

「今日からリハビリ始めましょうね」

一人で歩けるようになっても監視の目があった。行動には制限がかかって、外出は疎か病室を出るにも看護師がついてきた。補助のためじゃない。逃亡を防ぐためにだ。まず自分の所在地を知らないことにはなにも始まらないとほとりは考えたが、看護師から得られる情報は何一つなかった。誰も質問に答えない。

「ここはなんという病院ですか」

誰に尋ねても返事はなくほとりに視線を遣るだけ。質問するとみな一様に口を噤んだ。素っ気ない態度を見せる看護師の中でも割と好意的に接してくれる者に聞いてはぐらかされたのは最初のうちで、直に蔑みの目を向けて処置もそこそこに病室を出て行った。

「聞くだめ無駄ですよ」

あくる日もあくる日も繰り返される質問攻めを押さえ込もうと、ほとりが口を開くより先に看護師が釘を刺した。何を聞いても答えないし、しつこく続けるようなら猿轡を噛ませる許可だって出してもらえると冷たく言われた。

「…そうですか。わかりました」

口八丁手八丁でボロを出してくるのを待っていたが、それを言われては黙っているほかない。その日からほとりが口を開かなくなった。必要以上に言葉を発さず黙々とリハビリに取り組んで一刻も早く回復できるように努めた。

「寒河江さん退院おめでとうございます」

形式ばかりの祝いの言葉をかけられるまでの一ヶ月間、ほとりの元に訪れる者は誰一人としていなかった。繰り返しの毎日。違うことと言えば身体機能の回復とそれに伴う病院食の変更があったくらいだ。病室とリハビリ室を行き来するだけの日々は終わった。退院後間もなく勾留されてすぐに件の事件についての取調べが始まった。口を開けば思いの外すらりと言葉が出てきた。

「全部、私がやりました。間違いありません」

自分のしたことを洗いざらい吐いた方がいくらか気が楽だったし取調べで嘘をつくと不利になる。だからほとりは一連の事件について包み隠さず話した。

幇助ほうじょ罪、業務上横領罪、有印私文書偽造罪。

主に問われた罪はこの三つで、三年の懲役を科された。

攘夷浪士にかけていた手錠が自分の手首にある。罰を受けることは苦ではない。覚悟はしていたから。それよりも辛いのはわからずじまいになっている伊東の生死だ。一人になると否が応でも怪我をしていた伊東の姿を思い出す。どうしようもない焦燥感と後悔に苛まれて居ても立っても居られなくなって勾留されている部屋で歩き回っては頭を抱えてしゃがみ込む。それを繰り返していた。

覚悟はできている。何を以ってそんなこと言ってたんだろう、私は。

伊東の補佐として働くことが嬉しかった。傍に居ることができて満足だった。居られればそれでよかったのだろうか。悪事を働くと分かっていて、それでも関われることを特別だと勘違いしていた。どうして一緒に一線を越える選択を迷わずしてしまったのだろう。どうして、止められなかったのだろう。

「伊東先生……」

生きていると信じる以外にできることは何もない。もしもなんてことは考えないようにしなければ心が挫ける。自己暗示をかけるように、彼は生きている、と心の中で繰り返す。事実を知るのが怖いから、知る由もないから確証も何もない願いを繰り返すだけ。刑期が明けるのはまだだいぶ先だ。

20211107
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