仄暗い記憶の先
両親の後ろ姿ばかりを見ていた。僕には双子の兄がいた。物心つくより前から両親は兄にばかり心を割いていた。蔑ろにされていたわけではないが、何故か僕に対する情が薄かった。そんな記憶がある。
僕じゃなくて、どうして兄さんばかり。
幼心に考えた。甘えても許されるのはほんの僅かな時間。すぐさま手放されて父も母も兄につきっきりになっていた。父や母の腕の温もりをも全くと言っていいほど享受できなかった。泣いてばかりいた。泣き喚く次男を見て両親はひどく滅入ったことだろう。
泣くな。我慢しろ。
この元気を鷹久に分けてあげられたら。
そんなことを言われても悲しいものは悲しい。余計に泣きじゃくったせいで母に頬を叩かれた。呆然とする僕に母は「鷹久の体に障る」と金切り声で叫んだ。兄が病弱だったと理解するのはもう少し経ってからだった。
転んだ拍子に掌を砂利で切った。少しばかり勉強ができるばかりに学問所の同級生によく小突き回されていた。相手は体格差に物を言わせて暴力を振るってくる。反撃できないせいで日に日に当たりは厳しくなった。
「ガリ勉のくせにムカつくんだよ!」
学問所は勉学に励むところだろう。なぜ僕が爪弾きにされないといけないのかわからなかった。一体何が気に入らないんだ。
「たまたま一番になっただけでえらそうにしやがって!」
必死に勉強したから一番になったんだ。たまたまじゃない。これからはいつも一番になるためにもっと頑張らなければ。もっと努力しなければ。認めてもらわなければ。
擦りむいた膝も掌も痛かったが涙を堪えて立ち上がった。朝も夜も関係なく勉強に励んだ。予習復習を欠かさなかったから試験は満点、卒業するまで首席の座は誰にも譲らなかった。
それなのに父も母も僕を見ようとはせず背を向けたまま、学問所の生徒たちはつまらなそうに僕を見ているだけだった。
剣術の稽古は厳しかった。手にはマメができたし足の裏の皮が剥けて痛くてろくに歩けない時もあった。それでもめげずに道場に一人遅くまで残って練習をした。師範に教えを乞い、メキメキと剣術の腕を上げ、僕を小突き回していた連中を試合で何度も打ち負かした。
僕はここまで強くなったぞ。
待っていたのは称賛でも受容でもなかった。江戸の有名道場への推薦を受けたが誰一人として祝う者はいなく、同級生たちの視線は不公平感を露わにしたり不平不満を滲ませたものばかりだった。頑張ったがために反感を買ったのだと気がついた。
悔しさ惨めさの中にありながらも、両親はきっと褒めてくれるだろうと僅かな期待を抱いて、受け取った推薦状を握りしめて帰路についた。
「あんな子、生まれてこなければよかったのに」
プツンと糸が切れた音がしたのはこの時だ。母の声は今でも覚えている。兄が病弱であることを憂い、弟の僕が健やかに育っているのを疎ましく思っているあの声を。
学問所の試験で満点を取ろうが、江戸の名門道場へ推挙されようが、両親はいつも兄にだけ心を砕いた。母は兄を不憫に思い、父は家督の心配ばかり。次男が才覚を持っていようがただの持ち腐れだとも言った。
僕はこんなに頑張っているのに。
どうして少しも見てくれないんだ。どうしてこれっぽっちも気にかけてくれないんだ。
どうしてみんな僕の頑張りを分かってくれない。
悲しくて悲しくて、胸が張り裂けそうだった。
それからもずっと、寝る間も惜しんで勉学に励んだ。誰よりも武道の稽古に打ち込んだ。成績をあげ学問所歴代の功績を残したが僕は満たされなかった。
「健康でいることをひけらかすな。兄への当て付けか」と報告の度に冷たくあしらわれた。
何故だ。どうして僕の努力を見てくれない。
どうしてみんな僕の頑張りを分かってくれない。
求めるから苦しく悲しい。それからは人と関わることをやめてひたすらに自己研鑽に邁進した。
*
「君は素晴らしいバランサーだ」
僕が訥々と語るのは寒河江自身の胸中だ。提出された数々の書類を読んで仕事ができる女という認識でしかなかったが、真選組で働く様子を見て寒河江の評価は変わった。煩わしい人間関係をものともせず上手く綱渡りし、誰とでも良好でフラットな関係を保っている。ひどく器用だ。何より組織の力の在処をよく理解している。
