覆らない
※腹黒彼女
花宮と向かい合うときは大抵見上げる姿勢になる。歩幅だってあちらの方が大きいから隣を歩くとなればこちらは足りない分を速度か幅で補う必要があるわけで。腕や足の長さ、手や足の大きさ。着ている服や靴のサイズ。花宮とわたしの身長、体格の違い。大きい差だ。反抗しても反撃しても大抵は絡め取られ押さえつけられてしまうし、歯向かう度に無駄だと言われる。言われたところで止めはしないけど。
「…あれ…」
ふと目についた腕の痣はいつからあったのか身に覚えがなかったけど、部活中にできたと考えるのが妥当だ。昨日は部活がなかったから一昨日か。手首の辺り、薄赤紫のちょうど掌くらいのそれは色合いからできたばかりだと分かる。見慣れた形と色。いつものことだ。
「…なんだこれ」
膝の内側の痣。これも覚えがない。楕円形の薄赤紫色。机か椅子かにでもぶつけたんだろう。これも割といつものこと。
「楽しかったねー。最後の授業がマラソンとかじゃなくてよかった」
「わたしはそっちの方がまだマシだった」
学期末最後の体育の授業はよりによってバスケだった。大きさも重さも、扱うのは手に余る。ボールを持っているのが嫌で適当にパスを回した。気に障る。色も形も質感も、バスケットボールというだけであいつを連想させる。腹立たしい。不快だ。
ひたすらパス回しに徹して立ち回っているうちにゲームセット。そのあと、メンバーを入れ替えては対戦するのを授業が終わるまで繰り返した。
「辛くない?一人で黙々と走るの。あ、でも悠はチームプレイ好きじゃないもんね。そっちの方が向いてるか」
「そういうことにしといて」
大人数制のスポーツは見応えがあるし面白い時もある。別にチームプレイが嫌いというつもりで言ったわけじゃないけど、本意を悟られるよりかはいい。滅入る気分のまま着替えをしていると、友人は首を傾げた。
「悠、どっかに腰ぶつけた?」
「なんで」
「痣できてるよ」
「え、」
シャツをめくり上げると、少し大きめの痣が一つ。これも真新しい色をしている。
「練習で後輩に蹴られた?」
「まさか。蹴られたら痣はこんな小さくないしそもそもこんな場所に当たらないし」
「痛くないの?」
「全然」
「ふーん、そっか」
まさか他にはないよな。なんとなく嫌な予感がして友人の目を盗んで左側の腰を見ると、同じような痣ができている。なんで左右対象にあるんだ。
「……あ、」
唐突にフラッシュバックした光景とともに感触が蘇る。腰の痣は強く押さえ付けられて鬱血した跡だ。膝の内側も恐らく同じようにしてできたもの。体温と匂いと声が脳内を一瞬で駆け巡る。ふざけやがって、あの野郎。
「…どうかした?」
「なんでもない」
「いや、なんでもなくないでしょ。人を殺しに行きそうな顔してる」
「平気」
後輩シメちゃだめだよ。友人の咎める言葉になんて返答したかは覚えてない。苛立ちを腹の奥に押し込めながら更衣室を出た。
*
いつものことながらこの顔を見ると腹が立つ。存在だけで人の神経を逆撫で出来る奴もそうそういない。天賦の才。お前は人をイラつかせる才能に溢れている。図書室で鉢合わせした花宮に刺々しく言ってやった。
「消えろ」
この一言には諸々の意味が含まれる。近寄るな。話しかけるな。視界に入るな。それをわかっていて尚、花宮はわたしに接触するわけだ。わたしが最も嫌がることをする。こいつはそういう奴。
「随分な挨拶だな」
「視界に入るな」
「見なきゃいいだろ」
「話しかけるな」
「お前から声かけてきただろうが」
「近寄るな。こっち来るな」
「俺もここに用があんだよ」
何を言っても意に介さずひらりひらりと躱す花宮が憎たらしい。律儀に一問一答するのはわたしの向ける敵意や憎悪など些細なものとして扱っているからだ。わたしの言葉の刃は花宮に刺さるどころか上滑りして、やりとりはただの口喧嘩に成り下がる。
「邪魔だ、退け」
「うるさい触るな」
「お前が退けば済む話だろーが」
押し退ける花宮の手を肘で振り払って拳をぶつけても叩いた確かな感触があるだけで、痛がる素振りも見せない。どうしたって力負けする。押し返されてわたしがよろけた隙に花宮はヒョイと一冊の本を手に取った。
「あ、ちょっと待っ…」
「悪いな。早い者勝ちだ」
「はぁ!?」
「四日で読んで渡してやるよ。お前は二週間くらいかかりそうだからな」
「何言ってんの。返して」
嘲る言葉と蔑む表情。探していたものを横から掻っ攫われてた上にお前には過ぎた内容の本だと揶揄われて腹が立たないわけがない。頭に血が上る。すぐに追いかけて腕を掴んで制止してやったけど振り返りもしない。お前、ホントに何様なの?
