あわよくば、なんて馬鹿げたことを
※腹黒彼女
※社会人

玄関の鍵を閉めてエレベーターに向かうと、既にドア前で待機している人がいた。隣の部屋に住む老年の女性だった。子供は皆成人済で家を出て、今は静かに老後を過ごしているのだそうだ。

「おはようございます」

「あらあら、おはよう。最近寒いわねえ」

金木犀の香りを感じるようになったこの頃、日差しも心もとなくなってきていて朝晩と冷え込むようになった。幾分か日差しのある昼間は社内にいるから、窓から見える景色でそれを推し量るしかない。エレベーターに乗り込みながら間を稼ぐべく口を開いた。

「つい先日、薄着で外出したら夜寒くて、痛い目にあいました」

「夜から冷え込むってことも増えたからねえ」

「ええ、危うく風邪をひきそうになりました」

「あらら、女の子なんだから体冷やしちゃだめよ。気を付けてね」

「はい、そうします」

「節々に響くの、私は。嫌ねえ、冬は辛いわあ」

適当に相槌をうちつつ一階のエントランスを他愛もない会話をしながら歩く。手にしていたゴミ袋を収拾所に置きながら、老年の女性は私に言う。

「そういえば、こんなに早く家を出るの?」

「先日のダイヤ見直しで、一本早く乗らないといけなくなって」

「あらまあまあ、それは大変ね。行ってらっしゃい、花宮さん」

「いえ、私は」

掛川です、と訂正の声はエントランスのドアが閉まる音に重なって届かなかった。



『先輩に捕まった。帰りは遅くなると思う。』

簡潔なメッセージを送ってきた悠が帰宅したのは11時を過ぎた頃だった。覚束ない足取りに優れない顔色。ミネラルウォーターのペットボトルを力なく受け取って、蓋に手をかけたまましゃがみ込む。

「お前、飲めないだろ」

「飲めない」

それなのに付き合わされた。精々飲めてもチューハイ一杯がいいところだと悠は愚痴った。のろのろと立ち上がって上着を脱ぐなりトイレに直行してしばらく出てこなかった。

「うう、気持ち悪い」

出すものを出してもそれでも酔いは回ったまま。化粧を落としてスーツから解放されて楽になったのか、珍しく床に横向きで寝転がる。だらしねえ、と感じはしたが酒の席に連れて行かれ、上下関係がある手前容易に逆らえるわけもなくただその場にいて会話に耳を傾けるしかなかった悠には同情する。同情するだけだが。

「先輩二人が酒豪でさ」

「おう」

「誘われて…いや、強制的に連れて行かれたと思ったら二人でビールにワインに日本酒にどんどん頼んで置いてけぼり食らった」

「で、一人で仕方なく話を聞きながらチューハイだけ飲んだと」

「そう。抜け出そうにも出せなくて」

「お前は下手くそなんだよ、断り方が」

「うるさい。お前らだけで飲んでろ、って言えたらどんなに楽だったかな」

いつだったか甘酒だけで酔っぱらって顔を真っ赤にしたことがあったが、今日は顔色が変わらない。至って素面にしか見えないが、酩酊状態だ。アルコールで些か緩くなったのか口が軽い。

「そういえば、隣の人に名前、間違えて覚えられてた」

徐に指を壁に向かって指して悠は言う。

「なんて」

「“花宮さん”だって。私に向かって花宮って言った。確認くらいしろっつーの」

何の悪い冗談、とくつくつと笑いながら悪態をつく。

「その場で言えば済んだ話だろうよ」

「掛川ですって訂正しようとしたらそのままエントランスのドア閉まっちゃって」

「へえ」

「今度顔を合わせたらまず訂正しないといけないわけでしょ」

ああいう感じのおばさんって勢いあって苦手なんだよね。人の話を聞かない癖に妙に物分かり良くてそれなのに大事なところは間違って覚えてる。深く息を吐いて気怠そうに寝返る。投げ出された腕、脱力して開きかけた手が僅かに爪先に触れる。訂正するのがそんなに手間だと思うなら、別に。

「良いんじゃねえの、そのままで」

「はあ」

何言ってんの?と悠は顔をそのままに視線だけをこちらに寄越す。変に蠱惑的な目で、嗤う。意味の分かっていない子供に対して諭すような優しさの陰に、邪悪とまではいかないが、どこか拗くれた雰囲気が潜んでいた。アルコールの所為でただ反抗的ににらみつけるだけの目つきではない。

「それじゃアンタが掛川さんになるよ、必然的に」

「そうなるか」

「なる。それは嫌なんじゃないの、花宮」

「ああ、確かにそれは御免被るな」

「でしょうよ」

私が花宮になっているのも御免被るの。ふふふと笑えば、薄い胸がそれに合わせて上下する。朝から後ろでまとめていたせいで不規則に波打つ毛先が、鎖骨にかかって影を作る。床に散らばる。前髪の隙間から鼻梁と、瞬きする度にはためく睫毛が見えた。無防備だ。

「掛川だと認識して貰えるように精々頑張れよ、ハナミヤさん」

「やめてよ。全く笑えないんだって、本当に」

それなのに鼻で笑って「何の悪い冗談」とまた言う。ぐるりぐるりと同じ会話を繰り返そうになる悠が体を捩る。ソファに座っている俺の爪先と寝転がる悠の左手が、ぴたりとくっついた。意に介さずぶつくさ文句を垂れ続けるそれを無視して、指の付け根を掴んだ。

「……?」

困惑した表情を浮かべた後、自分の手と俺の足が触れていたということにようやく気がついたらしい。邪魔だったか、と理解したが的外れもいいところだ。馬鹿野郎、悠。

「あ、ごめん」

「気にすんなよ」

「…痛いんだけど」

徐々に締め上げると指先に骨の感覚が伝わり始める。大した拘束でもないのに逃げ出し難い状況になっていることに、悠は暫し呆然として締め上げられる指を見ているだけだ。

「だから、ねえ、何」

訝しく表情を曇らせた悠の手を放って肩を竦めながら、言ってやろうかと喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。俺の意図するところをこれっぽっちも気に掛けず、未だ圧迫されていた感覚の残る指を撫でる。その仕草が、指輪を外そうとしているようにも見えた。

「さっさと風呂でも入って醒ましてこい、この酔っぱらい」

「言われるほど酔ってない」

察することも出来ない癖に、この問答の意味にすら気が付けないで、なにが酔っていないだ。酔っている奴ほど酔ってないと宣う。頭を冷やせ、馬鹿。自分の主張をなかったことにされているのが気に食わなかったのか、悠は再度声を上げた。

「返事くらいしろってば。酔ってない」

俺は悠の反論を背中で聞きながら、寝室のドアを閉めた。


20151018
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