「どうして」
表情が強張っていく。大きく見開いた目が僕を見据えていた。真撰組にバラされる。その懸念がないとわかって寒河江は僕を黙って見つめている。僕の次の言葉を待っている。
「良い観察眼だ、寒河江くん」
仕事をできる人間を見分けるのは簡単だ。ただその中で自分の使い勝手のいい人材を見つけるのは難しい。言われたことしかやれない愚図に仕事をろくにこなせない出来損ないに勝手に詮索する馬鹿。使えない奴ばかりだった。
「君は自分の能力の有効な使い方を知るべきだよ」
翻って寒河江はそういう意味ではぴったりだった。あれこれと詮索をせず自発的に動いて仕事をし、言われたこと以上の働きを見せた。確信はなかったが使える可能性があると目をつけていた相手がこうも使い勝手がいいのはなんとも都合が良い。
「伊東先生。お疲れ様です。お茶をお持ちしました」
参謀補佐として働き出した寒河江は更に扱い易かった。物覚えは早いし古参の連中とも折り合いをつけて付き合い波風を立てないし何より従順だった。馬鹿の一つ覚えのように指示されたまま仕事をやるのではなく僕の意思を汲み取ろうとする姿勢も利用するにはちょうど良かった。
「ありがとう寒河江くん」
執務室に入って来た寒河江は和三盆が乗った小皿と玉露茶を置きながら声を落とした。
「少し気になる噂がありました。五番隊の下田さんですが…」
仕事で聞いたこと、それもデリケートな人間関係の傷を逐一報告してくる。ここまで自分で考えて自発的に動き回るとは嬉しい誤算だった。そして口は堅い。寒河江にだけ教えた情報が伝播することは一度もなかった。
アルコールで人がダメになるのではない。アルコールで人の本性が露わになるのだ。
「おら飲め飲めー!!」
「ぎゃはははは!こいつもう潰れてんだけど!」
忘年会と新年会を兼ねた酒の席、始めのうちこそ慎みもあったが時間の経過とともに誰も彼もハメを外しはじめる。
誰が始めたのか日本酒の飲み比べ対決をしている。交互に飲んで先に潰れた方が罰ゲームとして一気飲みをするのだという。なんて馬鹿げた遊びだ。だというのに見ている連中は笑いが止まらない。女中の手伝いをしながら酒を飲んで遊びを見守っている寒河江も大笑いしている。頬が赤い。
「伊東先生楽しんでますか?」
「ああ。寒河江くん、少し酔っているね」
「いいえ〜わたしザルなので!全然酔ってません!まだまだいけますよお」
ケラケラと笑っているものの呂律が回っていない。酔っ払いほど酔ってないと言う。説得力の欠片もない。
「結構飲んでますよね。お水持ってきますか?」
「心配には及ばないよ。大丈夫だ」
酒の量はコントロール出てきてる。酔っ払いに心配される謂れはない。申し訳程度に酒を猪口に注いで飲み干す。一切口にしないのは都合が悪い。程よく飲まなければ、ある程度と付き合いをしなければ物事が上手くいかないのが社会というものだ。
「伊東先生、酒が進んでますなぁ!」
「近藤さんもだいぶ飲んだようですね」
豪快に笑う近藤に肩を組まれ背中をバンバンと叩かれる。全く馴れ馴れしい。どうしてこうも下品でみっともないのか。腹立たしい。自然に逃げ出す算段はないかと考えていると誰かが近藤と僕の間に割り込んだ。寒河江だ。
「近藤さんってば悪酔いしちゃって〜!伊東先生に絡んじゃだめですよぉ」
「なぁにい〜?悪酔いなんかしてないぞ!これから伊東先生と仕事の話をするんだよお!」
「酒飲みながら仕事の話はやめてくださいー。素面の時でも変なことするんだからお酒入ってたら何するかわかったもんじゃないでしょうが。マジ勘弁してください。飲み足りないなら私が付き合いますよ」
「ん?なんか今めっちゃ失礼なこと言わなかった?」
「はいはい、お酒注ぎますね〜!」
持たされた猪口に酒を注がれると近藤は上機嫌そうに笑った。僕から引き剥がした近藤を黙らせる寒河江の素早さに少し驚く。
