インソムニア
※腹黒彼女
※社会人

ふと目が覚めた。頭と体が水と油のように分離している。眠いのに覚醒している。明瞭な感覚なのに全てが漠然としている。力が抜けているのに強張っている。なんだろう、この妙な浮遊感と重さは。花宮を見遣る。寝ている。当たり前だ、私が起きているから、寝ている。

いや、普段なら寝ているはずなのに私が今、起きているだけで、別にどちらかと相反する動きをするわけではない。そんなことはいい。なんで、こんなに冴えているのに、重苦しいんだろう。花宮の後頭部をぼんやり見る。横向きになって腕に顔を埋めている体勢なのか、肩口辺りから手が見える。

視力が悪いから、はっきりとは視認出来ないけど、切り揃えられて均等な爪。厳ついほどでもなく程よく厚い指。

「…………」

そういえば、今何時だ。枕元の携帯の液晶を見遣ると02:07と表示されている。ベッドから這い出て微かな立ち眩みによろけながら寝室を出て、リビングのソファに座り込む。テレビはつけない、本も読まない、灯りを点けない。

無音と暗闇の中でただぼけっと座っている様は端から見ればホラーの様相かも知れない。が、そんな考えが一瞬過ぎっただけでそれ以上考えるのを放棄した。驚く可能性のある唯一の人間は今頃夢の中だ。電化製品が時折発する稼働音だけが、部屋に響く。時たま発せられる何かが軋む音。遠くで聞こえる車のエンジン音、秋の虫の鳴き声。聴覚が勝手にそれらを捕捉していく。

ふと、気配がした。気のせいだと思ったのは私の思い違いだった。数瞬置いて、聞き慣れた声が耳腔に滑り込む。

「2時半だぞ、今」

振り返ると、胡乱げに私を見下ろしている花宮がいた。なんだ、起きたのか。

「そうだね」

「そうだねって、お前な」

「冴えちゃって」

寝れない。体は心底、芯の奥まで疲れているのに。頭が鋭敏に察知して覚醒していろと命令をする。何を察知してるんだろう。後方で立ち尽くしている花宮を見上げたまま、見当違いだと承知していながらも口をついて出た。

「付き合ってくれなくていいんだけど」

「バァカ。俺は大体この時間帯に一度目が覚めんだよ」

「そう」

それは初耳。毎日そうなんだ。私の問いかけには答えず、花宮はボスンと乱暴にソファに腰掛けた。

「寝ないの?」

「俺の勝手だ」

「そうだね」

体は重い。頭は、思考がよく回るようで実は何も深く考えようとはしない。背凭れに深く寄りかかって、立ち上がる気力はない。こいつは、花宮はいつまで隣に座っているつもりなんだろう。なんで、私の隣に。いつまで、そこにいるの。どうして、そんな。さっさと寝ればいいのに。

「…寝ないの?」

「勝手だろ」

「そう」

また同じ会話の繰り返し。他に聞くことがあったんだろうけど、それしか言葉が出てこない。ただ無気力に座って時間が流れるのをぼんやりとして眺めている。取り残されている。

「寝れねえんだな」

「うん」

分かりきったことを聞くんだね。口にはしないけど、花宮は多分、私の考えていることを察しているんだろう。

「悠」

視界に花宮の手が現れた。距離が、縮まる。あと数センチで触れる。意図するところを理解はした。が、拒絶する理由が見つからないし、する気持ちも湧いてこない。ただ無気力に、ただ、受け入れる。

「好きにしてよ」

「言われなくてもな」

そのつもりだ。少し冷たい花宮の手が首筋を撫でた。下着と肌の間に手を差し込んで、押される。抵抗する気もないからそのまま力なくソファに倒れ込む。体を翻して花宮と向き合えば、目と鼻の先に体温を感じる。耳に、息がかかる。熱い。耳に、滑りのあるなにかが、触れて、次いで固いものが触れた。

「!」

地を這うような低音で「好きにしろって言ったのを、忘れるなよ」と釘を刺された。反射的に、花宮の服を掴んでいた。突っ撥ねようとしていたようで、我に返る。のし掛かられて抵抗しない私を、私の耳を、花宮の声が、息が、音が、陵辱していく。行き場を失った何かが体の中を行き来する。粟立つ肌が、全身が震える。

「―、っ ん」

堪えればどうにかなっていたものが、許容範囲を超えていく。どんどん積もっていく。積もりたまったものはいずれ崩れる。掠れた声が漏れた。身じろぐ私を押さえつけて陵辱は激しくなる。頭が、揺れる。視界が、霞む。

