邂逅
※本編後
ひどく深い眠りについていた。靄がかかっていた視界が不意に開けると、橙色に染まる天井が静かに大きく目の前にあるだけだ。漠然と、途切れていた意識が繋がって、天井を見ていることに気が付く。
「痛むか?」
誰かの声がした。どこかで聞いた声だったが、思い出せなかった。声のする方へ目を向けても、声の主は見えなかった。向けた視線のその中にいなかったのか、そもそも俺は視線をそちらに向けられていたのか。それより、なんと言った?
「体は、痛むか?」
―いや、わからない。
唇は動いていただろうか。そこから漏れる息は声になっていただろうか。不意に覚醒した意識は、そのやりとりだけでひどく疲弊し、なにを差し置いても意識を手放したがった。瞼が重い。体が重い。
「そうか」
今はただ寝ることだ。そう言って瞼を閉じるよう促す。額の上あたりに翳された手。男のそれではない、少し小さめな手であったが、よく働く者の手をしていた。影が出来る。一気に視界が暗くなり、不思議な安心感から瞼が落ちてくる。
「おやすみ」
光の届かない、真っ暗闇に飲み込まれる。そのままなめらかに意識は途切れた。
*
赤池ノ國に戻るのは久方ぶりだった。昨夜からしんしんと降っていた雪は止んでしまったし、妙に目が冴えてしまったから、夜明け前に宿を出た。朝陽が顔を出し始めて濃紺色が残る空を背に、静かな海辺を歩く。
「心地いい寒さだな」
凍みる朝の空気の中を一人で黙々と歩く自分の足音に重なるように馬の駆ける音がする。こんな早朝に何だ?不安から振り返ると、乗り手のいない馬だけが駆けてくる。どこからか逃げ出したのか、と思えば鞍も手綱もかけてある。一体あれは。
「馬から振り落とされたのか?」
興奮していた馬が来ただろう方角を見遣ると、誰かが海辺で横たわっていた。なんでまたそんなことに。落馬したとなれば大怪我ではないか。馬を落ち着かせ手綱を引いて馬の主と思われる人物のもとまで急ぐ。遠くからでは判別出来なかったが、二人いた。すっかり血の気が失せている青年を前に、必死に声をかけている少年。その少年のそばを忙しなく動き回る犬が一匹。青年と少年と一匹。妙な組み合わせだった。
「少年、どうした」
予断を許さない雰囲気から、私の存在に気がつかなかったらしく弾かれたように顔を上げた少年はすぐさま警戒の色を露わにした。少年だけでなく、彼の連れと思われる犬までもこちらに牙を向け威嚇している。
「私は行商の薬師だよ」
診よう、と砂浜に横たわってぴくりとも動かない方を指差した。警戒を解くか否か。目の前にいる青年の容体と素性不明の薬師と、どちらを秤にかけるかだったが、少年が迷ったのは一瞬だった。
「助けてくれ。血が流れて、氷みたいだ。しっかりしろってば」
べそをかく少年と物悲しげに鳴く犬。背負っていた薬箱を下ろして青年の横に膝をついて体を調べる。脈はまだある。傷は、と袖口と捲ったが全身を見るまでもない。
「ひどいな」
出血が多すぎる。体中に刀傷があり、そこから静かに溢れる血が着物を赤く染めた。
「一体何が」
戦でもあったわけじゃなかろうに、と喉まで出かかった言葉はそのまま引っ込んだ。乱れた髪を払って、青年の顔を見たからだ。こいつの顔を知っている。お前、刀を封じた筈じゃなかったか。
「死んじまうのか?」
瞳に大粒の涙を浮かべている少年の声で我に返った。問いただすより、まず手当だ。
「近くに雨風を凌げる場所がある。そこへ」
ここでは寒すぎる。止血を施し青年を馬に乗せ、彼を支えるように少年を座らせて道を急いだ。
*
