膝をつきあわせて
※陽泉マネージャー
数学のテキストと問題集とを睨めっこしていると、隣に座っていた劉が唸るようにして言った。
「漢字が憎いアル」
「え、いきなりどうしたの」
「悠、聞いてもいいアルか」
「うん?」
頭を抱えるほどに悩んでいる後輩から懇願されたら先輩として黙っていられない。それにもともと数学が得意でないから数式を見ていると目がチカチカする。息抜きも兼ねて、相談に乗ってあげようじゃないか。ついでに少しお喋りしても許されるんじゃないかな。息抜きという名のお遊びに発展しても許して欲しい。
「答えられるか分からないけど、いいよ」
「日本語は、一つの漢字でどうしてこんなにたくさん読み方が存在するアル?」
「へっ」
「一体何通りの発音させるのか、奇怪アル」
「奇怪なんて言葉がよく出てきたね」
今時の高校生は奇怪って言葉を使わないと思うよ、と相槌を打ちながら考えた。その間にも、問いに対する答えを待って劉は私をじっと見下ろしている。
「何でアルか」
劉は沸いて出た疑問を拭って欲しいだけ(知識欲とでも言えば良いんだろうか)なんだけど、身長とさほど柔和ではない出で立ちと表情に気圧されてしまった。とんでもない威圧感がある。
「えー…」
「中国の漢字は読み方一つだけど、日本は三つ四つあるのが当たり前みたいアル」
「えーっと…」
「何でアルか」
「何でだっけ…」
「音読みか訓読みかの違いじゃねえの?」
劉の隣で問題を解いていた福井の冷静な声。劉の質問にしどろもどろになっていた私からすれば天からの助けの如く。このまま福井に説明して貰うことにしよ。
「福井先輩、そこのところもっと詳しくお願いします」
「先輩言うな。詳しくって言われてもそれ以上は知らねえんだけど」
「えー」
「調べればいいだろ」
監督にバレないようにそーっとやれば大丈夫だって、と福井に促されるままジャージのポケットから携帯を取り出した。言葉を並べて検索すればすぐさま情報が手に入る。携帯がなかった時代って不便だったんだろうなあ。あ、辞書があったから手間の問題よね。検索結果が上から順に列挙されるページを手当たり次第に開いて、参考になりそうなところを見つけた。“生”という字が含まれる単語や慣用句が一覧になっている。携帯のさして大きくない画面を三人揃って覗き込む。
「“芝”と“生”で何て読むアル」
「“しばふ”だな」
「はあ?“生”なのに“ふ”って読むアルか」
怪訝そうに唇を尖らせながら劉は言う。
「これは?」
“生地”の文字を指さすと、劉は眉間に深い皺を作ってしばらく考え込んだ後。
「い、いきち」
「これは“きじ”」
劉の眉間に皺が寄った。
「“生”と“業” は?」
「いきぎょう」
「“なりわい”」
「意味がわかんねえ」
「あ、語尾からアルが消えた」
シャーペンをぽいっと放り投げて不貞腐れる劉は体だけが大きい子供だ。駄々っ子みたいでちょっと面白い。
「蕎麦の前に“生”ってついてるやつ、あれ何て読むんだ」
「“きそば”じゃないのかな」
「き…」
とうとう劉が頭を抱えて机に突っ伏した。さっきまで私を見下ろしていた劉が小さくなってる。可愛い。
「じゃあこれは」
「“なま”ビール」
“生ビール”の文字を指すと、劉はサラッと即答した。問題が簡単過ぎたね。
「これはさすがに読めるだろ。CMとかでよく聞くし」
「…ナマっていけない感じがするアル」
「何で?」
「福井から借りたAVに『ナマでイイことしよう』って書いてあったアル。『生姦』とか『ナマ乳』とか」
「馬鹿、なんで言うんだよ!」
「やだ福井ってばなんつーものを劉に貸してんの!?」
「おいそこ煩いぞ!」
騒いで監督にこっ酷く怒られた上、正座して説教を食らったので足が痺れて三人揃ってしばらく動けなかった。
20150130