「悠」

返事はしない。出来ない。する余裕がない。口から出るのはただの呼吸音だった。しつこく続く嬲りに似た行為で、私が出来たことと言えば辛うじて花宮にしがみつくことだった。息が詰まる。鋭敏になりきった皮膚が、花宮の熱と動きを細かに享受していく。

「っ…、ぅ……ぁあっ」

はなみや。呼ぼうとするより早く体が突っ張る。花宮の背中に指を縋りついて爪先でソファを蹴って、背中を反らして抱き着いたまま、意味も分からず達した。





「はなみや」

啼いた。振り落とされまいと必死に掴まる手は強張っている。

「う、んっ」

余韻を引きずったままの悠を強引にまたソファに組み敷いた。次は逆の耳。同じように噛み付く。腕の中で迫るそれに備えて悠の体が萎縮する。息を止めて、声を抑えようとする。一拍遅らせて、耳殻を噛む。あっさり裏切られたせいで、間抜けな声がした。

「ひ、やあ……っ」

ベッドから這い出る音がするより前に気が付いた。恐らく、悠は起きているだろうと思った。矢先に寝室から出て行く後ろ姿を見て、しばらく放っておこうと思ったがそのまま帰ってこない。灯りもつけずにリビングのソファで茫然としている悠を見て、無意識のうちに声をかけた。

「や、っ……ん、あ」

別に何をするつもりでもなかった。ただ、なんとなくだった。ぼんやりと虚空を見つめているだけの悠の横顔が妙なことに、儚くみえてしまった。また無意識に手を伸ばしていた。歯向かうわけでもなく、好きにしてよ、と自ら俺の手の内に選択権を投げてよこした悠を文字通り好きに扱う。

「は、……はなみや」

耳当たりの良し悪しがある声ではなかったが、今はどういうわけか酷く心地良い。名前を呼ばれることをもっと要求したくなる。湿り気を帯びて艶のある空気を纏っているのか、唇から漏れるそれがいやに、こびりついて離れない。それが、堪らない。

「悠、」

空気が声になる。声にならず空気として出て行く。その僅かな差が、悠の耳孔を擽るのか、また体を捩った。逃げようとする動きに肩を上から押さえつける。

「逃げて、ない」

「何も言ってねえ」

「…っ そのうち、」

言うじゃない。だから先に言っただけのこと。逃げてない、と言い切るだけは簡単だ。言うだけで意味を持たない。控えめな喘ぎ声に、意味を持たない言葉。

「重い、………っひ」

「我慢しろ」

不服故なのか、それとも与えられ続ける刺激に対してなのか、悠は眉間に皺を寄せた。肌が熱を帯びていく。圧迫されてどうにか動かせるだけの四肢が、蠢めく。足が絡む。手が縋る。意図の有無に関わらず、ただの生理現象を紛らわすが故のものでも、肌が触れていることに充足感を覚える。

「っう…ん、」

喘ぐ度に喉が動く。息を飲む度に胸が上下する。聴覚を犯せば、それに呼応して体が撓る。滲む涙が、悠の目尻から溢れる。表面張力の限界を超えて、頬を伝った。

「あっ、う、は…」

掠れて囁くよりももっとか細い声で、俺の名前を呼んだ。花宮、と。喉を仰け反らせ肩を震わせて、呼んだ。



ぶつりと乱暴に切られた意識。五感を手放してしまったのは一体どこからなのかが曖昧で、思い出せない。

「良く寝れたみてえだな」

部屋に差し込む陽の明るさで自然と目が覚めた。と、同時に花宮の声がした。ソファで意識を手放した私に、毛布がかけられていた。

「ん、うん…?」

状況の把握をいち早くするのに、体は言うことを聞かない。返事もろくに出来ずに適当な呻き声を上げて、起きている旨を知らせた。腰と背中だけが異様に重かった。

「体、痛い」

「寝過ぎだろ」

私が起きたことを確認して、花宮は鼻で笑った。眠れずにいたことが夢の中の出来事だったのだと、未だに残る浮遊感に納得しそうになる。しかし、「悠」と耳元で囁かれる名前、熱くじっとりとした吐息に耳孔を満たされる感覚。

確かに行われた行為だったと生々しく残る感覚が、現実と夢想を紐づかせる。花宮の発する声一つで感覚も感情も体も酷く乱されたのだと、後追いで理解してしまいあまりの恥ずかしさに顔を覆った。


20151025
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