深い深い海の中を漂い、あてもなくたゆたうだけだった感覚。静かに、それでいて確実に何かに引っ張られて意識はゆるやかに覚醒した。貼り付いて剥がれない瞼を長い時間をかけて自力で開けた。次に見た天井は橙色ではなかった。太い梁が立派な天井だった。
「おはよう」
足元から声をかけられた。
「意識が戻ったみたいだね」
気分は?と仔太郎ではない、誰かの声に弾かれるように跳ね起きようとする、が体中に走る激痛に体が萎縮してうずくまる。
「――っ! 痛っ」
「こらこら、無茶しなさんな。傷が開くよ」
痛さで起きあがる余裕があるわけもなく、引き揚げられた魚のように体を痙攣させただけで寝床に逆戻りした。暴れ回る痛覚が収まる頃、自分の隣に座る人物が誰かを思案できるようになった。高すぎない声と女の割にはたおやかではないのに優しい柔和な語り口。名無しの耳には懐かしい声だった。
「燎」
「久しいな赤鬼」
少し切れ目の凛とした佇まいは昔から変わりない。
「お前、どうして」
燎に問いかけるよりも前に、切羽詰まった声が屋敷の一室に響いた。
「名無し、目が覚めたか」
軽やかな足音とともに、泣きそうな顔で駆け寄って来たのは仔太郎だった。布団の角に足を引っ掛けて転びながら枕元に滑り込んで半べそをかきながら笑う。
「私がお前の世話を出来ない間、仔太郎がしてくれたんだ」
「はは、お前が」
何が可笑しい、とむくれるのも束の間、ようやく目を覚ましたことに安心してやはりまた笑って泣く。忙しいやつだ、と名無しは肩を竦める。
「仔太郎、白湯を頼めるか」
「わかった」
台所へ駆けていく仔太郎の背はどこか大きくなったように見える。そんな姿を見送って、この屋敷の主へ視線を移して先ほどの問いかけをする。
「燎、なんで」
「忘れたのか。私の故郷はここ赤池だ」
ついでにお前が寝てるここは私の家だ、と続ける声は少し遠い。横に視線を遣ると、壁一面に薬棚がある。燎は代々続く薬師の家に生まれたのだと聞いたことがあったが、こんなにも立派だとは思いもしなかった。
「包帯を代えよう。掴まって」
替えの包帯を手に布団の傍らに戻ってきた燎の背中に手を回し、やっとのことで起き上がる。塞がりかけた傷がじくりと痛みを発した。ここまで自分の体を重いと感じたのは初めてだった。
「相変わらずお前の髪は綺麗な色だな」
解けた髪をくしゃりと触った燎は、名無しの耳の傷に薬を塗る。
「あれから、何日経った」
「四日」
「俺はそんなに寝てたのか」
「魘されもしないでな。死んでいるようだった」
薬を塗って包帯を巻く。息をするのと同じように、燎にとっては当たり前の作業だった。昔もこんな風に手当てをしてくれた。名無しは懐かしく思った。
「誰と戦ったらこんな傷が出来るんだか」
戦ではないにしろ、仔太郎を何某から守るために命を削ったのだろうと、おおよその推測はついていたが、ついさっきの仔太郎と名無しのやりとりを見て燎は確信するに至ったのだった。
「息災でなにより、と言うには満身創痍だな」
「お前は少し疲れているな」
数年ぶりに会う互いの顔は、互いが知らない空白期間に何かしらあったことを物語っている。
「燎、白湯を持って来た」
「ありがとう」
盆に乗った大きめの茶碗に白湯を注いでそれと一緒に薬を渡された。
「治るまで居たらいい。その深傷は生半可じゃないだろうしな。治し甲斐がある」
治療は任せておけ、と言いたげな笑みを湛えて燎も白湯を口にした。その隣では仔太郎が茶菓子をつまんでいる。さっきまで半べそだったのはどこのどいつだ。治るかどうかはお前の体力次第、と言っても燎はあれこれ手を焼くのだ。その飄々としつつも世話好きな性格の心地良さに名無しは思わず笑い、薬を飲んだ。
「ぐっ」
燎の薬は驚くほど苦かった。
20150809