その度何度でも
※腹黒彼女

全力で地面を蹴っても腕を振っても、一歩でも多く前へ行こうともがけばもがくほど、その場からは立ち去れない。

「待ちなさい」

いつから走っていたのか、どれくらいの距離を逃げて来たのか。そもそも誰から逃げている、なんて考える必要はない。あいつの他に誰がいる。

「いい子に出来るわね、悠」

拒絶することも許さない癖に、そうやって私が了承した事実が必要だから、有無を言わせぬ圧力をかけて問う。違う、私はお前の人形じゃない。脳裏でそう主張すると、私の体を拘束する腕が増えた。どす黒く変色しつつある、女の手が無数に。恐ろしくなってそれを振り払って逃げた先、突如として現れた壁に阻まれて行き場を失って、私は振り返るしかなかった。

這いずり寄ってくるそれの群れにただ震えている。陽が沈んで明かりが消失していくように、黒い世界に飲み込まれていく。眼下にぽっかり空いた穴の奥に吸い込まれそうになりながら、だけど必死に正気を保とうとして、壁に追い縋る。掴まろうと必死に腕を伸ばしてもがいた。でも目の前にあるのはただただ平らでのっぺりとした壁で、掴まろうにも、手がかかりそうなものはどこにもない。

「―っ!」

胸倉に黒い手がかかる。肩を掴まれる。足が飲み込まれる。息の根を、止められる。

「嫌だ」

このまま沈むのは嫌だ。落ちて落ちて、永久に上がってこれない奈落の底へ向かうのは、絶対に、嫌だった。助けを求める声は、女の手に阻まれて掠れた。



「やめて」

あまりにはっきりとした声にゆるやかな微睡みから覚醒する。寝ていることは確かだった。寝言にしてはやけにはっきりとしたそれ。次いで呻いたあとに悲痛な声色で叫ぶも、悠の声は掠れていた。

「もう、離して」

何かに怯えている。暴れるように寝返りをうった悠はそのまま慣性に従ってベッドから滑り落ちた。

「−、おい!」

どずんと鈍く重い音が部屋に響く。突拍子もない事態に飛び起きて、床にぐったりとくずおれたまま動きもしない悠の肩を揺さぶった。

「おい、悠」

自分に向かって呼びかけられていることをようやく把握したのか、眼球がこちらに動く。呆然とする表情。瞳からは涙が流れている。

「花宮」

乱れた前髪の向こう側、双眸から筋を作って次々と雫となって零れる涙。それが如何に恐怖を感じていたかの指標だった。拭う間も、その気もない。ただただ溢れて落ちていく。

「助けて」

覚めた夢に魘される。震える手でシャツを掴んで寄りかかり項垂れる悠の黒髪の合間から項が、見えた。ほの暗い部屋の中、それが浮かんで映える。

「悠」

求めた助けはその場しのぎの行為になる。それを理解していないのか。否、していても、それしかない。どんな言葉をかけても何の意味もない。それなら、他に方法など、選択肢など。

「知らねえぞ」

後頭部を掴んで顔を上げさせた。髪を引っ張られた痛みに歪んだ表情で俺を見つめる。屈辱的な格好にも関わらず、悠はプライドも何もかもかなぐり捨てて言った。

「いい」

涙を湛えた目が訴える。ただ生きている感覚が欲しい。夢心地ではない、現実味を帯びた感覚が欲しい、と。



涙が止まらない。

「―あっ」

ベッドに押し付けられて息苦しい。痛みを感じるより前に、肌に感じる圧力が心地良い。これは実際に感じている感覚、体が享受している痛み、熱。開かされた足の間の奥で、熱が蠢く。満たされているはずなのに、もう少し、いや、もっと奥に、と焦燥感が募る。意味もなく、手を伸ばす。腰を掴む花宮の指先。爪が肌に食い込んでいることに、触れて気が付いた。

「はなみ、あっ」

「茶々を入れんじゃねえ」

もとより少し無茶のある体勢を更に窮屈にされて、息が詰まる。それは苦しい、と訴える間もなく突き上げられる。内側を引っかかれて小突かれて、ぞわりと全身の毛穴が粟立つ。耐えようと、背中が反る。些細な抵抗も許すつもりも、息を吐く間も与えまいと、花宮は強引に動き続けた。

圧し掛かる熱に、呼吸音にも声にもならないものが口から漏れた。ぐずぐずになっているそこを敢えて責め立てる。脳の管理下を離れて勝手に筋肉が収縮していくのが、わかる。皮膚の下で駆けまわる快感に振り回され、腰が動いて顎が浮く。

意思と体が支離滅裂になっていくのが手に取るように分かるとでもいうのか。私が自分の体の中のことで精いっぱいになっているところで、花宮が横槍を入れる。鼠蹊部に手を添えて、更に足を拓けと言う。

「待っ」

「いい、って言ったのはお前だろ」

言った。でも、少しでいいから、猶予を。内臓の奥の奥で、それが弾けるのは時間の問題だ。腹部が痙攣し始めている。足を突っぱねて、腰を捩って逃げたかった。腰を掴まれて一層奥まで突き立てられた熱が、出て行って、またすぐに入ってくる。皮膚を汗なのか判別つかないものが伝う。

痛い、熱い、気持ちいい、水っぽい音、苦しい、冷たい、花宮のにおい、皮膚を抉る歯の硬さ、髪の毛の柔らかさ。五感が満たされている。涙で視界が揺らめく。水族館の、水槽の向こう側が歪んで見えた時のように、花宮の輪郭が大きく崩れる。目尻から流れていって、人の形を成したそれがはっきりと現れる。

これは現実だ。乱暴に突き上げられて内臓を掻き乱されているのに、それを頭のどこか遠くの方で安堵している自分がいた。もっと欲しいとさえ思えた。

「はなみや」

うわ言のように名前を呼んだ。茶々を入れるなと振り払われた手を、また伸ばす。縋っていたい、掴まっていたい。無我夢中でしがみついて漏れる声もそのまま、穿たれる感触に身を何度も委ねた。



脱力したままで反応の乏しい悠に毛布をかけてやると、泣き腫らした赤い目でこちらを見遣る。

「文句はなしだからな」

「文句?」

明言はしない。助けを乞われた故にした行為の無理矢理さ。悲鳴に近い啼き声に耳も貸さず力任せに貫いた。もとより気に掛けることが少なかったが事情が事情だった。少しは思いを汲んでやっても良かったようにも思うが、悠の言葉にそれが杞憂であるとすぐに分かる。

「いいよ」

全部、あれで良かった。暴力に近いそれで痛みを感じることに意味があった。後付けなどいくらでも出来るが、それでもあれで良かったと悠は言う。数刻前の行為を肯定した悠はベッドの端に座る俺を見る。

「もう、起きる?」

ただ余韻が恋しい。不安そうな悠を見て舌打ちをうってベッドに横たわる。当人はこちらに背を向けて肌を寄せる。

「すぐに起きるからな」

「ん」

解決にはならない。長い時間をかけて、こいつは乗り越える必要がある。乗り越えようとする度に魘されて怯えて泣き震えるなら、実感を与えてやる。


Until It Sleeps
2015.10.12
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