温い陵辱
※腹黒彼女
「イライラしてんの?」
ストローを噛む花宮を見て思わず聞いてしまった。透明なカップに入ったブラックコーヒー。それを手にしたままわたしの言葉を吟味してから花宮はやや意外そうに首を傾げた。
「寝てなくていいのか」
「横になってればとりあえず平気」
「…飲むか?」
「冷えるから要らない」
水滴が付いているカップを揺らせば、氷が浮いているコーヒーはしゃらりと涼しげな音を立てた。体に冷たいものは入れたくないし別に喉は乾いてない。送風だけを使っている室内は程よい温度で心地良かった。
「お前が気遣いか。明日は雪でも降るんじゃねえの」
「降るわけないでしょ」
イライラしているのか、という問いに花宮は答えない。その上に何を履き違えているのか気遣いと受け取ったらしい。どうしてそうなるんだ馬鹿花宮。
茹だるような暑さは日に日に弱まっているもののまだ秋の入り口に差し掛かったばかりの気候だ。物の例えと理解していても揶揄いの言葉に少しばかり腹が立つ。
「アンタに気を遣う必要がある?」
いつだったか興味があると溢した映画を観に行く流れになってしまって、予定が入っていなかったのもあり連れ立って出掛けることになった。なんの気の迷いだ。花宮と揃って観に行くなんて。
重厚感のある設定に無駄のない脚本。美しい映像に満足感は十分だった。それに反して恐ろしいスピードでわたしの体調が悪くなった。ひどい立ちくらみの原因は多分貧血。冷房に当たったのか元から体調が悪くなる要因があったのかは判別がつかないけど、立っていられなくなってしゃがみ込んでしまった。そのまま動けずにいたら花宮はため息をついてわたしの腕を掴む。
―文句は言うなよ。具合悪くした自分を恨め。
ぶっきらぼうな前置きのあと、霞む視界と歪む平衡感覚の中を花宮に腕を掴まれながら歩いた先にあったのはラブホテルだった。花宮の言葉の真意をそこでようやく理解した。文句は言わないし体調がこうも悪いなら横になるのが楽だし回復するには一番手っ取り早い。納得していても抵抗感があるのは否めなかったけど、成り行きでなってしまったものは致し方ないと腹を括って足を踏み入れた。
「だけど迷惑はかけた…」
「いつも偏屈なお前がいやに素直だな」
「うるさい」
覚束ない足取りでベッドに辿り着いてそのまま身を投げ出した。指一本動かす体力もない。気怠さに飲まれるようにそのまましばらく寝入ってしまったらしい。気がつけばベッドの端に腰を下ろして携帯をいじっている花宮がいた。手持ち無沙汰ではないようだったが暇であることには変わりないし虫の居処が悪そうに見えたからイライラしてるのかと聞いた。が、存外にいつもと変わらない態度だった。謝る気はこれっぽっちもないけど罪悪感くらいはある。
「アンタにしてみればただの時間ロスでしょ、これ」
「そうだな」
「だから機嫌悪そうに見えた」
「それで怒ってると?」
「うん」
「ガキじゃあるまいし」
相変わらず携帯をいじったまま花宮は言う。
「機嫌悪いのはお前だろ。俺に貸しを作ったって内心穏やかじゃなさそうだが」
「穏やかではないね」
「だろうな」
「機嫌、悪くはないつもりだけど」
「じゃあなんだよ」
「良心の呵責」
「良心なんてもん持ってたのか。そりゃ驚きだな」
「うっざ…」
なんてわざとらしい。仰々しい演技で驚いたフリをする花宮は途轍もなく嘘くさいし癪に障る。思わず舌打ちをする。嗤っていた花宮はわたしを見下ろした。一人で時間を持て余すのには飽きたらしい。
「暇潰しだ。付き合え」
ベッドの上で寝転がるわたしに覆い被さった花宮は、脱力したままの腕を掴んだ。自由を奪う割には動きが緩い気がする。手首を易々とシーツに押さえつける掌はわたしのそれよりずっと大きい。