「三日で読む。あとから来て横取りはないでしょ。返して」
「しつけえな」
「ふっかけてきたのはそっち。喧嘩なら買う」
「だからしつけえ…」
鬱陶しそうに振り返る花宮の言葉尻が萎むと同時に、わたしの手を掴んで引き寄せた。振り解こうとしたけど、腕を捻ろうが踏ん張ろうがびくともしない。力の加減なんてこれっぽっちもしないで、花宮はわたしの腕を鷲掴みにしている。
「虫の居所が悪いのはこれの所為か」
手首にできた痣を見て、納得したように言う。煩しそうにしていたのにいつの間に薄ら笑いを浮かべてわたしを見下ろしている。
「八つ当たりすんなよ。お互い様だろ」
なにが。体のあちらこちらに跡を残しておいてなにがお互い様だ。花宮は睨むわたしを嘲笑う。未だに掴まれたままの手を今度こそ引き剥がした。腹立たしい。不快だ。
*
手の甲の傷は目立つ。猫にでも引っ掻かれたとでも言えば誤魔化せるが背中の方は難しい。加減もできずに爪を立てられたせい少しひりつくし赤い傷口は目立つ。チクチクとした痒みが背中を走る度に気が削がれる。
「チッ」
数日もしないうちになくなるだろうが邪魔くせえ。ふとした拍子に気になり始めると集中が途切れる。背中に傷をつけた張本人の顔が浮かんだ。泣きながら恨めしそうにこっちを睨みつけて啖呵を切ってくる。覚えてろよ、と。いくら鋭い言葉を吐こうがしゃくり上げてりゃ世話ねえ。弱いところを小突いてやればあげそうになる悲鳴を噛み殺して耐えていた。
「消えろ」
いつものことだが、悠の機嫌が悪い。顔を合わせるなり吐き捨てる言葉は冷たく、忌々しげに俺を見る目は据わっている。纏う雰囲気は重苦しい。近寄るなら噛みつく、とばかりに威嚇して唸る。知ったことか。構わず間合いを詰めれば想定内の罵詈雑言が飛んでくる。
「視界に入るな。話しかけるな。近寄るな。こっち来るな」
息をつく間もなくギャンギャン喚いて犬か、お前は。目当てだった本を棚から抜き取ればわたしが借りるつもりだったと捲し立てる。話しかけるなと言う割には突っかかってきやがって喧しい奴だな。
「三日で読む。あとから来て横取りはないでしょ。返して」
「しつけえな」
「ふっかけてきたのはそっち。喧嘩なら買う」
「だからしつけえ…」
ふと、悠の腕に視線が止まる。手首にある痣には見覚えがある。ああ、こいつはそれでいつも以上に機嫌が悪いのか。その癖こうして元凶になってる俺と接触するわけだ。悠、本当にお前は頭が悪いな。
「八つ当たりすんなよ。お互い様だろ」
益々怒りの色が濃くなる。眉間の皺はより深く、目尻は裂けそうなほど吊り上がった。が、悠にできたのは精々それくらいで、反論の代わりにようやく絞り出した言葉はただの愚痴だっだ。
「不愉快にも限度ってもんがあるわ」
言ってどうする。嘆いてどうする。嗤われてぐうの音も出ない悠は俺を睨む以外に何もできやしない。昨日と同じように。
*
声を出すのが心底嫌なようで、息を殺している。
「…は、離せってば… 」
屈辱だろうな。いいように扱われ反応するところを探り当てられて抵抗もろくにできないってのは。引き攣る背中を見下ろしながら中を穿つと悠が掠れた悲鳴を上げた。
「―、ぅ…あっ」
「息くらいしろよ。苦しいのが好みなのか」
疲れ果てて身動きできない代わりに睨み上げる目だけは復讐心に燃えてギラギラと鋭い。涙を浮かべていても刃物のように光る。いつだったか言われたな。然るべき方法で仕返ししてやる、後悔させてやる、泣いて詫びても許さない、だったか。威勢の良いことだ。
「言うだけなら誰にでもできる」
「ひっ…」
「やってみろよ、なあ」
「う、っさい…」
散々気を遣った後でも辛辣さは健在で悠の言動全てが刺々しい。それもいつもと比べれば生温く、せめてもの抵抗で爪を立てるのが精々だ。蹴ろうが手を上げようが全く歯が立たないのが悠は心底面白くない。後ろ手に押さえつけられた痛みに喘ぐ。
「痛っ…!」
「然るべき方法で…お前なんて言ったか?」
「覚えて、ろ……ぃ、あ…っ!」
強引に押し倒し押さえつけられた痛みと快感で混乱する悠は憎まれ口を叩く。何を言っても無駄だっつうのに相変らず口を開けばこれだ。どんなに憎しみを募らせようが怒りを向けようが俺と悠の優位性がひっくり返ることはない。腰を掴んで脚をこじ開けると馬鹿正直に反応するんだもんな。笑っちまう。
「飽きるほど聞いたぜ。その言葉」
20201107