隊士たちが酒盛りでどんちゃん騒ぎをしている部屋を出て静かな廊下を歩きながら考えた。僕が近藤を煙たがっていたのに気がついてあんな振る舞いをしたのだろうか?いや、表情に出すような下手な真似はしていないはずだ。酒で少し逆上せた頭で結論付けた。
「酔っていたんだ。偶然だろう」
参謀室で寒河江がポケットから取り出したのは見慣れたものだった。黒革に真撰組と印字されている手帳だ。
「副長の身分証明証です。紛失も局中法度に引っかかりますよね」
「三回紛失で謹慎処分だ」
「これで三回目です」
膝元に身分証明証を置いて寒河江は居住まいを正した。
「除隊にせよ更迭にせよ、材料は多い方がいいかと思いました。遺失物管理は事務方の仕事です。気がついたら真っ先にわたしのところに来るはずですし」
「…どこでそれを?」
「不用心に置いておく方が悪いんです」
寒河江は詳しく話そうとしない。他にも私物購入の領収書を出して経費扱いにしようとした件も寒河江から提案してきたものだった。悪知恵がよく働く。彼女の出生ゆえに不思議なことではない。
「経緯をお話しした方がよろしいですか?」
「いいや。後続処理は君に任せる。近藤さんに渡す書類には仔細記載をするように」
「わかりました」
寒河江は近藤の推薦で以って真選組に入ることになった。謂わば恩人だ。その人物を陥れようとする工作に積極的に関わろうとする胸中がわからない。
いつだったかいやに仰々しく礼を言ってきたことがあった。仕事を教えたこと、流派替えを勧めたことなど感謝してもしきれないと。素気無くあしらっても食い下がった寒河江に僕に付き従う意味はなんだと問うた。
出世したい。真選組内でそれなりの地位が欲しい。協力するのだから相応の見返りを要求します。
そんな言葉か返ってくると思っていた。
「近藤さん同様に伊東先生にも恩があります。そして恩以上に貴方を慕っているからです」
耳を疑った。
慕っているだと?この僕を?
理解ができなかった。そんな理由で昔馴染みの仲間を排斥する側についたのか?どう問い質すべきか判断がつかず言葉を失くしていると言いたいことは言ったとばかりに満足し、寒河江は一礼してその場を後にした。
*
麻痺してしまったのか体全体の感覚がぼんやりとしている。目を開けると、向こうの方に父と母の背中が見える。その周りに立っている同級生たちは僕を睨んでそっぽを向いた。
どうしていつも僕は一人なんだ。
いつも思っていたことを呟いた。孤独さに耐えかねて周囲と距離を置く日々。同級生たちの笑い声が聞こえる度に見下した。面白くもないもので時間を浪費している連中なんて。そう切り捨てた。
どうしていつも僕は一人なんだ。
切り捨てたはずのものはずっと僕に付き纏う。何をしても離れない。嫌な感情だ。誰か心を許せる人が一人でもいたならば。仲間が、理解者がいたならば。そんなことを考えてしまう。
一人じゃないです。
独り言に誰かが答える。知らない人だ。覚えのない声だ。どうして僕に話しかけるんだ。
わたしがいるから、死んじゃダメです。わたしだけは何があってもあなたのそばにいる。
君は誰だ?
「伊東先生!」
聞き覚えがない声の主は部下だった。真選組の参謀となった僕が一番扱いやすいと思っていた、女隊士だ。
「先生!伊東先生ってば!死んじゃダメです!絶対に死んじゃダメ!!」
寒河江…?何を言っているんだ。僕が死ぬ…?ああ、そうだ、左手の感覚がないんだ。列車が爆発したら肩から先がなくなっていて、それで、なんだっけ。確か土方に斬られて、いやその前に沖田くんを追っていたんだ、それから…。ああ、近藤は今どこにいる…?
「お願いです!見殺しにしないでください!わたしはどうなってもいいから、彼を、伊東先生を助けて!!」
君もそんな大きい声を出すんだな。いつも静かに喋っていたから知らなかった。
寒河江、顔に血がついているぞ。怪我をしているんじゃないのか。
手を伸ばそうとしたが、ぼんやりとしていた感覚が広がって更に曖昧になっていく。起きていられなくなって、そのまま目を閉じた。
20201222