「暇潰しで病人相手に盛るわけ?図太い神経してんのね」
「大袈裟な奴だな。そこまで減らず口が叩けるなら病人じゃねえよ。顔色が少し悪いだけだろ」
わたしの腕を掴む手も服越しに感じる体温も何故か不快じゃない。いつもならすぐに振り解いて、ついでに横っ腹に蹴りの一つや二つ入れてやるのに。衣擦れの音と、すぐ近くにある体温と花宮の匂い。口元に湿った柔らかいものが這うと、反射的に口を開いてしまいそうになる。
「ん、」
至近距離で視線が交わった。一瞬の間を置いて、また舌が唇に触れる。温かい。ゆるりゆるりと緩慢な動きで舌の先で皮膚を撫でられるとくすぐったくて応えてしまう。口を開けて、花宮の舌を受け入れる。柔らかさに混じって微かにコーヒーの味と香りがする。やけに客観的に分析するだけの冷静さはあった。情緒もなにも感じさせないような素っ気い動きで絡ませていたそれを舌で押し出して花宮を睨んでやる。
「これで貸し借りなし」
「自分の価値を大きく見積もり過ぎだ」
「アンタはわたしを過小評価し過ぎ」
「ちっ。よく喋る」
黙ってろ。口調の割に刺々しさのない雰囲気の花宮はわたしの耳を覆ってさっきと同じように唇を重ねた。水っぽい音が頭の中で反響して、首筋からぞくぞくとなにかが背中に走り抜けていく。その感覚が嫌で花宮の顔を押し退けた。
「んだよ」
「耳触るな」
「はいそうですか、って止めると思うか?」
「は?ちょっと…なに…っ」
押し退けた手を噛まれてわたしが咄嗟に手を引っ込めた隙を逃さず、花宮は容赦なく繰り返す。痛くないどころか優しい手つきに混乱しつつ結局は流されてしまう。生温かい感触が唇を行き来して、ぬるりと滑り込んでくる。出て行けと舌を押し出しても飽きもせず何度も入り込んできて、その度に聞くに耐えないような甘ったるい音がする。
「少しは顔色良くなったんじゃねえの」
「はぁ、 うるさ…」
悪態を吐く前に口を塞がれて、花宮を罵る言葉はただの呻き声になった。繰り返される接触に鳥肌が立って変な声が出そうになる。鼻から抜けるような、骨抜きにされてしまった情けない声が。言葉を発しようと必死になればなるほど花宮に触れてしまう。
「や、花宮 はなして…」
「手を退けろ」
「ん、む」
「それでいい」
空気が足りない。息継ぎをさせる気がないのか、しつこく口の周りを食んで舌を絡めてばかりいる。腕を突っ撥ねても花宮はびくともしない。体を捩ったところで程度の低い抵抗にしかならないし抵抗にすらなってないかもしれない。柔らかい粘膜と、感触と温度と音に翻弄されて思考が鈍る。抵抗心が溶けていく。柔らかい感触に気持ちが揉まれていく。
「くるしい、ってば」
「悠」
「しつこい、やだ…」
「は、泣いても止めてやらねえ」
心底愉しそうに笑う花宮が憎たらしい。力の入らない手じゃ服を引っ張るのが精々で強請っているみたいで恥ずかしいったらない。際限なく続く行為に眩暈がしてきた。いつまで続ける気だ。浅い呼吸のせいで頭が働かない。離れては触れて、触れては離れて。柔らかさがむず痒い。意識はボヤけているのに感覚だけは研ぎ澄まされていく。気に食わない。
「いつまで、…ん」
「気が済むまで だな」
「済んだから、はなして」
「お前のじゃねえ」
「は、あ…」
「俺の気が済むまでだ」
「もう やだ、…」
「良心とやらはどこに行ったんだよ」
くつくつと喉の奥で押し殺した笑い声がする。口答えする手立ても物理的に仕返しする体力もなくなって、花宮にされるがまま受け入れ続けて思考が麻痺した。だからそのせいで花宮の唇に噛み付いたり舌を這わせたりなんてことができてしまったんだ。
「飽きねえな、本当に」
花宮はわたしの反応を見てまた嗤った。
20201002